第73話 本店事務企画課
本店初日、今回は短めです。
十月一日の朝、政雄は千代田区にある双葉銀行本店の前で足を止めた。
見上げれば、二十階建ての自社ビルが朝の光を受けて、白く硬い壁のように立っている。支店にいたころは、本店というだけで少し遠い場所のように感じていたが、今日はもう外から見上げるだけの場所ではなかった。ここへ通うことになるのだと思うと、いまさらのように現実味が湧いた。
中に入り、案内された十階へ上がる。事務企画課のあるフロアは、支店とは空気が違っていた。客の出入りや電話の慌ただしさが前に出るのではなく、机の上の書類と人の動きが、全体として静かに流れている。声を潜めているわけではないのに、どこか抑えられた忙しさがあった。
奥の方で先に政雄へ気づいたのは田口だった。
「やあ、山本君。来たね」
「おはようございます」
その声で安東も顔を上げた。
「おはよう。今日からよろしく」
「よろしくお願いします」
支店で会ったときとは違い、安東はもう完全にこちら側の人間として政雄の前にいた。やわらかい口調は変わらないが、その背後にあるものが少し違う。ここではこの人が、政雄の仕事の向きを決めるのだと思った。
簡単な挨拶のあと、田口が空いている机を示した。
「とりあえず、席はここ。もっとも、まだ係そのものが出来たばかりだから、整っていないものも多いけどね」
「はい」
机の上はきれいだった。きれいすぎると言ってもよかった。前の持ち主の癖も、積み上がった書類もまだない。これからここに、自分の仕事が少しずつ形を持っていくのだろう。
政雄が周囲を見ていると、田口が少し笑った。
「君が入るところは、事務企画課の中でも新しく立ち上げる係でね。名前だけはもう決まっている」
「名前ですか」
「次世代オンライン事務企画係」
そこで田口は、少しおどけたように続けた。
「英語にすると Next-generation Online Office Planning だ。略して NOOP」
自分で言っておいて、田口は小さく笑った。
「もっとも、名前だけはずいぶん大きいけどね。中身はこれから作るんだ」
政雄も軽くうなずいた。
NOOP。妙な略し方だなと思う。口には出さなかったが、CO-OPみたいだと思った。
「まあ、やること自体は大げさでも冗談でもないよ」
安東が口を開いた。
「支店の現場と、これから先のオンライン化の動きと、その両方を見ながら形を考えていく。田口君からも聞いていると思うが、まだ答えが決まっている仕事じゃない。だからこそ、現場を知っている人間に入ってもらいたかった」
「はい」
そう答えたところで、フロアの空気が少し変わった。朝礼の時間らしかった。
政雄はそのあと、部長以下、課の面々に簡単な挨拶をした。支店から本店へ異動してきた山本政雄です。よろしくお願いします。短くそう言っただけだが、向けられる視線の種類が支店とは少し違っている気がした。値踏みというほど露骨ではない。ただ、新しく来た人間がどんな人物かを、皆それぞれの距離で見ているのが分かった。
*
朝礼のあと、政雄は田口に促されて、事務企画課のいちばん奥まった一角へ向かった。そこが、新しく発足したNOOPの持ち場だった。
課の島の端を少し空けて机が寄せられ、奥に安東、その手前に田口と政雄の机が向かい合うように置かれている。
脇には資料を広げるためのテーブルがあり、壁際にはキャビネットとホワイトボードが立てかけてあった。
まだ物は少ないが、それだけに、ここがこれから仕事を抱え込んでいく場所なのだと分かる。
三人がテーブルにつくと、安東は気負いのない調子で口を開いた。
「うちで求められているのは、店の外に出る機械の扱いをどう考えるか、それと、先で接続先が増えるなら何を前もって揃えておくべきか、その整理だよ。年内に一度、叩き台を出すことになっている」
田口が持ってきた資料の束を広げる。店外端末の設置例、保守や現金補充に関するメモ、回線の引き方についての資料が、テーブルの上に薄く並んだ。今年、企業内設置を除く普通銀行の店舗外CDやATMの設置数規制がなくなり、それの対応だという。
「今日はまず、これまで集めたものを見てもらおう。すぐに答えが出る話じゃないが、どこに論点があるかは掴んでおきたいからね」
政雄はうなずいた。目の前の仕事がそのまま面白いというほどではないが、ここで扱う回線・接続や運用の話は、この先どこかで役に立つだろうという気はした。
昼前、湯呑みを乗せた盆を持って、課付きの女子行員がふらりとやってきた。少し小柄で、誰に対しても臆するところのない笑顔をしている。
「お茶、お持ちしました」
「ああ、悪いね」
安東が言うと、彼女は手際よく湯呑みを並べ、ついでのようにテーブルの上の地図を覗き込んだ。
「また難しそうなことしてますね」
「難しいというより、まだ決まってないことを並べてるだけだよ」
田口がそう返すと、彼女はくすりと笑った。
「決まってないことの方が大変そうです」
言いたいことだけ言って、盆を抱え直す。
「相沢です。何か要るものがあったら言ってください」
それだけ残して、相沢久美子は長居もせず島の方へ戻っていった。入行二年目で、商業高校を出てそのまま事務企画課に配属されたと田口が小声で教えた。書類でもお茶でも伝言でも、何かにつけてこのあたりへ顔を出すらしい。
その日、政雄はほとんどを資料読みで過ごした。資料の束は地味だったが、店の外へ出る端末と、その先につながる回線や接続の話は、思っていたより広がりがあるように見えた。本店へ来た実感も、夕方になる頃には少しずつ形を持ち始めていた。
数日後、田口に誘われて軽音楽サークルに顔を出すことになるのだが、このときの政雄はまだ、NOOPでの毎日がその先どこへつながっていくのか、そこまでは考えていなかった。




