第72話 転属準備
翌日、政雄は様子を見て支店長室の前に立った。ちょうど急ぎの案件は切れていて、いまなら少し時間をもらえそうだった。
扉をノックして声をかける。
「失礼します。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
支店長が顔を上げた。
「うん、いいよ。どうした」
政雄は一度戸を閉めてから言った。
「昨日、本店の田口君から個人的に話がありまして。まだ正式な話ではないそうなんですが、一度ご相談したくて」
支店長はそれだけで少し表情を改めた。
「田口君から?」
「はい」
政雄は、仕事帰りに駅前の居酒屋で会ったこと、新しい案件が本店で動き出すこと、その責任者が安東であること、事務企画課への異動を含めた打診であることを、順を追って話した。
支店長は途中で口をはさまず、最後まで聞いてから椅子に背を預けた。
「なるほどね」
それから少し考えるように黙り込んだあと、静かに言った。
「正直に言えば、いまは営業の人間が減るのはきついな。上からは融資実績をもっと上げるようにと言われているし、支店としても楽ではないからね」
「はい」
「ただ、そういう話が本店から君のところへ来たというのは、それなりに意味があるんだろう」
支店長はそこで政雄を見た。
「君自身は、この話をどう思っているんだ」
政雄は少しだけ間を置いた。
「興味はあります。かなり」
「そうか」
支店長は、そこで小さくうなずいた。
「君は、人があまり気づかないところもよく見ているし、それを少しでもやりやすくできないかと考えるのがうまい。少し先まで見て動こうとするところもある。私はそう見ているよ」
「ありがとうございます」
「営業成績が悪いわけではない。むしろ、よくやっている方だと思う」
そこまで言ってから、支店長は言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。
「ただ、今の銀行のやり方に、君なりに何か思うところはあるんだろうね」
政雄は視線を少し落とした。
「……私一人でどうこう出来ることではないと分かってはいるのですが」
支店長はそれ以上は聞かなかった。
「だろうね」
責めるでもなく、ただ確かめるような口調だった。
「だったら、君には事務企画課の方が向いているのかもしれないな」
政雄は顔を上げた。
「もちろん、正式な話なら支店として手放しで喜べる時期ではないよ。だが、向いている場所へ行く人間を無理に引き留めるのも、それはそれで違う」
支店長は机の上で指を組んだ。
「まだ打診の段階なら、先方にもそう伝えておけばいい。私としては、君が本気で希望するなら反対はしない」
その言葉に、政雄は胸の奥のつかえが少し下りるのを感じた。
「ありがとうございます」
「ただし、正式に決まるまでは今の仕事をきちんとやること。それと、決まったなら引き継ぎは丁寧にしてもらうよ」
「はい」
「田口君には、こちらには相談したと伝えておいてくれ。あとは正式な話が来てからだね」
「分かりました」
*
支店長室を出たあと、政雄はすぐに電話を入れるのではなく、少し時間を置いた。まだ正式な話ではないにしても、返事はきちんとした形で伝えたかったし、自分の中でも一度落ち着かせておきたかった。
その日の午後、手の空いた時間を見て、政雄は本店へ電話を入れた。
取り次ぎを頼むと、ほどなくして田口が出た。
「はい、田口です」
「上東支店の山本です。先日はありがとうございました」
「ああ、山本君。どうだった」
政雄は姿勢を正した。
「支店長に相談しました。まだ正式な話ではないことも含めてお伝えした上で、自分としてはぜひ前向きにお願いしたいとお話ししました」
「うん」
「支店長からも、正式な話になったときはきちんと対応するということでしたので、もし進めていただけるようでしたら、ぜひお願いしたいと思います」
電話の向こうで、田口の声が少し明るくなった気がした。
「そうか。それはよかった」
「はい」
「では、こちらでもそのつもりで安東さんに話しておくよ。支店側の話もあるから、正式にはそちらの上を通して進めることになるだろうけれど、山本君の意向は分かった」
「よろしくお願いします」
「君ならそう言ってくれるんじゃないかと思っていたよ」
少し笑うような声だった。
「もっとも、まだこの先どう転ぶかは分からない。そこは承知しておいてくれ」
「はい、そのつもりです」
「それでも、話としてはいい方向だと思う。正式に動く段になったら、またこちらから連絡するよ」
「分かりました」
短いやり取りだったが、受話器を置いたあと、政雄はようやく一つ息をついた。まだ決まったわけではない。だが、自分から手を伸ばした先に道がつながっている感触は、たしかにあった。
*
それからしばらくして、本店から正式な連絡が入った。
その日は午前の来客対応がひと段落したころで、支店長室に内線が回ったあと、ほどなくして政雄が呼ばれた。
「山本君、ちょっといいか」
入っていくと、支店長は受話器を置いたところだった。
「いま安東さんから電話があったよ」
その一言で、政雄の背筋が少し伸びた。
「はい」
「事務企画課の新しい案件の件で、正式に君を出してほしいという話だった。発令は十月一日付を予定しているそうだ」
やはり、そこまで進んでいたらしい。
「そうですか」
「まだ内部の手続きはあるだろうけれど、先方としてはそのつもりで動いているようだね」
支店長はそこで、机の上の書類を軽くそろえた。
「正直に言えば、いまこの時期に営業を一人出すのは楽ではない。だが、先に話した通り、君に向いている仕事なら行った方がいいとも思っている」
「ありがとうございます」
「安東さんからも、君のことは覚えていると聞いたよ。勉強会でも見ているし、改善案の視察のときの印象も残っていたそうだ」
そこまで聞くと、政雄は少しだけ驚いた。田口が間をつないでくれていたのは確かだろうが、それとは別に、安東自身の中にも印象が残っていたらしい。
「そうだったんですか」
「本店というのは、案外そういうところを見ているものだよ」
支店長は小さく笑ってから、すぐに現実的な口調へ戻った。
「とはいえ、決まった以上はこっちも準備をしないといけない。十月一日付なら、引き継ぎに使える時間はそれほど長くないからね」
「はい」
「担当先の整理と、窓口まわりで君が実際に見ていたこと、そのあたりはきちんと残していってくれ。後任が困らないようにしたい」
「分かりました」
「あと、表向きの話としては、正式な辞令が出るまではまだあまり広げない方がいい。どうしても話は漏れるだろうけれど、順番は守った方がいいからね」
「はい、そのつもりです」
支店長はうなずいた。
「では、そういうことで進めよう。山本君、忙しくなるぞ」
「はい」
支店長室を出たあと、政雄はすぐには席へ戻らず、廊下の窓際で一度だけ息をついた。
まだ三か月近くある。だが、もうただの話ではない。十月一日という日付を持った時点で、それはもう現実だった。
正式な話が通ったあと、まず必要になったのは引き継ぎだった。
政雄は営業課長に声をかけ、空いた時間に席を外して打ち合わせをした。課長は最初、政雄の異動を惜しむというより、やはり現場の人数が減ることの方を先に気にしているようだった。
「まあ、決まったものは仕方ないが、こっちとしては楽じゃないな」
「申し訳ありません」
「君が謝ることでもないよ。ただ、そのぶん引き継ぎはきちんとしてもらわないと困る」
「はい」
営業課長は政雄の担当先を一覧で見ながら、何人かの名前を順に挙げていった。
「このあたりは木下でいいだろう。もともと業種も近いし、先方も話しやすいはずだ」
「はい」
「こっちは大沢かな。融資額はそれほど大きくないが、月に一度は顔を出していたんだろう」
「ええ。店主の癖はありますが、話は通じる方です」
「なら、そのへんも含めてちゃんと伝えてくれ」
課長はそこで一覧を追いながら、少しだけ眉を動かした。
「それと、この何件かだな」
政雄も視線を落とした。そこに並んでいたのは、実績の乏しい段階から相談に乗り、何とか融資まで持ち込んだ先だった。まだ返済の途中で、金額だけ見れば支店の中で特別大きいわけでもない。だが、政雄としては気にかかる先ばかりだった。
「この先は、できれば引き継ぎの前に一度こちらから説明しておきたいです」
「やはりそうか」
「はい。数字だけ見れば普通でも、ここまで来るまでの経緯を知らないと、先方も不安になると思います」
課長は少し考えてからうなずいた。
「分かった。その先は後任を決めたら、お前も一緒に回ってくれ。最初の顔合わせはあった方がいいだろう」
「お願いします」
「まだ二年ちょっととはいえ、実績の乏しいうちから相談に乗って、何とか融資までつないだ先もあるんだろう。そういう相手には、変に投げたように見せない方がいい」
その言い方に、政雄は少しだけ救われた気がした。
「はい」
「それと、窓口まわりで気づいていたことや、フロアで見ていた混雑の癖みたいなものも、できるだけ残しておいてくれ。後任が営業だけ見ていればいいという話でもないからな」
「分かりました。そちらもまとめておきます」
課長は一覧をたたきながら言った。
「九月は意外とすぐ来る。先方へのあいさつも含めて、順番を考えて進めよう」
「はい」
引き継ぎが決まった先には、後任と顔を合わせる段取りも進めた。政雄が相談に乗り、融資まで持ち込んだいくつかの新しい商売も、いまのところ返済はおおむね順調だった。少なくとも遅れや条件変更の相談が出ている先はなく、支店としても落ち着いて引き継げる状態にあった。それでも、これまでの経緯を知っている相手が一度きちんと顔を出しておくことには意味がある。政雄は後任とともに何件かを回り、異動のあいさつをすませていった。
仕事の引き継ぎが具体的に進み始めると、十月一日という日付も急に重みを増した。まだ辞令は出ていない。だが、もう後戻りする話でもなかった。支店の中で覚えたことを手放すようでもあり、その先へ持っていくようでもある。政雄はそんなことを考えながら、自分の机に戻った。
いつか父に言われたことを、政雄はふと思い出した。
腐らずに目標を決めて、まっすぐに努力してきたことを褒めてもらった。
その重みがいまになって少し身にしみる気がした。
こんなに早く事務企画課へ行ける日が来るとは、正直、思ってもみなかった。
だが、そこは終着点ではない。
ようやく、次の目標に向かう入口に立ったのだと、政雄は思った。




