第8話 人生初のラブレターと、ダメ金の夏
時間は少し飛んで、中二の初夏。
中間テストが近づいて、クラス全体がそわそわし始めた頃。
前から三列目、窓側から二番目の席の女子が、少し落ち着かない顔をしていた。
佐伯。
真面目でおとなしくて、いつもノートをきれいに取っているタイプだ。
なのに、ここ数日、授業中に教科書のページを間違えたり、
ノートの隅に意味不明な落書きをしては慌てて消したりしている。
「ここさ、どこからどこまで出るか分かりにくいよな」
数学の問題集を開きながら、俺は何でもないふうに話しかけた。
「あ、うん……」
佐伯は、少し驚いたように顔を上げる。
「この先生、去年も似たようなとこ出してたからさ。ここからここまでは、ちゃんとやっといたほうがいいと思う」
そう言って、自分のノートを見せる。
例題の横に、「ここテスト出そう」「このパターン要注意」と書き込んである。
「……すごいね。こんなに書いてるんだ」
「暇だったんだよ」
前世で培った「試験勉強のコツ」を、中学生レベルに落としただけだ。
「よかったら、これ貸そうか?
全部真似しろとは言わないけど、“ここはやっとけ”って印にはなると思うし」
「え、いいの?」
「別に減るもんじゃないし」
ノートを一冊渡したのがきっかけで、
放課後に数回、一緒に図書室で勉強することになった。
佐伯は、真面目で飲み込みも早いけれど、要領が少し悪いタイプだった。
問題文のどこを読めばいいか、どこで線を引けばいいか。
そんなところから、一緒に整理していく。
テストが終わって、順位が張り出された日。
「ありがとう。おかげで、この前よりちょっと上がった」
廊下でそう言って、佐伯は小さく頭を下げた。
「それはよかった」
それきり、特に何もなく時間は過ぎていくと思っていた。
──そのノートが、返ってくるまでは。
六月のある放課後。
「これ、返すね」
佐伯が、例のノートを抱えて席にやってきた。
「ありがと。役に立ったなら何より」
「……うん。すごく」
短い返事と一緒に、ノートが俺の机の上に置かれる。
チャイムが鳴り、帰りの会が終わる。
クラスメイトたちがぞろぞろと教室を出ていく。
俺もカバンをまとめようとして、ふとノートの厚みがおかしいことに気づいた。
ページの間に、何かが挟まっている。
教科書を閉じる音、椅子を引く音、廊下の足音。
そのざわめきの中で、俺はノートをそっと開いた。
真ん中あたりのページ。
ルーズリーフが一枚、きれいに二つ折りにされて、挟まっている。
心臓が、ほんの少しだけ、跳ねた。
前世も合わせて、六十年以上生きてきて。
人生で、こんなシチュエーションに出くわしたのは初めてだった。
とりあえず、まわりに人がいないのを確認してから、その紙を抜き取る。
折り目に沿って開くと、丁寧な字が並んでいた。
『山本くんへ』
最初の一行で、だいたいの内容は分かる。
それでも、ちゃんと最後まで目を通した。
勉強を教えてくれてありがとう、とか。ノートがすごく分かりやすかった、とか。
そのあとに、「もしよかったら」の一文が続く。
背伸びした言い回しの「好きです」も、そこにあった。
紙を持つ指先に、じんわりとした重みが乗る。
──うれしいな。
まず、普通にそう思った。
前世では、こんなまっすぐな言葉を、誰からももらったことがなかった。
同年代の女の子が、震える手で書いたであろう文字を見ていると、胃のあたりから、じんわりと温かいものが上がってくる。
それと同時に、別の声も頭の中で鳴っていた。
──いや、待て。落ち着け。
相手は中学二年生。こっちは中身、還暦オーバーの爺さんだ。
どう見ても、孫候補だ。
かわいい。
一生懸命だ。
その気持ち自体は、本当にありがたい。
でも、ここで「うん、いいよ」と返事をした瞬間、自分の中の倫理観が、首を吊りにいく。
ニュースで見たことのある、ああいう顔が頭をかすめる。
オッサンのくせに、中学生女子に「好きだよ」とか言い出すやつだ。
──犯罪だろ、それは。
俺は深呼吸をひとつして、紙をそっとたたんだ。
断るにしても、これは雑に扱っていいものじゃない。
子どもが全力で書いた「初恋文」だ。
それを、笑い飛ばしたり、誰かに見せびらかしたりするのは、さすがにできない。
──ちゃんと読んで、ちゃんと断ろう。
そう決めて、ノートの間にもう一度、手紙を挟んだ。
翌日、放課後の図書室。
参考書の棚の陰で、佐伯が一人でノートを開いていた。
「佐伯」
できるだけ普通の声で呼ぶ。
「……なに?」
顔を上げた彼女は、いつもより少しだけ緊張した表情をしていた。
「ノート、ちゃんと返してくれてありがとう」
「あ、うん……」
言葉が尻すぼみになる。
「ちょっと、話してもいい?」
窓際の、ほかの生徒から少し離れた席を指さす。
ふたりで腰かけて、少しだけ間を置く。
「この前の、ノートのことなんだけどさ」
「……うん」
佐伯の指先が、机の端をぎゅっとつかむ。
「すごく、うれしかった」
それは嘘じゃない。
むしろ、かなり本音に近い。
「そんなふうに思ってもらえるほど、俺のノートが役に立ったんだなって」
「……」
佐伯が、ほんの少しだけ目を丸くした。
その瞬間、「好きです」の文字も、ちゃんと受け取ったことは伝わったと思う。
「でもさ、いま誰かと“そういうの”するつもりは、俺、ないんだよね」
“付き合う”とも“彼女”とも言わない。
曖昧な言葉で包む。
「部活もあるし、勉強も、ようやくちょっとマシになってきたとこだし。
これでどっかに気を取られたら、多分、全部中途半端になるから」
本当のいちばん大きな理由は別にある。
中身がおっさんだから、というやつだ。
でも、それをそのまま言えば、相手の尊厳を粉々にする。
「だから、佐伯がどうこうっていうんじゃなくてさ。
俺のほうの問題で、“いまはごめん”なんだ」
そう区切ると、佐伯はうつむいたまま、小さくうなずいた。
「……うん。
なんか、そんな気は、してた」
その声が、思っていたよりはるかにしっかりしていたのに、少し驚く。
「でも、ちゃんと言わないと、後悔するかなって思って」
顔を上げた目の端が、ほんの少しだけ赤い。
「勉強、教えてもらったのは、本当に嬉しかったから。
それは、これからも…たまに、お願いしてもいい?」
「もちろん」
そこは、即答だった。
「俺でよければ、いくらでも、ノートも、また貸すよ」
「……うん。ありがとう」
図書室を出ていく背中を見送りながら、胸の中が、変な具合に軽くて重いことに気づく。
恋愛のときめきとは、たぶん別種のものだ。
でも、それでもいい。
前世でも今世でも、誰かから真っ直ぐな好意を向けられて、それに対して、できるだけ誠実に応えることができたなら。
俺にとって、それは十分すぎるくらいの事件だ。
家に帰って、自分の机の引き出しを開ける。
カバンの奥から、あのルーズリーフを取り出した。
もう一度、最初から最後まで読む。
字はやっぱり震えていて、言い回しも少しぎこちない。
けれど、その全部が、たしかに佐伯という人間の一部だった。
「……ありがとな」
誰にともなく呟いて、白い紙にそっと包む。
そして、引き出しのいちばん奥。
教科書にもノートにも当たらない、細い隙間に差し込んだ。
前世を含めて、人生最初のラブレター。
恋人としては受け取れなかったけれど、「誰かに好かれた証拠」として、大事にしまっておくことにした。
引き出しを閉めるとき、ほんの少しだけ、胸の中で何かがカチリと音を立てた気がした。
中学生活は、前の人生とはもうかなり違う場所まで来ている。
それが、妙にくすぐったくて、少しだけ誇らしかった。
ラブレター事件から、また少し時間が流れた。
中三の春。
新入生歓迎会で、今年も吹奏楽部はポップスを一曲やった。
俺はテナーサックスで後列に立ち、その前の列には、すっかり先輩顔になった吉田と河合が並んでいる。
去年までは「教える側」と「教えられる側」だった距離が、
いつの間にか「一緒に吹く仲間」に近づいていた。
サックスパートには、一年生がまた何人か入ってきた。
楽器の持ち方から、マウスピースのくわえ方、ロングトーンの退屈さと、その必要性。
かつて自分が教えられたことを、自分の言葉で伝え直す。
「ここさ、“全部通す”ことばっか考えないで、今日は最初の二小節だけでいいから、ちゃんと歌うつもりで吹いてみ」
去年、吉田に言ったのと、ほとんど同じセリフを、今度は一年生に向けて言っている自分がいる。
前の人生で、仕事の後輩にそんなふうに声をかけられたことがあっただろうか。
多分、ない。
「自分で考えろ」とか、「それくらいできて当然」とか、そういう言い方ばかりしていた気がする。
今は、少なくともそれよりはマシだ。
誰かの「できない」を一緒にほどいていく作業は、やってみると意外なくらい、こっちの頭と心を使う。
でも、その分、音が変わった瞬間の「おおっ」という手応えは、ひときわ大きい。
夏のコンクールに向けて、練習は本格的になっていった。
課題曲と自由曲。
今年は、去年より少し難しい曲を選んだ。
「代表、目指すぞ!」
顧問がそう言い、部長がそれに続く。
去年は金賞を取ったものの、代表に届かなかった、いわゆる「ダメ金」だった。
メダルは金色でも、ステージの奥行きは、その一歩先で途切れていた。
その悔しさは、部員ほとんど全員の胸に、まだ生々しく残っている。
今年こそ、という空気が、音楽室の隅々にまで染み込んでいた。
コンクール本番の二週間前。
自由曲の山場を合わせていたとき、指揮台から声が飛んだ。
「サックス、そこ、もっと前に出て!」
問題の小節。
アルトがメロディ、テナーが対旋律で絡む場面だ。
吉田の音は、去年よりずっとしっかりしている。
でも、ホールで鳴らすには、まだ少し遠慮がちだ。
「ごめんなさい…」
休憩時間、吉田がマウスピースを外しながら、申し訳なさそうに言う。
「謝るんじゃなくて、どうするか考えよ」
俺は譜面を持って、個人練習用の小部屋に誘導した。
「去年の“ひっくり返る”より、今年の“遠慮してる”のほうが、まだマシなんだよ。
あとは、怖くても一歩前に出すだけ」
「一歩…」
「ここさ、“外したらどうしよう”って思うと、絶対外すんだよ。
“ここで鳴らしてやる”くらいでいいから、息を前に飛ばすつもりで」
自分でも、半分は精神論だと思う。
でも、残りの半分は、身体の使い方の話だ。
吉田がもう一度、その小節を吹く。
さっきより、わずかに音量が上がった。
「そう、それ。さっきより全然いい」
「……ほんとに?」
「ホント。合奏でやったら、多分先生何も言わないレベル」
そう言うと、吉田は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
コンクール当日。
ステージ袖に並び、順番を待つ。
ロビーには、ほかの学校の制服金管のベル、木管のケース、チューニング用の音叉の音。
去年と同じ場所なのに、自分の立ち位置は少し違っている。
三年の先輩として、サックスパートの真ん中に立つ責任が、思った以上に重い。
「先輩」
隣でマウスピースを拭いていた吉田が、小さな声で呼んだ。
「去年より、緊張してます」
「そりゃそうだろ」
即答する。
「去年は“とにかくミスらないように”だったけど、今年は“うまく吹きたい”も混ざってるもん」
「……バレてます?」
「顔に書いてある」
そう言うと、吉田は少しだけ笑った。
「でも、そのほうがいいよ。“どうせ無理”って思ってるよりは、何倍もマシ」
自分でも、誰に向けて言っているのか分からない言葉だった。
去年の自分にも向けているし、前の人生で、何度もあきらめてきた自分にも向けている。
ステージ袖で、アナウンスの声が響いた。
「つぎの演奏は──」
学校名が呼ばれ、ドアが開く。
照明の熱と、ホールの静けさが、一度に押し寄せてきた。
課題曲が終わり、自由曲の前半も順調に進んだ。
山場が近づく。
タクトが、問題の小節を指す。
吉田のアルトが、ホールの奥に向かって伸びていく。
去年より、明らかに太い音だった。
かつて「ぴー」と情けなく鳴っていた同じ口から、今はちゃんと「音楽」と呼べるものが出ている。
その線に、自分のテナーをそっと重ねる。
支えるというより、一緒に前に出る感じで。
数小節が、あっという間に過ぎる。
タクトが静かに下り、曲が終わった。
客席からの拍手が、少し遅れて降ってくる。
ステージ袖に戻ったとき、吉田がマウスピースを外しながら、小さくガッツポーズをした。
「外さなかった…!」
「知ってる」
俺も、心の中で同じ動きをしていた。
結果発表。
ロビーに貼り出された紙の前に、人だかりができる。
「金賞!」
誰かの声が上がる。
数字を確認する。
確かに、うちの学校の番号の横には「金」と書かれていた。
そのあとで、代表校の番号が読み上げられる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
また、別の学校の名前だけが呼ばれていった。
「……また、ダメ金かよ」
打楽器のやつが、苦笑い混じりに呟く。
去年より手応えはあった。
それでも、代表の壁は高かった。
泣き出す一年と、悔しそうに歯を食いしばる二年。
それをなぐさめる三年。
その中で、俺は自分の胸の内を探っていた。
悔しいか、と聞かれれば、そりゃあ悔しい。
でも同時に、どこかで納得している自分もいた。
去年の金賞より、今年の金賞のほうが、間違いなく重い。
音の中身も、そこに込めたものも、去年とは比べものにならない。
それを、ちゃんと「金」と認められた。
そのうえで、「代表ではない」と突きつけられた。
──なら、これが今の自分たちの地点なんだろう。
「先輩」
袖をくいっと引かれる。
振り向くと、吉田がいた。
「悔しいですけど。でも、去年より、全然うまくなってるって、自分でも分かるから」
「うん」
「だから、たぶんこれは、ちゃんと“ダメ金”なんだと思います」
妙な言い方だけれど、言いたいことは分かった。
ただの運の金じゃなくて、実力で取りにいって、届いた金。
その先に、まだ一段あるだけだ。
「来年、代表行ってこいよ」
口をついて出た言葉は、思ったより軽く聞こえたかもしれない。
「……はい」
吉田は、涙目のまま笑った。
家に帰って、制服を脱ぎ、自分の部屋にこもる。
机の引き出しを開けると、奥のほうに、白い包みが収まっている。
佐伯からのラブレター。
その隣に、今日もらってきたコンクールの賞状とメダルをそっと置く。
紙一枚と、金色の丸い金属片。
どちらも、自分ひとりでは手に入らなかったものだ。
誰かと関わって、
誰かに何かを渡して、
その結果として、ここにある。
前の人生では、こういう形のものを、ほとんど持っていなかった。
仕事の評価は数字で出ていたけれど、それは「会社」とか「部署」のものだった。
今ここにあるのは、もっと個人的な、もう少しだけ温度のある手応えだ。
「……悪くないな」
メダルの端を指でなぞりながら、独りごちる。
前世の「何もしなかった中学時代」と比べれば、この数年は、とても忙しかった、でも充実している。
その忙しさの中に、ちゃぶ台の上の奨学金記事も、
姉の「行きたいから行きたいって言う」という覚悟も、
佐伯の震える文字も、吉田の伸びていった音も、全部詰まっている。
引き出しをそっと閉める。
中学生活は、前の人生とはもうかなり違う場所まで来ている。
それが、妙にくすぐったくて、少しだけ誇らしかった。




