第71話 姉の出産と田口からの打診
六月の半ば、姉が女の子を産んだ。
予定日に合わせて母は付き添いで病院へ行っていたが、生まれたのはその翌日だった。父も政雄も仕事で、病院にいたのは母と義兄だけだった。昼過ぎに無事生まれたと知らせが入ったとき、政雄は受話器を置いたあとで、ようやく一つ息をついたのを覚えている。
女の子だと聞いたのは、そのすぐあとだった。
名前は和子になった。義兄の名前から一文字取ったのだと母がうれしそうに話していたから、たぶん最初からそのつもりだったのだろう。
母はそれから毎日のように病院へ通った。もう配達の仕事はやめていたから時間は取りやすかったし、洗濯物だの足りない物だのを持って行っては、帰ってくるたびに和子の様子を話した。小さいだの、よく寝るだの、指が細いだの、同じようなことを何度も聞かされた気もするが、あれはあれで楽しそうだった。
五日後、姉は和子と一緒に退院し、そのまま自分の家へ帰っていった。しばらくは母が手伝いに通うことになる。実家から団地までは、バスを使えば三十分ほどだ。近いといえば近いし、毎日となればそれなりに手間でもある。
姉がいなくなったあとの家は少し気が抜けたようでもあり、どこか寂しくもあったが。子供が一人増えただけで、家の中の話題まで少し変わってしまうものらしいと、政雄はそんなことを思った。
その次の休みの日、政雄は父と母と一緒に姉の団地を訪ねた。
生まれたばかりの赤ん坊というものは、もっと毛も生えそろわない、くしゃくしゃの顔をしているものだと勝手に思っていた。自分の赤ん坊のころの写真が、そんな感じだったからでもある。だが、実際に見せられた和子は、髪も思ったよりしっかり生えていて、顔立ちもずいぶん整って見えた。
政雄は思わず口にしていた。
「この子は美人になるよ」
すると、姉が布団のそばで笑った。
「親ばかなら分かるけど、叔父ばかってあるの?」
「あるんじゃないか。いま初めてできたけど」
そう答えると、義兄まで笑った。
母は和子ばかり見ていたし、父も父で、口数は少ないくせに顔つきだけは思ったよりゆるんでいた。こういうとき、自分の家族も案外分かりやすいなと政雄は思う。
もっとも、生まれたばかりの母子がいるところへ長居するのもよくない。祝いを言うだけ言って、和子の顔を見て、少し話をしただけで、その日は早々に引き上げた。
家に戻る道すがらも、母は和子のことばかり話していた。父はいつものように相づちを打つだけだったが、機嫌は良さそうだった。そんな二人を見ながら、政雄も少し肩の力が抜けた気がしていた。
*
その数日後、支店に一本の電話が入った。
田口からだった。
もっとも、仕事の話をその場でする気はないらしく、用件はごく短かった。今度、時間のあるときに少し話せないか。
「できれば仕事のあと、駅前で軽く飲みながら」そんな誘いだった。
政雄には、すぐには思い当たることがなかった。窓口やフロアーの混雑対応については、試験運用ももう一段落している。いまさらその件ということでもないだろう。ほかに田口とつながる用件となると、見当がつかなかった。
それでも、断る理由はなかった。年明けに自分の中で考えたことを、政雄はまだ覚えていた。田口との縁は大事にしておく。あの人は、ただ感じのいい先輩というだけではない。先のどこかで、きっと意味を持つ。
だから政雄は、ほとんど間を置かずに了承した。
「分かりました。では、その時に」
*
約束の日、政雄は仕事を終えてから駅前の居酒屋に向かった。
去年、田口と話したのもたしかこのあたりだったはずだ。店まで同じだったかどうかまでは覚えていないが、赤ちょうちんの下をくぐったとき、何となく前とよく似た空気だと思った。
田口はもう先に来ていた。
「やあ、山本君。急に呼び出して悪かったね」
「いえ、今日は何かありましたか」
軽く飲み物を頼み、焼き鳥が来て、少し仕事帰りらしい当たりさわりのない話をしたあとで、田口が杯を置いた。
「去年、君と話したことを覚えているよ」
政雄は顔を上げた。
「円高の話ですか」
「そう。それに、この先どうなるかという話だ。去年の君は、輸出の比重が大きいところは厳しくなる、その一方で内需寄りの商売や住宅の方へ金が向かうかもしれないと言っていたね」
「ええ」
「実際、だいたいそんなふうになってきた」
田口はそこで少し笑った。
「それで、支店の方はどんな感じだい」
そこまで言われると、政雄も少し気がゆるんだ。田口は本店の人間で、営業の前線にいるわけではない。そのせいか、つい本音に近いものが出る。
「そうですね。勢いはかなり変わりました。土地を持っている先なら、前よりずっと話が進みやすくなっています」
「やはりそうか」
「ただ、少し気になるところもあります。土地があれば、その先の値上がりまで見込んだような額で担保に取る話も出てきていますし、あまり楽観しすぎるのは危ない気がします」
田口は相づちを打ちながら、しばらく黙っていた。否定もしなければ、すぐに同意もしない。そこがこの人らしいと政雄は思う。
「うむ」
やがて田口は口を開いた。
「実はね、四月に安東さんが副部長に昇進したんだ」
政雄は少し意外に思ったが、顔には出さなかった。
「そうでしたか」
「それで、今度その安東さんが責任者になる新しい案件が動き出す。まだ大きく外へ言える段階ではないんだが、本店の中ではそれなりに人を見ているところでね」
田口はそこで一度言葉を切り、政雄の反応を見た。
「銀行の仕事そのものをすぐ変えるほど大げさな話ではないよ。ただ、この先を考えると、今のうちに手を付けておいた方がいい種類の仕事ではあると思う」
政雄は黙って先を待った。
「はい。興味はありますが、具体的にはどんな仕事でしょう」
そう聞くと、田口は少しうなずいた。
「君は以前、勉強会で話していただろう。いずれは銀行の中だけで完結する話ではなくなって、ほかの業種との連携もありうる。そうなると、今のコンピュータやシステムも変わっていくかもしれないと」
政雄は、そのときのことを思い出した。
「ええ」
「まさにそれさ。双葉銀行としても、そういう流れで他行に後れを取るわけにはいかない。だから今のうちから、どういう備えが要るのか、何を先に見ておくべきか、調べたり考えたりしておこうということなんだ」
田口は、そこで杯に口をつけてから続けた。
「仕事内容は、おそらく一つ二つでは済まないだろうね。今ある事務の見直しもあるだろうし、機械や運用の話もある。外の動きも見ないといけないだろう。安東さんが責任者になったのも、そういう先の広い話だからだよ」
「そうですか」
政雄はそこで、もう一つ気になっていたことを聞いた。
「それと、この時期に事務企画課へ正式異動ということになりますか?」
「うん。そこは安東さんに確認するけれど、新しい案件で人を増やす話だから、たぶんそうなると思う」
政雄はすぐには答えなかった。興味はあった。むしろ、かなり強く引かれていた。だが、この場でそのまま即答するのも違う気がした。支店での立場もあるし、話の順としても先に通すべきところはある。
「分かりました。自分としてはとても興味があります。ただ、いったん持ち帰って、支店長にも相談させてください」
「そうだね。その方がいいだろう。今の仕事の絡みもあるだろうしね」
田口はあっさりとうなずいた。
「支店長に相談して、決まったら電話でいいから連絡してくれ。いい返事を待っているよ」
「はい」
そのあと田口は、前に一度話した本店の軽音楽サークルのことを少し持ち出した。まだ興味はあるかとか、見に来るだけでもかまわないとか、そんな軽い調子だった。打診のあとの妙な張りつめ方を、それで少しゆるめてくれたのかもしれない。
店を出るころには、夜風が少し気持ちよかった。政雄は駅へ向かいながら、胸の奥が静かに高鳴っているのを感じていた。




