第74話 軽音楽サークル
本店の管理部門は、支店と違って客の都合に一日を左右されることがない。
もちろん締切前や資料の取りまとめが重なる時期は別だろうが、仕事が予定通り進んでいるかぎり、朝も夕方も比較的きっちりしていた。
NOOPに移って一週間が過ぎた水曜日、政雄もようやくそのリズムを体で覚えはじめていた。
その日も、夕方が近づくにつれて課の空気は少しずつほどけていった。
机の上の書類を閉じる音、引き出しを戻す音、遠くで電話を切る声。
支店にいた頃のような、閉店間際の張りつめた慌ただしさはない。
終業後に何か予定を入れられる職場というものを、政雄は少し新鮮に感じていた。
定時の少し前、田口が伝票類を脇へ寄せながら言った。
「山本君、前に話した軽音、今日なんだ」
「今日ですか」
「うん。地下二階の講堂で、毎週水曜の仕事あとに集まってる。よければ、少し顔を出してみないか?」
政雄がうなずくと、田口はどこか気楽そうに続けた。
「ただ集まって好き勝手に鳴らしてるわけじゃないよ。創立記念だとか納涼会だとか、行内の催しで出ることもあるし、年に一、二回は人前でもやる。場合によっては、ほかの銀行の連中と一緒になることもあるから、普段から合わせておかないと格好がつかないんだ」
「それは本格的ですね」
「曲もその時々だな。堅い席ならそれなりのものをやるし、砕けた会なら映画音楽でも歌謡曲でもやる。子ども向けなら、アニメの主題歌みたいなものまでやるよ」
そう言ってから、田口は少し笑った。
*
終業のベルが鳴ると、田口は手早く机を整え、安東に一声かけた。
「安東さん、私はこれで失礼します」
「ああ、今日は水曜だったね」
安東は顔を上げ、政雄の方も見た。
「山本君も行くのか」
「はい。少し見せていただこうかと」
「それはいい。仕事の外で知る顔が増えるのは悪くないよ」
政雄が頭を下げると、田口は廊下へ出るよう軽く顎を動かした。二人で事務企画課を出る。夕方の本店は、支店の閉店後とはまた違う静けさがあった。
まだ机に向かっている者もいるが、廊下を行き交う人の足取りにはどこか余裕がある。窓口の客に合わせて一日が終わるわけではない職場というのは、こういうものかと政雄は思った。
箱が下りてきて、二人は乗り込んだ。田口は地下二階の釦を押した。
「籍だけなら十五人くらいいるんだけど、毎週きっちり来るのはそこまで多くない。キーボード、ベース、ギター、ドラムで四人。それに俺と、トランペットが一人、トロンボーンが二人。だいたいその八人が顔を出す。これでひとまず形にはなる」
「足りないところはどうするんですか」
「曲に合わせて、その都度声をかけるんだよ。歌が要るなら歌える人を入れるし、もう少し厚みが欲しければ別の楽器も頼む。結局、催しに合わせて編成を変えるのがいちばん楽なんだ」
田口は続けた。
「俺はクラリネット担当だけど、子どもの頃にピアノも少し習ったから、簡単な伴奏くらいなら何とかなる。人数が足りないと、そっちへ回されることもある」
「そうなんですね」
「大したものじゃないよ。全く触れないよりは少しましってだけだ」
田口はあっさり言ったが、子どもの頃から楽器に触れてきたというだけで、政雄には少し違う世界の人間に思えた。自分の育った家のあたりで、子どもにピアノを習わせる家はそう多くなかった。田口の家は、わりあい余裕があったのかもしれないと政雄は思った。
地下二階で扉が開くと、講堂のある一角は上の階より少し広く、遠くから楽器の音がかすかに漏れていた。まだ曲になる前の、短い音の重なりだった。
「もう何人か来てるな」
田口はそう言って、講堂の扉へ向かった。
田口が講堂の扉を開けると、中にいた何人かが入口を見た。壇の前には譜面台と椅子が並べてあり、その脇に楽器のケースが置いてある。もう来ている者は、それぞれ譜面を見たり、楽器を出したりしていた。
「お、田口さん」
キーボードの前にいた若い女性が声をかけた。肩までの髪を後ろで留めている。
「京子ちゃん、早いな」
「今日は総務の方、あまり忙しくなかったんです」
田口は政雄を見た。
「山本君、こっちは桜井京子さん。総務部でキーボードをやってる」
桜井は立って会釈した。
「桜井です。本店に来たばかりなんですよね」
「うん、先週からね。今日は田口さんに誘われて、ちょっと見に来ました」
「田口さんから少し聞いてます。サックスをやるんですよね」
「中学の時に吹いてて、大学でも少しやってました」
「そうなんですね。私はキーボードです」
「どんな曲をやるんですか」
「その時々ですね。催しに合わせて決めることが多いです」
その時、奥でギターを持っていた男がこちらへ来た。ネクタイを少し緩めている。
「田口君、前に話してた山本君?」
「ええ、そうです」
男は政雄に目を向けた。
「調査部の三崎です。よろしく」
「山本です。よろしくお願いします」
「サックスはアルト?」
「はい、アルトです」
「いいね。アルトがいると、厚みが出るからね」
「まだ吹いてもらってないんだから、そこまで言うのは早いですよ」
田口がそう言うと、三崎は笑った。
「別に今すぐ入れって言ってるわけじゃないよ」
政雄が講堂の奥へ目をやると、壁際に少し古いケースが立てかけてあった。三崎も気づいたらしい。
「そういえば、あれアルトじゃなかったか」
「ああ、備品のやつですね」と田口が言った。「まだ使えるかな」
「この前見た時は大丈夫そうだったよ」
三崎は政雄を見た。
「せっかくだし、ちょっと吹いてみてよ」
「いきなりですか」
「無理にとは言わないけど、音が出るかどうかくらいは分かるだろ」
政雄はケースを見た。気は進まなかったが、断るほどでもなかった。
「じゃあ、少しだけ」
田口がケースを運んできて、金具を外した。中にはアルトサックスが入っていた。政雄はマウスピースを拭き、楽器を組んだ。リードを確かめてから、軽く息を入れる。
最初の音は少しかすれたが、二度目には鳴った。
講堂の中の話し声が止まる。
政雄はそのまま何音か鳴らし、指の動きを確かめるように短く吹いた。久しぶりだったが、息の入れ方も運指も思ったほど鈍ってはいなかった。もう少し吹いてみると、音も落ち着いてきた。
「お、いいじゃないか」
三崎が笑った。
近くにいたトランペットの男も顔を上げた。
「これなら十分いけそうですね」
「だろ」と三崎が言った。「少なくとも見学だけで帰すのは惜しい」
政雄は少し苦笑した。
「そんなにすぐ話が進むんですか」
「吹ける人が来たら、そりゃ期待はするよ」と三崎は言った。「本番までもまだ間があるし、一曲くらいなら何とかなるでしょう」
田口も口をはさんだ。
「もちろん無理にとは言わないけど。ただ、もしその気があるなら、次の練習日も参加してよ」
政雄は手にしたアルトを見た。久しぶりなのに、指は思ったより動いた。
「少し考えてもいいですか」
「もちろん」と三崎が言った。「でも、来てくれるなら歓迎するよ」
田口が横で言った。
「今日はこのあと合わせるから、よかったらそのまま見ていって。曲を聞いた方が考えやすいだろう?」
政雄はうなずいた。見学のつもりで来ただけだったのに、いつの間にかその先の話になっていた。
やがて全員が持ち場につき、田口が「じゃあ、一回いってみようか」と声をかけた。
ドラムが拍を出し、ベースとキーボードが入る。そこへギターと管が重なると、講堂の空気がすっと変わった。
政雄は壁際に立ったまま聞いていた。
細かい粗はあっても、音の流れはちゃんとできている。管が入るところでは、ついその先を耳で追ってしまう。自分ならどう入るか、どこへ重ねるか。そんなことを考えている時点で、もう見学だけのつもりではなくなっていた。
曲がひと通り終わると、三崎が振り向いた。
「どう?」
政雄は少し間を置いた。
「……いいですね」
「だろ」と三崎は笑った。「山本君が入ったら、もっと厚くなると思うよ」
田口も横で言った。
「次も来てみてよ。今日だけじゃ分からないだろうし」
政雄はすぐには答えず、もう一度、譜面台の並ぶ壇の方を見た。さっき吹いた時の感触が、まだ指に残っている。
「考えておきます」
そう言うと、田口は無理に返事を迫らなかった。
もう一曲始まれば、たぶんまた最後まで聞いてしまうだろうと政雄は思った。




