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第77話 本店の日常、父の再就職の話

十月も後半に入り、朝の空気は前よりはっきり冷たくなっていた。先週、田口と一緒に仕上げた店舗外ATM候補地の報告書は、金曜の朝に安東へ渡してある。駅、区役所、病院、百貨店、スーパー。見て回った場所ごとの違いは一通り書き入れてあり、あとは部長から先の反応を待つだけだった。


ひと仕事終えた形にはなっていたが、NOOPの机の上から書類が消えるわけではない。安東は朝から別件で席を立ったり戻ったりしているし、田口も電話や内線に呼ばれて落ち着かない。政雄も、自分に回ってきた資料を見たり、前の件で使った記録を見返したりしながら午前を過ごしていた。まだ来たばかりの部署だけに、何が急ぎで何が後回しにできるのかも、その場その場で覚えるしかない。


昼前に安東が戻ってきて、田口の席へ声をかけた。


「部長にはもう渡してある。返事は来週だな」


「そうですか」


「上がどこを見てくるかで、次が変わるかもしれん」


田口は短くうなずき、政雄も自分の席でそれを聞いた。先週見て回った場所のことは、まだ仕事の途中のまま残っているように思えた。     


      * 

 

昼になると、田口が席を立ちながら政雄に声をかけた。


「山本君、食堂へ行こうか」


政雄も立ち上がった。支店にいたころは、昼は近くの店で済ませるか、持ってきた弁当を広げるかで、こうして社内の食堂へ行くことはほとんどなかった。本店の食堂は二十階にあり、広さも人の多さも支店とは違う。入口近くには日替わり定食、麺類、丼物が並び、値段も外の店よりかなり安かった。


トレーを持って列に並んでいると、田口が向こうに目をやった。


「あ、京子ちゃん」


政雄もそちらを見る。桜井京子が一人でトレーを持っていた。京子は二人に気づくと、少し笑って会釈した。


「田口さんも食堂なんですね」


「今日はこっち。京子ちゃんはよく来るの」


「はい。私はわりと来ます。同僚の人たちは外へ行くことが多いんですけど」


田口は窓際を見た。


「あそこの席、空いてるな」


三人でそのまま席へ向かった。窓の外には、秋の光の下に東京の街が広がっていた。高いところから見ると、地上を歩いているときより、街全体が少し遠く見える。


政雄は椅子に座ってから、改めて食堂の中を見回した。


「本店の食堂って、思っていたよりちゃんとしてるんだね」


京子が笑った。


「そうでしょう。最近は外のおしゃれなお店に行く人も多いですけど、私はここの日替わり定食が好きなんです」


「安いしね」


田口が言うと、京子もうなずいた。


「そうなんです。味も悪くないですし、景色もいいですから」


政雄は窓の外へ目をやった。


「たしかに、ここだと少し違う気分になるね」


「なりますよね」


京子はそう言って、箸袋を指先で折った。遠くまで続くビルの群れも、下を流れる車の列も、どこか勢いづいて見える。景気がいいという話は毎日のように耳にしていたが、こうして上から眺めると、その言葉が街全体にかかっているようだった。


田口がカレーを口に運びながら言った。


「でも、山本君にはまだ珍しいだろう。本店の食堂なんて」


「ええ。支店にはこういう場所はありませんでしたから」


「そうですよね。窓からの見え方からして違いますし」


京子の言葉に、政雄はうなずいた。支店にいたころの昼休みは、もっと地面に近かった気がする。外へ出ても近くの店に入るだけで、こうして空の近くで昼を食べることはなかった。


「京子ちゃんらしいね」


田口が言った。


「何がですか」


「ちゃんと食堂を使ってるところ」


「いいじゃないですか。外へ行くとお金もかかりますし」


「堅実で結構」


そのやり取りに、政雄は少し笑った。京子と田口の間には、前からの気安さがある。そこへ一緒に座っている自分も、今日はそれほど居心地が悪くなかった。


食事を終えて昼休みが終われば、また机に戻るだけだ。それでも政雄には、この食堂でのことが、支店にいたころにはなかった本店の一面のように思えた。

      

      *


その日、政雄が家に帰ると、夕食の支度はもうできていた。父も仕事から戻っていて、上着を脱いで食卓についている。十一月末で定年になることは、家族みんな前から知っていた。父自身も今さら感傷に浸る年ではなく、気持ちはもうその先へ向いているようだった。


食事が始まって少ししたころ、父が言った。


「話は二つあるんだ。ひとつは今より少し小さい工場。もうひとつはマンションの管理人だそうだ」


母が手を止めた。


「どっちがよさそうなの」


「給料だけ見れば工場の方だな。仕事の勝手も分かるし」


父らしい答えだった。慣れた仕事に近い方へ気が向くのは当然だ。だが政雄には、その先の方が気になった。今の世の中はまだ浮かれている。仕事も金も、このまま増えていくと誰もが信じている。けれど政雄は知っていた。そんな空気は長く続かない。あと数年もすれば、バブルは崩壊する。


それだけではない。前世の正男は六十五まで生きた。五十代半ばを過ぎてから、体の動きが少しずつ鈍くなることも、無理のきかない日が増えることも知っている。父はまだその年齢を初めて迎える側だが、政雄にはその先が見えていた。今の労働現場は後の時代ほど安全でもない。慣れた仕事だからといって、長く続けやすいとは限らない。


「でも、小さい工場は景気に左右されやすいんじゃないかな」


父が政雄を見た。


「どうしてそう思う」


「今はどこも忙しいけど、この先もずっと同じとは限らないし、景気が落ちたら、先に苦しくなるのは体力のないところだからね」


言いながら、政雄は少しだけ言葉を選んだ。銀行の中でそこまではっきりそんな話が出ているわけではない。むしろ強気な話の方が多い。それでも父を動かすには、先の不安を口にした方がいいと思った。


「マンション管理の方なら、給料は下がっても、急に話がなくなる感じはしないでしょう。工場でも結局下がるなら、長く続けられる方がいいと思う」


父は腕を組んだまま少し考えた。


「まあ、言いたいことは分かる」


そう言って湯呑みを持ち上げる。


「すぐ決める話でもないけどな。そっちの話もちゃんと聞いてみるか」


政雄はうなずいた。ここで強く押しすぎる必要はない。父が先のことまで見てくれれば、それで十分だった。


      *


その夜、自分の部屋に入ってからも、政雄はさっきの食卓のことを思い返していた。父に向かってあそこまではっきり言ったのは、初めてだったかもしれない。工場の仕事を続けた方が気持ちは楽だろうということくらい、政雄にも分かっている。だが、それでも管理人の方を勧めたのは、そちらの方が長く続けやすいと思ったからだった。


今は景気のいい話ばかりが目につく。けれど、それがこの先もそのまま続かないと政雄は知っている。父の次の仕事は、なるべく無理の少ない方がいい。その考えは変わらなかった。


その二日後の夕食のとき、母がご飯をよそいながら言った。


「お父さんね、管理人さんの方の話も聞きに行くって」


父は向かい側で飯を食っていたが、特に言い直しはしなかった。


「そうなんだ」


政雄がそう言うと、父が口を開いた。


「まだ決めたわけじゃないぞ。話を聞くだけだ」


「うん、それでいいと思う」


父はそれ以上は何も言わず、また箸を動かした。母も少し安心したような顔をしている。政雄も、ひとまずそれで十分だった。すぐに決まる話ではなくても、父が一度そちらへ目を向けたことには意味がある。


その週の土曜は出勤日だった。

本店へ向かう電車の窓から見る東京は、相変わらず景気がよさそうに見えた。新しいビルが建ち、店は増え、どこでも強気な話が聞こえる。みんな、この先もこんな調子で続くと思っているのだろう。


電車から降りて改札へ向かいながら、政雄は父のことを思い出した。今の空気に引かれて決めていい話ではない。そのことだけは、はっきりしていた。




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