第78話 1987年の年末から1988年
父が十一月の末で会社を辞めてから、朝の家の様子が少し変わった。これまでは政雄が出るころには父も出勤の支度をしていたが、十二月に入ってからは居間に新聞を広げていることが多い。
だからといって気が抜けたようには見えなかった。
次の仕事の話がある以上、家にいる時間も仮のものだと父自身が思っているようだった。
母もそれを分かっているのか、必要以上にあれこれ言わない。
そのかわり、夕食のときになると、紹介された管理人の仕事の話が少しずつ出た。
勤務先は市内の分譲マンションで、住み込みではなく通いになるらしい。
父は工場勤めの方が気は楽だと言いながらも、管理人の話も年内に見ておくつもりでいるようだった。
「一度見に行ってみるよ」
ある晩、父はそう言って茶を飲んだ。
「話だけは聞いておいた方がいいだろうしな」
母はうなずいた。
「そうね。決めるのはそのあとでもいいんだから」
政雄は黙ってご飯を食べながら、その会話を聞いていた。
本店の方は、十二月に入っても忙しさが途切れなかった。
先月出したATM候補地の報告のあとも、候補地ごとに見直す点がいくつも出てきた。
設置場所の人の流れ、営業時間、現金補充の動線、防犯上の見え方。
現地で見て終わりではなく、戻ってから資料を見直す方が多いくらいだった。
支店なら、一度出した書類はそのまま先へ回ることが多い。だが本店では、誰かが見たあとに別の見方が入り、そのたびに前の資料を出し直したり、別の記録と見比べたりする。
田口は相変わらず席にいる時間が短く、安東も上へ下へと動いていたが、必要な確認は途切れず回ってきた。
ある日の午後、安東が政雄の席へ来て言った。
「山本君、この前の百貨店の件だけど、搬入口の使い方が分かる資料、もう一度探しておいてくれ」
「営業時間のあとも使えるかどうか、ですね」
「そう。あと、防災センターを通る形になるのか、そのへんも見ておきたい」
「分かりました」
安東はそれだけ言って、すぐ別の席へ移った。政雄は前に見た資料の束を出し、百貨店の図面とメモを見返した。
夕方、田口が戻ってきたので、政雄は机の上の資料を示した。
「百貨店の搬入口ですけど、閉店後の出入りはできそうです。ただ、管理の窓口が別になっています」
「どこ」
「防災センターです。ここに書いてあります」
田口はその箇所に目を落とした。
「じゃあ、その扱いが分かるようにしておこう」
「はい」
それだけで話は済んだ。ここではこういう細かい確認が次々に入る。
政雄はその流れに合わせて、手元の資料を見直していった。
帰りの電車は、十二月に入ってから少し混んできたように見えた。
年末が近いせいか、車内の話し声までどこか忙しい。ボーナスの話、忘年会の話、正月の帰省の話。
景気のいい年の終わりらしい空気が、電車の中にもそのまま入っていた。
家へ帰ると、父が流しの前に立っていた。
母が別の用事をしているあいだに、食器を洗っているらしい。
「珍しいね」
政雄が言うと、父は少しだけ顔を上げた。
「家にいると、こういうのも目につくからな」
母が奥からそれを聞いて笑った。
「その調子で年明けもお願いしたいわ」
「それとこれとは別だ」
父はそう言ったが、前より家の中の空気が張っていないことは政雄にも分かった。
*
十二月も後半に入った水曜の夜、政雄は仕事を終えてからサークルの練習へ向かった。
毎週水曜日が練習日と決まっているので水曜だけはなるべく間に合うようにしていた。
講堂に入ると、田口がすでに来ていて、譜面台を並べていた。
「お、山本君。今日は間に合ったな」
「なんとかです」
「年末だしな。こっちも人が揃うまで少しかかりそうだ」
京子も先に来ていて、キーボードの前に座っていた。政雄が近づくと、京子が顔を上げた。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
田口が横から言った。
「京子ちゃん、今日は早いね」
「少し仕事が片づいたので」
「人事も年末は忙しいんじゃないの」
「忙しいですけど、今日はまだましでした」
そう答えて、京子は譜面をめくった。
「桜井さん、子どものころからやってたの」
政雄が聞くと、京子がうなずいた。
「少しだけです。姉と一緒にエレクトーンを習ってました」
「そうなんだ」
「ちゃんと続いたのは姉の方です。私は途中でやめちゃったので」
「お姉さんは今も弾くの?」
「姉は今でもたまに弾きますよ。そのころ買ったエレクトーンがまだ家にありますから」
「お姉さん、今は何をしてる人なの」
「図書館に勤めてます。都立の」
「図書館か」
「司書なんです。短大で国文をやって、そのままです」
田口が譜面を揃えながら言った。
「じゃあ本好きなんだろうね」
「はい。家でもよく読んでます」
「京子ちゃんも読むの」
「私は姉ほどじゃないです」
京子はそう言って少し笑った。
「でも子どものころは、姉が読んでた本をあとから私も読むことが多かったですね」
「仲がいいんだね」
田口のその一言に、京子はうなずいた。
「そうですね。姉の方がしっかりしてるので、昔から何かと頼ってました」
そのころ、ほかのメンバーもだいたい揃ってきて、講堂の前の方でドラムが鳴った。
誰かが「そろそろ始めようか」と声をかけ、雑談はそこでいったん切れた。
音合わせが始まると、政雄もすぐそちらへ意識を向けた。
サックスを演奏してるあいだは、仕事のことも家のこともいったん離れる。
週に一度、そういう時間があるだけで違った。
練習が終わったあと、譜面台をたたみながら田口が言った。
「正月休み、山本君は家でのんびりか」
「たぶんそうですね」
「京子ちゃんも?」
「うちもそんな感じです。特に予定はないですね」
京子は譜面を鞄にしまいながら言った。
「うちは正月もだいたいいつも通りです。家でご飯食べて、近くへ出るくらいで」
「うちも似たようなものだな」
政雄が言うと、京子は少し笑った。
「そういう家、多いですよね」
駅までの帰り道、政雄は京子の姉のことを少し考えていた。
図書館に勤めていて、今でもときどきエレクトーンを弾く。
京子の話し方からすると、家では頼りにされることが多いのだろう。
それ以上のことはまだ分からないが、京子の家のことが少し見えた気はした。
*
十二月の終わりが近づくと、家でも少しずつ正月の支度が始まった。
もっとも、父が十一月いっぱいで会社を辞めたからといって、急に何かが変わるわけでもない。
母はいつものように台所に立ち、父は母の買い物に付き合い、政雄も窓ふきくらいは手伝った。
父の次の仕事はまだ始まっていなかったが、管理人の話は進んでいるらしく、家の中が妙に沈むこともなかった。
大晦日の夜は、例年通り政雄が年越しそばをゆでた。
高校のころ近所の蕎麦屋で覚えたやり方を、そのまま家でも続けている。
昼のうちに受け取りに行ったそばを母が台所で整え、政雄がゆで、父が居間でテレビをつける。
毎年ほとんど同じ流れだった。
「今年もこれで終わりか」
父がどんぶりを前にして言った。
「早いものねえ」
母がそう言って、天ぷらの皿を運んできた。
姉は今年は田村家で年を越すらしく、家は三人だったが、とくに静かすぎることもなかった。
食後は紅白を見たり、途中で別の番組に変えたりしながら、だらだらと時間が過ぎた。
母は途中で明日の雑煮の支度を気にし、父は茶をすすりながらテレビを見ていた。
年が改まる瞬間も、気がつけば過ぎていた。
元日の朝は、母の作った雑煮を食べてから、三人で近くの神社へ初詣に行った。
風は冷たかったが、空はよく晴れていた。境内には近所の家族連れがそこそこいて、正月らしいざわつきがあった。
父は黙って賽銭を入れ、母も手を合わせる。政雄も並んで拝んだ。
昼を食べたあと、政雄は自分の部屋へ戻った。元日の午後に脳内会議を開いて、今年はどうするか考えるのは、もう毎年のことになっている。
最初に口を開いたのは仕事担当だった。
「今年の短期目標ははっきりしています。ATMの店舗外設置の試験運用を、まず無事に終わらせることです」
生活担当がすぐに言った。
「それはそうですけど、家のこともありますよ。父さんが管理人の仕事に移れば、家の収入は前より減る。だから、うちの暮らしのことも前より気にして見ておかないといけないでしょう」
「それで仕事の方を弱めるわけにはいきません」
仕事担当は言い返した。
「今年は試験運用だけじゃない。その先の中期目標もある。これからの通信や端末の流れに対応できる知識と感覚を身につける。それが銀行に入ったころからの狙いだったはずです」
そこへ趣味担当が口を挟んだ。
「ちょっと待ってください。水曜のサックスは勝手に削らないでくださいよ。仕事と家のことだけで息が詰まらずに済んでいるのは、あの時間があるからなんです」
生活担当が言う。
「誰もやめろとは言ってません。ただ、時間には限りがあると言ってるんです」
「限りがあるからこそ、残すべきものは残すべきでしょう」
趣味担当は引かなかった。
すると恋愛担当が待っていたように乗ってきた。
「その時間の話なら、なおさらです。今年、政雄は二十八になるんですよ。前世のことを思えば、異性との縁をまた先送りにするのはまずい」
「急にそこへ行きますか」
生活担当があきれたように言う。
「急じゃありません。仕事と家だけで埋まっていたら、また何もないまま年を取る。そこは避けたいでしょう」
恋愛担当の言い分も筋は通っていた。
そこへ時事担当が入った。
「その前に、景気の見方です。今年もまだ世間は浮かれるでしょう。株も地価も、しばらくは上がるように見えるはずです。でも、それがずっと続くと思って乗るのは危ない」
部屋の中が少し黙った。
「崩れる時期まではまだ少しあるかもしれません。でも、だからこそ今のうちに足元を固めるべきです。借金をしてまで大きな買い物はしない。景気のよさを当てにして暮らしを膨らませない。そのくらいは決めておいた方がいい」
生活担当がうなずいた。
「うちもそうですし、姉さんのところも気にはしておきたいですね。姉さん夫婦は二人とも公務員だから堅実だとは思うけど、借金して家を買うとか、株に手を出すとかが無いように気を付けておく」
一通り意見が出そろったところで、政雄は議長として口を開いた。
「まず仕事。短期目標は、ATMの店舗外設置の試験運用をきちんと終えること。中期目標は、通信や端末の流れに対応できる実務の力をつけること。そこはぶらさない」
仕事担当は黙ってうなずいた。
「生活。父さんの再就職で家の形はひとまず整うけど、収入は下がる。だから家の金のことは前より気にしておく。姉さんのところも、基本は大丈夫だと思うけど、この景気だから気にはかけておく」
生活担当もそれで引いた。
「趣味。サックスは続ける。水曜の練習はそのままにする」
趣味担当は満足そうだった。
「恋愛。相手のあることだから、ここで予定みたいに決めても仕方ない。ただ、仕事と家だけで閉じたままにしない。人とのつながりを面倒がらずに見ていく。そのくらいでいい」
恋愛担当は少し不満そうだったが、反対はしなかった。
「最後に景気。周りが浮かれていても、こっちは借金をしない。見栄で金を使わない。先を知っている以上、そこは外さない」
それだけ決まれば十分だった。今年もやることは同じだ。見て、考えて、流されないように進む。それでいい。
*
一月に入ると、父は管理人の仕事に出るようになった。
最初のうちは勝手が違って落ち着かないらしかったが、しばらくしてから「工場のころよりかなり歩くな」と夕食のあとに言ったことがあった。
立ったり巡回したりで、思ったより足を使うらしい。
それでも、健康によさそうだとも言っていた。
収入は前より減るし、これで先のことまで全部安心というわけでもない。
だが、父なりに次の仕事へ入っていけたのは悪くない。
母もその点では少しほっとしているようだった。
今年も家のこと、仕事のこと、そのどちらも目先だけで決めずに都度考えていくしかないと、政雄は思った。




