第81話 昭和から平成へ
年の暮れが近づいても、町はどうにも落ち着かなかった正月用品を並べている店はあるし、歳末の売り出しをやっている商店街もある。だが、いつもの年のような浮き立ち方はない。
テレビでは陛下のご容体が報じられ、祝い事を控える空気ももう珍しくなくなっていた。
政雄もそれは感じていたが、だからといって何か特別なことを考えていたわけでもなかった。
仕事納めがあり、年が明ければ正月が来て、休みが終わればまた出勤する。
それは変わらない。昭和六十三年も、もう残りわずかだった。
仕事納めを過ぎると、家の中も自然と年越しの支度になった。
毎年やることは決まっている、大掃除を手伝い、夜は年越しそばゆでる。
鍋の湯気で窓が白く曇り、少し開けた窓から冬の冷気が入ってくる。
母が用意した具を並べ、茹で上がったそばをどんぶりに移す。
その手順も、もう体が覚えている。
食卓に着くと、テレビはついていたが、賑やかな番組も今年はどこか上滑りして見えた。
それでも、そばをすすってしまえば大晦日は大晦日だった。
年が変わるからといって、急に何かが変わるわけでもない。
翌朝、台所から雑煮の匂いがしてきた。
居間へ行くと、母はもう支度を終えていて、父は届いた年賀状を見ていた。
外はよく晴れていて、元日の光だけは例年と変わらず明るかった。
雑煮を食べ、正月らしい挨拶を交わしてから、近くの神社へ出かけた。
参道にはそれなりに人が出ていたが、押し合うほどではなかった。
吐く息は白く、石段のあたりだけ空気がひときわ冷たかった。
賽銭を入れ、手を合わせる。
今年は波乱の幕開けになる、家族が無事に過ごせる増すようにと願った。
家に戻って昼を済ませると、政雄は自室に戻り、机の前に座った。
最初に口を開いたのは仕事担当だった。
「今年も双葉銀行の仕事は増えます。店舗外ATMの試験運用はもう始まっていますし、その先は他行との接続や利用範囲の話になります。BANCSはすでに動いていますし、地銀側にはACSもあります。
双葉銀行がどこまで踏み込むかで、NOOPの役割も変わります。今年は会議への同席や行内向けの報告も増えると見ておくべきでしょう。ですから、今年は仕事を優先してもらいます」
生活担当がすぐに割って入った。
「いや、ちょっと待ってくださいよ。家の方も気を抜けません。父さんも母さんも今は元気ですが、年を取れば去年までと同じではいかないんです。姉さんのところだって見ておく必要があります。景気がいいと言って浮かれている時ほど、妙な金の話に乗る人間は出ます。今年はそういうのが目につくはずです。ですから、家の方に去年より気を配る時間を取ってもらわないと困ります」
そこへ恋愛担当が口を出した。
「仕事も家族も大事なのは分かります。でも、恋愛にはタイミングってものがあるでしょう。良子さんとは去年の夏から秋にかけて何度も会って、年末にも会っているんです。ここで仕事だ家族だと言って後回しにするのは違います。今年も良子さんとの時間は譲れませんよ」
仕事担当が不満そうに言った。
「譲れませんよと言われても、平日の大半は仕事です。双葉銀行の中での立場も少しずつ変わってきています。今年は気を抜けません」
生活担当も負けていなかった。
「仕事が大事なのは分かりますが、家で何かあったらそちらは後回しにできませんよ。親も姉さんのところも、去年より注意が必要です」
恋愛担当が言い返した。
「家が大事なのも分かります。でも、それを理由に先送りばかりしていたら、良子さんとの関係はそこで止まります。今年はそこを前進させなくてはいけません」
三人がそれぞれ言いたいことを言い終えたところで、議長の政雄が口を開いた。
「それぞれの意見も出そろったようなので纏めようか」
三人とも黙った。
「仕事については、今年もしっかりやる。双葉銀行にいる以上、手を抜くわけにはいかないし、今年は学べることも多いはずだ。そこはきちんと吸収していこう」
仕事担当は少し不満そうだったが、反対はしなかった。
「生活については、去年より注意して見る。父さん母さんも姉さんのところも、何もないのがいちばんいいが、景気がいい時期は妙な話も出やすい。そこは見落とさないようにする」
生活担当はそれで納得したようだった。
「良子さんのことは、いい関係が築けていると思う。これは大事にしたい。かといって今すぐ結論を出せる問題でもないので、そこは急がない。今年はこの関係を大事に育てたいと思う」
恋愛担当も、それならよしとした。
三つの担当すべてを満足させる答えではなかったが、異論はそれ以上出なかった。元日の午後にここまで決めれば十分だった。
自室を出ると、居間では母がみかんをむき、父は返事を書く年賀状をより分けていた。
正月休みはまだ数日ある。だが政雄の中では、もう動き出していた。
昭和六十四年は、そうして始まった。1989年1月7日に昭和が終わり、翌1月8日に平成へ改元されることになるが、この元日の政雄にとって主題だったのは、まず自分の一年をどう使うかだった。
*
正月休みが明けて仕事へ出ると、さすがにまだ本調子ではない者も多かった。
年始の挨拶があちこちで交わされ、机の上には休み前からの書類がそのまま積まれている。
それでも二、三日もすればいつもの日常に戻る。
銀行の仕事は、正月だからといって待ってはくれなかった。
NOOPの部屋でも事情は同じで、仕事始めの朝こそ少し緩んだ顔が見えたものの、田口が今週の予定を確認しはじめるころには、もういつもの調子に戻っていた。
店舗外ATMの試験運用は年をまたいで続いているし、その先の話も進んでいる。
利用状況の確認、障害報告の整理、設置先ごとの差の検討、他行の動きの確認と、年が変わったからといってやることが減るわけではなかった。
午前中のうちに、安東が机の間を回ってきた。政雄の席の横で足を止めると、いつもの調子で言った。
「山本君、午後の会議は出てもらうよ。店舗外ATMの現場を見ている人間の話もあった方がいいからね」
「分かりました」
「気負わなくていい。聞かれたことに、そのまま答えてくれれば十分だ」
安東はそれだけ言うと、次の机へ移っていった。
午後、会議室に入ると、もう何人かは席についていた。システム課、営業寄りの部署、運用に関わる担当者、それにNOOPから安東と政雄。
試験運用中の店舗外ATMについて、現状の確認と今後の扱いを話し合う場だった。
会議が始まると、まず設置先ごとの利用状況が確認された。
件数の多い場所と伸びの鈍い場所、時間帯による偏り、障害の発生状況、現場から上がってきた苦情や要望。
出金利用が中心なのは変わらないが、駅前とオフィス街では昼休み前後に利用が偏り、住宅地寄りでは夕方以降が多いなど、置いた場所によって使われ方にはかなり違いがあった。
政雄は求められたところだけ口を開き、実際に見てきた範囲で、利用者の流れや混み方、現場で起きた細かな不都合を説明した。
機械の性能だけでなく、設置場所そのものが利用のされ方を左右する。
その感覚は、現場を見ている者の方が持ちやすかった。
「都銀間ではBANCSが動いていますが、今後ほかの都市銀行との共同利用を広げるなら、設置場所ごとの利用の違いはもっと見た方がいいですね」
システム課の担当者がそう言うと、別の部署の年長者が腕を組んだ。
「使えるようにすることと、実際に使われることは別ですからね。都銀同士で出金をできるようにしたからといって、それだけで利用が増えるとは限りません」
何人かがうなずき、話はそのまま、双葉銀行が今後どこまで他行との共同利用を広げるかという方へ移っていった。
都銀側にはBANCSがあり、地銀側にはACSがある。郵便局の貯金網に対抗するには、銀行同士がある程度組まなければ不利になるという認識は、もう共有されているようだった。
もっとも、手数料をどうするか、どこまで機能を持たせるか、負担をどう分けるかとなると話は急に鈍くなる。そのあたりは、必要だと分かっていても簡単には決まらない。
政雄は端の席でそれを聞きながら、機械を置いて動かすところまでは進んでも、その先の広がりはまた別の話なのだと思っていた。郵便局に対抗するために銀行同士が協力するにしても、実際にはそれぞれ都合がある。会議の席で何度も同じところへ戻るのは、そのせいなのだろう。
会議の終わり近くになって、システム課の担当者が政雄の方を見た。
「山本君、現場で見ていて気になる点はありますか」
急に振られたが、政雄は少し考えてから答えた。
「利用者は、銀行ごとの事情で機械を見ているわけではありません。使えるなら使いますし、使いにくければ使わなくなります。場所によっては出金だけで十分かもしれませんが、駅前や繁華街なら、残高照会くらいまでは最初から求められてもおかしくないと思います」
言い終えると、会議室の中が少し止まった。やがて部長代理が口を開いた。
「まあ、利用する側から見ればそうなるか」
その一言で場はまた動き出し、話は次の項目へ進んでいった。
会議が終わって部屋を出ると、安東が廊下で政雄に声をかけた。
「山本君、さっきの話でよかったよ。現場で見ている人間の言い方になっていた」
「ありがとうございます」
「会議の場では、ああいう話が一つ入るだけでも違う。次も頼むことがあると思うから、そのつもりでいてくれるかな」
「はい」
安東は軽くうなずくと、そのまま田口にも声をかけて先へ歩いていった。
NOOPに戻ると、田口が椅子を半分回して政雄を見た。
「どうだった」
「他行との共同利用の話になると、やっぱり簡単には進みませんね。必要だという認識はあっても、費用や機能の範囲になると急に慎重になりますね」
そう答えると、田口は小さく笑った。
「そのあたりは、どこも同じだろうな」
それから机の上の書類に目をやった。
「忘れないうちに、出た話だけ纏めておいた方がいいぞ」
「はい」
席に戻りながら、政雄は今年もこういう年になるのだろうと思った。会議に出て、聞いて、戻れば報告を書く。去年より少し見える範囲が広がったぶん、気を抜く時間はむしろ減っていた。
*
仕事始めから一週間ほど過ぎたころ、政雄は良子と会う約束を取りつけた。平日の夕方に時間を合わせ、駅前の喫茶店で落ち合うことになった。
政雄が店に入った時は、まだ良子は来ていなかった。
席へ案内され、入口の方に目をやっていると、しばらくして扉が開いた。
良子は店内を見回し、政雄を見つけると少し急ぎ足でこちらへ来た。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たところ」
良子は席に着きながら、すぐに笑った。
「たいてい先に来てる人は、そう言うよね」
「それが様式美ってやつだよ。ハハハ」
良子は肩を揺らして笑った。
「何それ。新年早々、ちょっと面白いんだけど」
注文を済ませると、二人はそのまま正月の話になった。
「お正月どうだった?」
「家で年を越して、雑煮食べて、神社行って終わり。毎年同じ」
「いいじゃない。家族仲がいい感じがする」
「そっちは?」
「うちも似たようなものね。親戚が来たりするけど、基本家でのんびり。京子は途中から友達の方に行っちゃったけど」
「京子ちゃんらしいね」
「でしょ」
飲み物が運ばれてくると、話はそのまま仕事の方へ移った。
「仕事はもう忙しいの?」
「忙しい。年が変わったからって楽になるわけじゃないし」
「銀行ってそういう感じなんだ」
「そっちは?」
「図書館も年明けはそれなりかな。返却もあるし、休みの間に借りてた人がまとめて来るの」
「それはそれで大変そうだな」
「でも銀行よりは静かだと思う」
良子はそう言って笑った。
それから話は、正月番組のこと、寒さのこと、休みの間に読んだ本のことへと移っていった。
良子は年末に古い外国映画をテレビで見たと言い、そこからまた映画の話になった。
「あのときね」
良子が少し身を乗り出した。
「古い映画の話、覚えててくれたの、ちょっとびっくりしたのよね」
「そんなに意外だった?」
「意外だった。打ち上げで話したことなんて、普通そこまで覚えてないでしょ」
「いや、あれは印象に残ってたから」
「どうして?」
そう聞かれて、政雄は少し考えた。
「君の話しが楽しかったからかな」
良子は一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「そういうこと、たまに平気で言うのね」
「変なこと言った?」
「変ではないけど」
良子はカップに手を添えたまま、少しだけ視線を落とした。
「でも、うれしい」
政雄は返す言葉に少し迷ったが、口を開いた。
「そう思ってもらえたなら、よかった」
「うん」
良子は小さくうなずいた。
しばらくして、良子がまた政雄を見た。
「今年はどんな年にしたいとかある?」
政雄は少し考えてから答えた。
「例年に増して、しっかりしていたいとは思ってる」
「しっかりって?」
「最近は好景気で世間が浮かれてるでしょう」
「うん」
「そう言う時こそ雰囲気に踊らされないでってことかな」
「ふうん」
そのまま少し間を置いてから、良子は言った。
「私はね、人とのつながりを大事にしたいなって思ってる」
政雄は良子の顔を見た。良子はやわらかい表情のまま、こちらを見ていた。
「それは、大切だね」
「でしょ」
良子はそこで、はにかんだように笑って。
「だから、忙しいのは分かるけど、仕事ばっかりにしないでね」
「気をつける」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そこまで言うと、良子は満足したようにうなずいた。そして急に話は飛んだ。
「おせちって、子供のころはあんまり好きじゃなかったのよね」
良子がそう言って笑った。
「今は平気なの?」
「平気というか、食べればお正月だなとは思うかな。でも、ずっと続くと飽きるけど」
「それは分かるな」
「山本さんは?」
「うちは雑煮の方が正月って感じかな」
「へえ。どんなの?」
そこで少し雑煮の話になり、餅の形や味つけの違いの話まで広がった。良子はそういう何でもない話でも楽しそうに聞くので、政雄もつい長くしゃべってしまう。
「そういえば」
良子がカップを置いた。
「前に京子が、山本さんはお店をいろいろ知ってそうだって言ってたの」
「京子ちゃんが?」
「うん」
良子は少し笑った。
「以前は、営業でいろいろ回ってたからって」
政雄は少し考えてから言った。
「いい店と言われても困るけど、中華は好き?」
「うん、点心とか中華かゆとか」
「それなら、今度休みの日に中華街に行ってみない?」
「私、中華街行ったことないから行ってみたい」
「じゃあ、そのうち行こうか」
「行きたい」
その返事があまりに素直だったので、政雄は気が楽になった。
「休日の昼からでも大丈夫?」
「休みの日なら、大丈夫」
「じゃあ、日にちはまた合わせよう」
「うん」
良子はそこで少し楽しそうな顔をした。
「中華って言われたら、急におなか空いてきた」
「まだ早いだろ」
「でも、そういうものじゃない?」
「それも様式美だね」
二人はそこでまた笑った。
店を出て改札の近くまで一緒に歩きながら、政雄はさっき決まった次の約束を思い返していた。
喫茶店で会って少し話すだけではなく、次は食事に行く。
去年から続いてきた関係をもう半歩先へ進めるようにも思えた。
「じゃあ、日にちはまた連絡するよ」
「うん。待ってる」
良子はそう言って改札の方へ向かい、途中で一度だけ振り返って手を上げた。
政雄も手を上げ返して、それから自分の帰る方へ歩き出した。
今年最初の時間としては、悪くなかった。




