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第7話 姉の覚醒

中学の入学式が終わるとすぐ、《部活動一覧》のプリントが配られた。


教室のあちこちで「サッカー行こうぜ」「バスケかな」と盛り上がっている中、

俺は静かに脳内会議を始める。


まず、野球とサッカー。

つらい。モテない。却下。


この時代の地方中学で、野球部やサッカー部に入ったからといって、

ドラマみたいに黄色い声援が飛ぶわけでもない。

あるのは走り込みと怒鳴り声と、泥まみれのユニフォームだ。


バスケ。

まだこの年代では、そこまでメジャーじゃない。

体育館の中だから、そもそもあまり目立たない。


運動部でモテを狙うなら、現実的にはテニス一択。


テニスなら、汗臭さもほどほどで、なんとなくおしゃれ。

女子のテニス人口も増えてくる時代だし、「テニス部=爽やか」のイメージも悪くない。


……悪くない。

悪くないんだけど。


ここで、一回深呼吸する。


俺の中身は、すでに定年退職まで終えたおっさんだ。

中学女子にモテても、正直どうしたらいいか分からない。


それにこのころの運動部は、炎天下でも練習中の水分補給すら許されない精神論が主流だ。命の危機にかかわる。


だったら、「いま」だけじゃなくて「将来」まで含めて考えたほうが得なんじゃないか。


プリントの裏側、「文化部」の欄に目を移す。


《吹奏楽部 フルート・クラリネット・トランペット・サックスほか》


サックス。


大人になってから耳にするたび、「音楽できる人ってカッコいいよな」と思っていたやつだ。


よく考えたら、テニスは大人になってからでも始められる。

でも今、吹奏楽部でサックスをやらなければ、多分二度とサックスに触れる機会は無いだろう。


中学女子に今モテるより、

将来、「あ、サックス吹けるんだ」って大人の世界で一目置かれるほうが、

コスパもモテ効率もいいんじゃないか。


そう結論づけると、迷いはだいぶ薄れた。


「よし。吹奏楽、行くか。サックス、狙いで」


プリントの「吹奏楽部」の欄に丸をつける。


こうして俺は、運動部のモテ算段をいったん横に置いて、

その将来性に期待を込めて、吹奏楽部に足を踏み入れた。


この選択が、このあとオイルショックだの、姉の奨学金だの、

県大会のダメ金だのと絡んでいくとは、

このときの俺は、まだ知らない。


吹奏楽部の毎日は、想像していたよりずっと地味だが、それなりに楽しかった。


最初の一か月は、ひたすらロングトーンと音出し。

校庭を走り回る運動部を横目に、俺たちは音楽室で「ドーーー」を伸ばし続ける。


女子が多い部活だけれど、変な色気はない。

先輩たちはサバサバしていて、「一年は雑用係!」と怒鳴るタイプもいない。


体育会系の上下関係にビビっていた身としては、これくらいの距離感がちょうどいい。


サックスも、ようやくそれらしい音が出るようになってきた。


指も口も忙しいけれど、前世でPCのキーボードを叩き続けていた頃に比べれば、

多少の疲れはご褒美みたいなものだ。


そんなふうに、新しい日常に慣れ始めた頃だった。


新聞の見出しが、少しずつ騒がしくなってきたのは。


ある朝、ちゃぶ台の上の朝刊に、太い文字が踊っていた。

      

《オイルショックで物価高騰》


横には、小さな写真。

スーパーのトイレットペーパー売り場に、人だかりができている。


「トイレットペーパー、ほんとにないんだってさ。

昨日ニュースで、大阪のスーパーに行列できてた」


前世でも見た映像だ。

棚がすっからかんになって、買い物かごを持った奥さんたちが、紙製品を奪い合っている。


「うちの近所の店も、なんか減ってたわよ。

でもまあ、そのうち落ち着くでしょ」


母はそう言って笑ったが、声の端に、いつもより少しだけ硬さがあった。


登校前に、新聞を畳んで学校へ向かう。


放課後、近所の小さなスーパーをのぞくと、本当にトイレットペーパーの棚ががらんとしていた。


「一人一袋まで、って書いてあったのに、あっという間にねえ」


店のおばちゃんが、レジ袋を詰めながらぼやいている。


「洗剤も砂糖もね、すぐなくなっちゃうのよ」


前世の俺は、この光景を「そんな事もあったなー」で済ませた。

でも今は、もう少し具体的に見えてしまう。


トイレットペーパーがない。

砂糖や洗剤も高くなる。

ガソリンも上がる。


その全部が、じわじわと「家計」という一つの袋の底を抜いていく。


家に帰ると、台所で母がチラシと家計簿を広げていた。


「トイレットペーパー、どうだった?」


「ないねえ。あっても高いし。

まあ、新聞紙もあるし、当分はなんとかなるわよ」


軽く笑い飛ばしてはいるが、ペンを持つ指先は、さっきよりさらに強く家計簿を押さえている。


その横を通り過ぎて、自分の部屋に戻りながら、俺は頭の中で数字を並べ始めた。


トイレットペーパーが高くなる。

電気代もガス代も上がる。

食料も、じわじわ上がる。


そして、幸の高校の授業料と定期代は、毎月確実に出ていく。


新聞には、別のページに「大学授業料値上げ」の小さな記事も出ていた。


前世でそこそこ長く働いた経験と、ニュースの記憶が合体して、結論だけが先に口の中に落ちてくる。


──この家に、子ども二人を大学にやる余裕は、やっぱりない。


前世では、一人っ子だったから、どうにか大学に行けた。

親の財布の中身を、俺一人で使い切ることができた。


でも今世は違う。

姉と俺、二人ぶんだ。


黒板の前で、先生が言っていた。


「これからはね、自分の進学は自分で考える時代です。

お家の人に全部任せて『行かせてもらう』じゃなくて、

どうやって行くか、自分でも考えなさい」


クラスの空気はふわっとしていた。

まだみんな、どこか他人事だ。


でも俺には、もはや他人事ではない。

姉は女で、成績は中の上。

このまま何も考えなければ、「県立からそこそこの短大か専門、あるいは就職で手を打つ」が、いちばん妥当な線だろう。


そこに、成績のいい弟がいたらどうなるか。


大学に行かせるなら弟。

姉は「女の子だし」「家のこともあるし」で、最初に削られる。


答えは簡単だ。


──姉自身が、成績を上げて、返済有りの奨学金を取りに行くしかない。


高校の成績をしっかり取って、できれば無利子。

無理でも、有利子で返せる範囲におさめる。

そのうえで、バイトもして、自分の学費の一部は自分で持つ。


そういう覚悟を、姉本人が「自分の意思で」持つしかない。


でも、それをそのまま口にしたら、百パーセント説教だ。


「うちにはお金がないから、お姉ちゃん頑張れ」なんて、中一のガキに言われて素直にうなずく姉はいない。


かといって、何も言わずに流されるのを見ているだけなら、前世と同じだ。


──どうしたものか。


机に広げた新聞の字が、少し滲んで見えた。


そのとき、紙面の下のほうに、小さな囲み記事が目に入った。


《奨学金利用者増える 返済型が中心》


まさに、今考えている話題が、活字になっている。


俺は思わず、その記事をなぞるように指でなでた。


──ここから入るか。


説教じゃなくて、新聞の話として。

俺の将来の話として。


ちゃぶ台の向こう側で、幸がテレビを見ながらみかんをむいている姿が浮かぶ。


どうやって切り出せば、いちばん「説教っぽくない」か。

どこまで言って、どこから先は黙っているべきか。


中一の頭で、前世ぶんの人生経験を総動員しても、正解は分からない。


でも、何もやらないよりはマシだ。


きっかけをひとつ、ちゃぶ台の上に置くだけでも違うはずだ。


俺は新聞を半分に折って、テレビのある部屋に向かった。


夕飯がひと段落して、ちゃぶ台の上に新聞を広げた。

テレビはバラエティ番組で、幸はみかんをむきながら笑っている。


紙面の真ん中あたりに、小さな見出しがあった。


《大学進学と奨学金 家庭の負担どう減らすか》


俺はその記事を指でたどりながら、何でもないふうに言った。


「奨学金か。大学行くときの学費ねー」


「ふーん。頭いい人がもらえるんでしょ、それ」


「うん、まあ、成績よくないとダメなのも多いみたいだけどさ」


返済不要の奨学金は、子供が沢山いるとか、条件が厳しいこと。

うちは最初から対象外だということ。


普通の家が頼るのは、返すほう。

無利子と有利子があって、無利子は条件がきついこと。


できるだけ淡々と、「記事を読み上げているだけ」の体で説明する。


「へえ…めんどくさそう」


幸はそう言って、みかんの房を口に放り込んだ。


たぶん、このままなら、ここで話は終わる。


でも、今度の人生では、そこで終わらせない。


「俺はさ」


自分の話として、続ける。


「うちはどう考えても、二人分、大学にポンポン行かせられる家には見えないから」


「ちょ、なにそれ。いきなり」


「いや、ほら。オイルショックだの物価高だのって、新聞でもテレビでも言うじゃん。

この前だって、トイレットペーパー全然なかったし」


「それはまあ、そうだけど」


幸が少しむっとした顔をする。


ここで「だからお金がないんだよ」と言えば、地雷を踏む。


「だからさ、もし俺が大学行きたいなら、

高校も大学も、できるだけ安いとこにしないといけないな、って思ってるだけ」


「あんたの話?」


「そう。俺の話」


高校は公立一択で頑張るつもりなこと。

大学に行けるとしても、できれば国公立か学費の安いところで、足りない分は奨学金とバイトで何とかするつもりなこと。


中一にしてはさすがに背伸びした話だが、

前世の経験込みなら、むしろ控えめなくらいだ。


「中学のうちはバイトできないけどさ。

高校行ったら、俺もバイトするよ、多分。

教科書代とか定期代くらいは、自分で出せるようにしたいし」


「……あんたさあ」


幸が、みかんの皮をいじりながらぽつりと言う。


「中一で、よくそんなことまで考えるよね」


「先生にも言われたし。

それに、準備してなくて“行きたいときに行けませんでした”は、ちょっとカッコ悪いし」


わざと軽く笑ってみせる。


幸はしばらく黙ってから、みかんの皮を丸めてゴミ箱に放り込んだ。


「なんかさ。

あんたにだけそういうの考えさせてると、こっちがサボってるみたいでイヤだね」


その一言で、今日のところは十分だと思った。


それからしばらくして。


 

十二月の終わり。

二学期の通知表が返ってきて、家の中に、少しだけ重たい空気が漂っていた。


ちゃぶ台の上に、幸の成績表と三者面談プリントが広がっている。


「先生には、“このままなら普通に短大か専門ですね”って言われた」


国語と英語はそこそこいいが、数学と理科が伸び悩んでいるらしい。


進路希望欄には、「大学」「短大」「専門」「就職」の四つの文字。


幸はシャープペンでその欄をつつきながら、ぽつりと言った。


「この前さ。

あんた、新聞読みながら言ってたでしょ。奨学金のやつ」


「ああ」


「返さなくていいのは、うちは無理ってやつ。

普通の家は、返すほう使うしかないって」


あのときの話を、ちゃんと覚えていた。


「うちさ」


幸の声が、いつもより半音低い。


「二人とも、四年制の大学にポンポン行かせるほど余裕ないでしょ」


その言葉を、ようやく本人の口から聞いた。


「お母さん、絶対“お金ない”って言わないけど。食べ物とか紙とか、ちょっと上がっただけで、あんなに チラシとにらめっこしてるんだもん」


台所では、母がいつものように食器を洗っている。


「だからさ」


幸はシャープペンをくるくる回しながら続けた。


「このまま“真ん中よりちょい上です〜”でのほほんとしてたらさ。私が“大学行きたい”って言うの、ちょっと図々しくない?」


否定するのは簡単だ。

でも、それは現実をごまかすことにもなる。


「じゃあ、どうしたいの?」


俺がそう聞くと、幸は自分の成績表をとんとんと指で叩いた。


「まずはさ。この“真ん中よりちょい上”を、もうちょっと上まで持ってく」


返済不要はうちには無理。

ならせめて、返済型でも無利子ぐらいは狙えるように、ちゃんと成績を取る。


「で、高校の間にバイトして。全部は無理でも、教科書代とか定期代とか、ちょっとした出費くらい、自分で出せるようにしたいなって」


それは、あの日俺がちゃぶ台で口にした「俺の話」とほとんど同じだった。


ただし今度は、「私」の話になっている。


「お母さんに、“大学行きたい”って言えるとしたらさ。せめてそれくらい覚悟見せてからじゃないと、言えないよね」


そう言って、「進路希望」の欄に「進学希望」と書き込む。

その上に小さく「できれば四年制」と付け足した。


「……最初から、ちゃんと“行きたい”って言っとかないと。流されて“まあ女だし”で終わりそうだからね」


冗談めかした一言の裏に、本気の固さがあった。


「いいと思うよ」


気づけば、口が勝手に動いていた。


「お姉ちゃん、頭いいし。やろうと思えば、無利子くらい全然狙えるっしょ」


「なにそれ、雑な励まし」


「ほんとにそう思ってるって」


幸は鼻で笑って、成績表をたたんだ。


あの新聞記事と、ちゃぶ台の会話と、

今このプリントの文字が、一本の線でつながる。


人を動かすって、こういう感じなのかもしれない。


誰かに何かを「させる」んじゃなくて、

考える材料だけ渡して、あとは相手の中で育つのを待つ。


中一の頭ではうまく言葉にならないけれど、

胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。



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