第6話 1970年夏から中学入学まで
夏休みは、気づいたら終わっていた。
あの予定表は、ところどころ真っ白な日もあったけれど、前世よりははるかにマシだ。
宿題を八月三十一日に徹夜でやる、なんて悲劇は起きなかった。
明けて二学期、最初のテスト。
算数と国語の答案用紙には、前よりずっと多くの丸がついていた。
テストの順位も、真ん中より少し下だったのが、ぐっと上に伸びた。
「お、やるじゃないか」
担任が珍しく声をかけてきた。
「この調子なら、この先も楽しみだな」
前世で、先生にそんなふうに言われた記憶はない。
家に帰ってテストの順位を知らせると、母は目を丸くした。
「ほんとに上がってるじゃない。あんた、急にどうしたの?」
「別に。ちょっとだけ真面目にやっただけだよ」
わざと肩をすくめてみせると、横から幸が身を乗り出してきた。
「ふーん……。ま、悪いことじゃないけどさ」
言葉は素っ気ないが、口元は少し緩んでいる。
その反応だけでも、前世とは違う道に、一歩踏み出せた気がした。
そこからの二年半は、ひどくあっという間だった。
一九七〇年、小学四年の夏から、五年、六年へ。
予定表どおりに動けた日もあれば、友だちと遊びに夢中で、その日の勉強をすっ飛ばした日もあった。
それでも、「もうやめた」と全部投げることだけはしなかった。
放課後は川原で野球やサッカーをして、
帰ってきたら、ちゃぶ台で宿題とドリルを片付ける。
夜はテレビを見て笑い、その前後で新聞をめくる。
新聞の一面には、相変わらず難しい言葉が並んでいた。
「安保」「大学紛争」「反戦デモ」。
ヘルメットとマスクをつけた学生が、機動隊と押し合いをしている写真。
前世で、昭和の映像特集として何度も見た画面が、今は「今日のニュース」として紙面を飾っている。
「また学生が暴れてるってさ」
味噌汁をすすりながら、父が新聞の写真を指でつつく。
「お父さん、これって、なにがそんなに揉めてるの?」
試しに聞いてみると、父は面倒くさそうに頭をかいた。
「さあなあ。偉い人の決めたことに、文句言ってるんだろ。
お父さんにはよく分かんないよ」
前世では、歴史番組の解説をなんとなく聞き流していた「七〇年安保」が、
この世界では、父の「よく分かんない」で括られる、目の前の空気になっている。
社会面には、ときどき、三億円事件の続報が小さく載った。
《三億円事件 情報提供呼びかけ続く》
前世で見た再現ドラマと、新聞の活字が、少しずつズレている。
覚えていた年と、見出しの日付が、微妙に噛み合わない。
犯人像の説明や、現場の描写も、「こんなだったかな」と首をかしげるところが多い。
この国は、前世と同じような道を歩きながら、微妙に違う景色を見ている――
そんな感覚が、季節が巡るたびにじわじわ体に染みこんできた。
そのあいだに、幸は中学三年生になった。
ちゃぶ台の上に、高校案内のパンフレットが広がるようになる。
「ここなら通えるかなあ」「電車賃がねえ」と母が言い、父が新聞から顔を上げてうなずく。
幸は幸で、「制服かわいいかな」と、写真を指でなぞっている。
「高校生かあ。いいな」
思わず口から出ると、幸がこちらを見てニヤリと笑った。
「なに、その『いいな』って。あんたもどうせ行くんだから、ちゃんと勉強しときなさいよ」
「はいはい」
口では流しながら、心の中ではその「どうせ行くんだから」という言い方に、少しだけ驚いていた。
前世では、自分の進路をそんなふうに言われたことはなかった気がする。
今度の人生では、少なくとも家の中では、「高校に行くのが当たり前のコース」に乗りかけているらしい。
そして、一九七三年の春が来た。
幸は高校一年、俺は中学一年になる年だ。
四月のある朝。
幸はもう、自分の部屋でとっくに起きて、さっさと高校の制服に着替えていた。
濃紺のブレザーにスカート。
タイを結びなおしては鏡を見て、ちょっとだけ笑って、また結びなおす。
その姿は、母にとっては娘でも、俺の目には、どこか「よその家のお嬢さん」みたいにも見えた。
「行ってきまーす」
朝ご飯をかき込むと、幸は鞄を肩にかけて玄関へ向かう。
「高校、ちょっと遠いからね。電車乗り遅れたくないし、先に出る」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
母がエプロン姿のまま玄関まで見送りに出る。
父はもうとっくに仕事に出かけていて、家にはいない。
靴を履いた幸が、廊下から顔だけのぞかせた。
「まさおも、中学生でしょ。しっかりしなよ」
「そっちこそ」
短く返すと、幸は「はいはい」と笑って、さっさと家を出て行った。
高校は中学より遠くて、電車にも乗らないといけない。
その背中が、いつもより小さく、でも少しだけ大人びて見えた。
幸を見送ってから少しして、今度は俺の番だ。
母が自分のタンスから、慎重にハンガーを取り出してくる。
いつもと違う、明るい色のワンピース。
母が持っている服の中で、一番のおしゃれ着だ。
「今日はこれ着て行こうっと。なんか、自分のことみたいでドキドキするんだよね」
そう言いながら、母は嬉しそうにくるりと一回転して見せた。
「変じゃない?」
「ううん。似合ってるよ」
本心だった。
母がこんなに浮き立っているのを見るのは、前世ではあまり記憶にない。
「さ、あんたも制服着なさい。ボタン、ちゃんと留めるんだよ」
俺は少し照れながら、詰め襟に袖を通す。
まだ布が硬くて、肩のあたりがぎこちない。
鏡を見ると、見慣れない「中学生の顔」が、そこに立っていた。
「……どう?」
「かっこいいじゃない。立派な中学生だよ」
母が目を細める。
前世で中学に入ったとき、自分がどんな顔をしていたかは、もうはっきりとは思い出せない。
ただ、勉強も部活も中途半端で、将来のことなんて何も考えていなかったことだけは覚えている。
今の俺は、少なくともそこからは一歩ずれている。
予定を立てて勉強することを覚えた。
新聞を読んで、世の中の話を自分の頭で追いかけるようになった。
それだけで、進む道の幅が、前よりほんの少し広くなったような気がする。
「さあ、行きましょう」
母がバッグを手に取り、玄関の扉を開ける。
外の空気は、春にしてはまだ少し冷たかった。
それでも、陽射しには冬にはなかったやわらかさがある。
靴ひもを結び直して、俺も玄関を一歩出る。
母の横顔は、自分の入学式のときと同じくらい、いや、それ以上にうきうきして見えた。
「今日から中学生だ」
心の中でそうつぶやいて、俺は母と並んで歩き出した。




