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第76話 仕事、趣味そして家族

水曜日の朝、政雄は出勤するとすぐ田口に呼ばれた。前日までに見て回った候補地について、報告書に付ける資料をそろえていく作業が待っている。駅ごとの位置関係、近くの支店までの距離、管理窓口の確認先。現地で集めたことを書き出していくだけでも、思ったより手間がかかった。


「写真も付けた方がいいな」と田口が言った。「言葉だけより分かりやすい」


「そうですね。ただ、現像が間に合うかどうか」


政雄は鞄の中のフィルムを思い出して、少し困った。金曜に出す報告書に付けるなら、現像が間に合うかが問題だ。


そのやり取りを、近くで回覧をそろえていた相沢久美子が聞いていたらしい。顔を上げると、こちらへ来た。


「写真ですか?」


「ああ、現地で撮った分を付けたいんだけどな」と田口が答えた。「どのくらいでできるか分からなくて」


「でしたら、駅前の店なら早いですよ」


久美子はそう言って、政雄の持っていた封筒を見た。


「昼休みに出してきましょうか。私、あっちへ行く用事ありますし」


政雄は久美子を見た。


「いいの?」


「いいですよ。その方が早いでしょう」


「わるいね」


田口もうなずいた。


「じゃあ頼む。仕上がりがいつか、聞いてきてもらえる」


「はい」


久美子は気軽に答えて、フィルムの入った封筒を受け取った。


その日の午前中は、地図を見ながら候補地の場所を確かめ、支店までの距離を書き留め、前日に聞いた窓口の名前も加えていく作業が続いた。まだ全部はそろわないが、報告書に何を書くかは少しずつ見えてきていた。


昼を回ってしばらくしてから、久美子が戻ってきた。田口の席のそばへ寄って言う。


「写真屋さん、明日の昼にはできるそうです」


「明日か」と田口が言ったが、すぐにうなずいた。「それなら十分だな」


政雄も顔を上げた。


「ありがとう。助かったよ」


「駅前だから、明日取りに行けば大丈夫ですよ」


「うん、それでいけそうだね」


久美子はにこっとして、そのまま別の机へ回っていった。


田口が書類に目を戻しながら言う。


「明日中に付けばいいんだから、それでいいな」


「ええ。今日はそのまま下に行けますし」


「そうだな。三週間後には本番なんだから、こっちもやっとかないとまずい」


午後も仕事は続いた。候補地ごとの違いを書き分けるには、見たままを並べるだけでは足りない。駅は駅で人の流れを見るところがあり、区役所はまた別に考えなければならない。政雄はメモを見返しながら、前日までの様子を頭の中でもう一度たどった。 


      *


終業が近づくと、政雄は机の脇に置いていたサックスのケースを手に取った。朝、家から持ってきたものだった。田口も席を立つ。


「先に下りててくれ。俺もすぐ行く」


「分かりました」


「今日は一度、最初から通すぞ」


「ええ」


政雄はケースを持って、地下二階の講堂へ向かった。階段を下りるにつれて、下から楽器の音が少しずつ聞こえてくる。もう何人かは先に来ているらしかった。


地下二階の講堂に入ると、もう何人かが来ていた。前に見学したときと同じ顔もある。政雄は壁際へ行ってケースを置き、サックスを出した。

それに気づいた桜井京子が、キーボードのところから顔を向けた。


「今日は見学じゃないんですね」


「うん。せっかくだから持ってきた」


「それはうれしいです」


そこへ三崎恒一も来た。ギターを持ったまま、政雄のケースを見て笑う。


「今日はマイサックス持参か」


「そういうことになります」


「いいね。仲間が増えるのは歓迎だ」


政雄が苦笑していると、譜面を見ていた田口が声をかけた。


「来たなら、今日は合わせてみよう」


「はい、お願いします」


「最初から無理しなくていい。入れそうなところだけでいいから」


政雄はうなずいて楽器を組み立てた。講堂の空気は仕事場とは違うが、居心地が悪いほどではない。田口に促され、曲の途中から何か所か音を入れてみる。細かいところまではまだ合わなかったが、まったく吹けないわけでもなかった。


一通り終わると、田口が言った。


「それなら十分だ。その調子でいけるな」


三崎も笑った。


「最初からそれだけ吹ければ上出来だよ」


京子もキーボードの前でうなずいていた。


政雄は少し肩の力が抜けるのを感じた。仕事のことはまだ頭の隅にあったが、吹いているあいだは別のことを考えずに済んだ。


その日は長くは残らず、区切りのいいところで講堂を出た。今週は思ったより中身の多い週になりそうだと政雄は思った。


      *


木曜日の昼休み、政雄は駅前の写真屋へ寄った。前日に出しておいた現像ができているはずだった。店先で封筒を受け取り、その場で中を軽く見て枚数を確かめる。駅の出入口、改札脇の空き、区役所のロビー。必要なものはきちんと写っていた。


本店へ戻ると、昼休みの終わりまでまだ少しあった。政雄は自分の席で写真を机に並べ、田口も向かいから身を乗り出して見る。


「これなら十分だな」


「はい。場所の感じは分かると思います」


「単線の駅とターミナル駅の違いも見せやすい」


田口はそう言って、区役所の写真も手に取った。


「こっちは窓口の位置が分かるのがいいな」


「人の流れまでは写りませんけど、雰囲気は伝わると思います」


「それで十分だろう」


午後になると、二人はまた報告書の作業に戻った。写真を添える場所を決め、候補地ごとの特徴を書き足していく。駅は人の出入りが多いが、規模で見え方がかなり違う。区役所は動線は読みやすいが、利用の性質が駅とは別だ。病院、百貨店、スーパーについても、前日までに見てきた内容をもとに、それぞれの利点と欠点を入れていった。


どこか一つが明らかに抜けているわけではない。ただ、置く場所として考えたときに、見るべき点が違う。その違いが分かるようにそろえていくと、候補地ごとの色も少しずつはっきりしてきた。


夕方が近づくころには、報告書もだいぶできていた。明日の朝には安東へ出せそうだと、政雄はようやく見通しを持てた。


      *


金曜日の朝、政雄と田口はそろった報告書を安東の席へ持っていった。写真も入れ、候補地ごとの利点と欠点も書き分けてある。木曜のうちに見直しておいたので、二人とも顔つきは落ち着いていた。


「できました、確認してください」


田口が言って、安東に報告書を渡す。


安東はその場で表紙をめくり、何枚か目を通した。駅、区役所、病院、百貨店、スーパー。それぞれの違いが分かるように書かれているのを見て、小さくうなずく。


「うん、これならいいな」


田口も政雄も黙って立ったまま、安東の手元を見ていた。


「どこか一つを強く押すというより、候補ごとの見方をそろえたんだな」


「はい。上で何を重く見るか、まだはっきりしていませんでしたので」


田口が答えると、安東はもう一度うなずいた。


「それでいいと思う。こっちで変に決めるより、その方が上も見やすい」


写真のページまで進むと、安東は一枚ずつ目を落としていった。


「これも分かりやすいな。言葉だけより良い」


政雄は少し肩の力が抜けるのを感じた。


「では、これで部長に上げるよ」


「お願いします」


田口が言い、政雄も頭を下げた。

安東は報告書を机の上に置き直した。


「ご苦労だったな。来週、向こうの反応が分かったらまた話す」


二人は席へ戻った。大仕事というほどではないが、今週の大きな用事が一つ済んだ気がした。政雄は椅子に腰を下ろしながら、ようやくひと息ついた。

     

      *


第3土曜日の昼前、政雄は居間で新聞を広げていた。3Kの借家は広くはないが、長く住んでいるぶん、家の中のことはだいたい決まった形で回っている。居間はそのまま両親の寝る部屋でもあり、奥にはもともと姉が使っていた部屋と、政雄の部屋がある。台所では母が昼の支度をし、そのそばに寝かせていた和子の様子を時々見ていた。


「起きたみたいよ」


母に言われて、政雄は新聞をたたんだ。和子は布団の上で手足をばたつかせている。まだ四か月だから、少し前まで寝ていたと思ったら、もう目を開けている。


「抱いてみる?」


「泣かないかな」


「大丈夫よ。いま機嫌いいから」


政雄は和子を抱き上げた。軽かった。腕の中で小さな顔が動いて、政雄の胸元をぼんやり見た、前世では姪などいなかった。和子を抱いているのが、少し不思議な感じがした。


平日はこうして顔を見ることもない。政雄は朝七時すぎには家を出るし、姉はその後に車で和子を連れて来て、母に預けてから勤め先へ向かう。夕方も、姉の方が先に迎えに来るから、寄り道でもしないかぎり入れ違いだ。こうして土曜に家にいるからこそ、ゆっくり顔が見られる。


「姉さん、今日は早いの」


「午前中で終わるって言ってたからね。もう少ししたら来るんじゃない」


母はそう言って、和子のよだれかけを直した。


「この子は手がかからない方よ。よく寝るし」


政雄は和子の顔を見た。まだ何を考えているのか分からない顔だったが、こうして腕の中にいると、姉が毎朝この子を連れて来ることも、母がそれを受け取ることも、今の家ではもう当たり前のことになっているのだと思う。


父は今日も午前中は工場に出ていた。昼には戻ってくるはずだった。定年まであとひと月だ。この家のことも、その先は少しずつ考えないといけないのだろうと政雄は思った。


「重くない?」


母が聞いた。


「いや、まだ全然」


「そのうち、そうも言ってられなくなるわよ」


和子は小さく声を出して口を動かした。政雄は思わず笑った。母も笑う。


「ほらね、今日は機嫌いいでしょう」


そのとき玄関の戸が開いて、姉が入ってきた。土曜の半日勤務を終えたままらしく、少し急いだ顔をしている。


「早かったね」


「思ったより早く終わったの」


姉は靴を脱ぎながら、政雄の腕の中の和子を見て笑った。


「ちゃんと抱いてるじゃない」


「いま起きたところ」


「泣かなかった?」


「大丈夫みたい」


姉はそれを聞いて、ほっとしたように笑った。母が台所から声をかける。


「お昼食べるでしょ」


「うん、食べる」


いつもの土曜の昼だった。母がいて、姉がいて、和子がいて、もうすぐ父も帰ってくる。政雄は和子を姉に渡しながら、こういう時間がこの先もそのまま続くわけではないことを、ぼんやり考えていた。


母が台所に立ち、姉が和子を抱き直しているのを見ながら、外では景気のいい話が増えている。街も人も、これからもっと浮かれていくのだろう。だが、この家の中で考えなければならないことは、そういう空気とは別にある。

父の定年も、姉たちの暮らしも、自分のこれからも、のんびりしてはいられない。

和子の小さな笑い声を聞きながら、政雄はそう思った。 



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