第80話 古い映画とシンパシー
1988年1月、双葉銀行でも店舗外ATMの試験運用がようやく始まった。数か所への設置ではあったが、政雄たちNOOPにとっては、むしろそこから先の方が仕事だった。
動き始めた端末の仕様状況を追い、次に何ができるかを考える。
他行との提携もあれば、他業種と組む話もある。
細かな中身はいろいろあったが、仕事は前へ進んでいた。
春になると、町全体がいよいよ浮ついてきた。株だの土地だのという話が、本気で交わされている。
銀行の内側にいても外にいても、その熱気は嫌でも目に入った。
だが政雄は、そういう話にわざわざ口を挟むことはしなかった。
ただ、あまりに好景気の話を皆が語るのを見ると、かえってそちらの方が印象に残った。
仕事が忙しくなれば、季節は案外早く過ぎた。
夏が近づくころには、NOOPに移ってから一年が経とうとしていた。
日々の仕事に追われる一方で、サークルの方も細々と続いていた。
夏のイベントが決まると、練習の空気も少しだけ華やいだ。
*
当日、会場は思っていたより人が多かった。
出演する側はどうしても落ち着かず、控えの時間も妙に長く感じる。
政雄は譜面を見返したり、楽器の具合を確かめたりしながら時間をつぶしていたが、ふと客席の方に目をやったとき、見覚えのある顔を見つけた。
良子だった。
京子の応援に来たのだろう。銀座で一度会っただけの相手の顔が、こんなところで先に目に入るとは思っていなかった。
良子の方も気づいたらしく、軽く会釈してきた。政雄もつられて頭を下げたが、それだけで妙に落ち着かなくなった。
演奏が終わったあと、打ち上げには京子に連れられて良子も顔を出した。
店は駅前の気軽な居酒屋で、店内は蒸したように暑く、冷房もあまり効いていなかった。
あちこちで演奏の出来だの失敗だのという話が飛び交い、いつものように賑やかな席になった。
政雄は最初、京子と少し話したあと、たまたま近くに座った良子と言葉を交わすようになった。
音楽の話から入り、本の話になった。
好きな作家の名前をいくつか挙げていくうち、案外話が途切れない。
良子は落ち着いていて、話すときにも相手の言葉を急いでさらわない。
その間合いが政雄には心地よかった。
「映画も好きなんですか」
そんな流れで政雄が聞くと、良子は少し考えてからうなずいた。
「ええ。古いものもけっこう見ます」
そう言って、いくつか題名を挙げた。その中に「追憶」があった。
政雄はその名を聞いたとき、少しだけ引っかかった。前世の正男だったころ、まだ若い時分にレンタルビデオで見た覚えがある。細かなことを今すぐ並べられるわけではないが、作品の印象だけは不思議にはっきりしていた。
「十五年も前の作品ですけど、見たことありますか?」
「前に一度だけ」
そう答えると、良子は小さく笑った。
「私は、テレビで見ました。封切りのころはまだ子供でしたから」
その夜はそれで終わった。打ち上げがはねるころには終電を気にする時間になっており、駅で別れてしまえば、またいつもの日常に戻るはずだった。
けれど最近、通勤電車の窓から見えた名画座の看板に、政雄は思わず目を留めた。通り過ぎる一瞬のあいだに「追憶」の文字が見えた気がして、次の休みにわざわざその前まで足を運んだ。上映日はすぐに分かった。
それから数日して、政雄は良子の勤め先へ電話を入れた。取り次ぎを待つ時間が妙に長く感じた。受話器の向こうで良子の声がしたときには、かえって変に落ち着いてしまった。
「この前話していた映画なんですが」
そこまで言えば、あとは早かった。名画座で近いうちにかかること、もし都合がつくなら一緒にどうかということ。良子は少し驚いたようだったが、やがて静かな声で「ええ、ぜひ」と言った。
電話を切ったあと、政雄はしばらく受話器を見ていた。何をそんなに急いだのか、自分でもよく分からなかった。ただ、そのときは誘わずにいられなかった。
待ち合わせは、駅を出てすぐの古びた時計台の下だった、夏の終わりとはいえ夕方の空気にはまだ暑さが残っていた。
先に着いた政雄が人の流れを眺めていると、ほどなく良子がやって来た。
白いブラウスに落ち着いた色のスカートで、肩にかけた鞄も飾り気がない。
その姿を見た瞬間、政雄は少しだけ背筋を伸ばした。
「お待たせしました」
「いや、俺も今来たところです」
そんなやり取りをしてから、二人で名画座へ向かった。
通りに面した看板は色あせていて、入口のガラス扉にも新しさはなかった。
中へ入ると、冷房の風に混じって、古い椅子やカーペットの匂いがわずかにした。
もぎりの先へ進み、並んだ席に腰を下ろすと、場内はまだ少し明るく、前の方ではもう何人かが静かに座っていた。
隣に良子がいる。それだけで、政雄は映画が始まる前から少し落ち着かなかった。
話題を探せば何かしら出てきそうだったが、無理に言葉を継ぐ気にもなれない。
やがて照明が落ちると、二人とも自然にスクリーンの方を向いた。
映画が進むうち、場内はしんと静かになっていった。終盤に差しかかるころには、どこかですすり泣く気配も聞こえたが、政雄はそれに気づきながらも、スクリーンのすべてを見逃すまいと凝視していた。
ラストの場面では、周りには涙をぬぐう人がいたが政雄は前を見たままだった。
そこでふと、横にいる良子の気配が気になった。
そっと目を向けると、良子もまた、涙を流すでもなく、じっと前を見ていた。
あぁこの人も同じだ。
それだけだった。説明のつかない納得が、すとんと胸に落ちた。
映画が終わって場内が明るくなると、二人は少し間を置いて立ち上がった。外へ出ると、夜風は昼よりもいくらかやわらいでいた。駅へ向かう道を、二人は並んでゆっくり歩いた。
「よかったですね」
良子がそう言った。
「ええ」
政雄もそれだけ返した。
また少し歩いてから、良子が映画の中のある場面を短く口にすると、政雄も同じ箇所が気になっていたことだけを答えた。
それ以上、詳しく言葉を重ねることはしなかった。二人とも、それぞれに映画の余韻を噛みしめているようだった。
会話は多くなかった。だが政雄には、それが少しも気にならなかった。
むしろ、言葉を尽くさないままでも、何かが前より分かったような気がしていた。
良子を家の近くまで送ると、彼女は立ち止まって政雄を見た。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。付き合ってもらって」
良子は小さく笑った。
「また、何か面白いものがあったら教えてください」
「ええ。また」
それは約束と言ってよかった。
政雄はその言葉を胸の中で確かめるようにしながら、来た道を引き返した。夜道を歩く足どりは、行きよりも少し軽かった。
そのあと、政雄と良子はときどき会うようになった。
毎週というほどではない。どちらかが仕事で都合がつかなければ、そのまま二、三週間あくこともあった。
けれど、一度きりで終わる気配はもうなく、名画座で古い映画を見たこともあれば、喫茶店で長く話したこともある。
休みの日に神保町を歩き、古本屋をのぞきながら半日過ごしたこともあった。
良子は、よくしゃべる方ではなかった。だが黙っているのが苦になる相手でもなかった。
こちらの言葉を急がせず、思いつきだけで話を広げもしない。
その代わり、何か口にするときには、自分の中でちゃんと形にしてから出している感じがあった。
政雄には、そういうところが心地よかった。
音楽の話をしても、本の話をしても、良子はむやみに話を合わせたりはしなかった。
分からないものは分からないと言うし、違うと思うときには言い方を選びながらもちゃんとそう言った。だから政雄の方も、変に気を回さずに済んだ。
*
九月に入っても、残暑はなかなか引かなかった。
平日の仕事は相変わらず忙しかったが、試験運用の方はひとまず形になり、次に向けた話も少しずつ動き始めていた。
政雄が直接前に出る場面ばかりではないにしても、NOOPに来てからやってきたことが、ようやく線になり始めている感じはあった。
町は更に景気の熱を帯びていた、株や土地の話は相変わらずどこでも聞こえたが、政雄にとっては、もうそれは驚くようなものでもなかった。
騒いでいる人間は騒ぎ続けるし、仕事は仕事で進んでいく、それだけのことだった。
*
十月になり、ようやく風が少し涼しくなったころ、政雄は会社帰りに良子と待ち合わせて、神田の古い喫茶店に入った。
仕事のあとで少し疲れてはいたが、店の奥の席に向かい合って座ると、不思議と気分は落ち着いた。
良子はいつものように落ち着いた調子で、職場のことを少しだけ話し、それから最近読んだ本の話になった。
政雄はコーヒーのカップを置きながら、ふと、もうこの人と会うのが当たり前になりかけていることに気づいた。
夏の終わりに映画へ誘ったときの、あの妙にせっかちな気分はもうなかった。
会えるかどうかを気にする代わりに、次は何を話そうかと考えるようになっている。
それは派手な変化ではなかったが、政雄にはその方がしっくりきた。
良子が何か話しているあいだ、窓の外をサラリーマンが何人も足早に通り過ぎていった。
世の中全体が前のめりに走っているように見えるが、政雄の関心はもう少し別のところにあった。
仕事は忙しい、先のこともある。だが、それとは別に、自分の時間の中へ自然に入ってきた相手がいる。
NOOPに移って一年。仕事の方は果てしないが、私生活の方でも新しい流れができていた。
1988年の秋は、政雄にとってそんな季節になっていた。




