第70話 バブルの到来と親子の会話
一九八七年の年明けは、政雄にとってそう悪いものではなかった。
昨年、支店長が募った業務改善案に応募した自分の案は、導入から一年がたって、目に見える効果が出ていた。
ゴトウビや月末前後の午前中いっぱいは、どうしても店内が込み合う。そこを少し整理し、客の流れを変えるだけでも、窓口まわりの空気は前よりずいぶん違っていた。
混雑時には、退職した元行員をフロアー案内のパートとして入れる案まで、他店舗でも検討され始めていると聞けば、応募してみた甲斐はあったのだろう。
なかなかいい一年の始まりではないかと、政雄は思っていた。
だが、四月に入るころから、支店の空気は目に見えて変わった。
円高の影響で、大手の輸出企業は以前ほど景気のいい設備投資の話を持ってこなくなった。
その一方で、低金利を追い風にした国内向け産業や個人向けの資金需要には勢いがある。
上から下りてくるのは、そうした先への融資をもっと積極的に行えという話ばかりで、しかも土地を持っている先ならなおよし、という調子だった。
とうとうこの時代が来たか、と政雄は思った。
この先どうなるか、政雄は知っている。低い金利に背中を押され、土地を担保に金が動き始めれば、しばらくは誰も困らない顔をする。
貸した側も借りた側も景気の波に乗ったつもりになり、見かけの成績だけ見れば万事順調に見える。
だがそれは長くは続かない。土地は永遠には上がらないし、皆が安全だと思っている時ほど、足元はもろくなっていく。
問題が表に出るのはまだ先でも、流れそのものはもう始まっている。
四月に入って配属された新人の一人が、外回りの帰りにそんな政雄へ首をかしげたことがある。
「山本さん、どうしてもっと積極的に行かないんですか」
「何をだよ」
「融資ですよ。土地さえ押さえれば、まだまだ出せる先はありますよね。ほかの先輩方、かなり強気じゃないですか」
政雄は少し歩調を緩めた。
「土地の値段なんて、この先もずっと同じ調子で上がるわけがないと思うから」
「でも今は上がってますよね」
「今は、な」
新人はそこで不思議そうな顔をした。
「それだと、成績は上がりにくいんじゃないですか」
その通りだった。だから困るのだ、と政雄は胸の内だけで答えた。
実際、支店の営業たちは春を過ぎるころから目の色が変わっていた。
これまでなら少し様子を見るような先にも、土地さえあれば話を進める。
建設、不動産、流通、とにかく資金を欲しがる先はいくらでもあり、貸した分だけ成果として見えやすかった。
会議でも、誰それが今月いくら出した、どこの先で大きい話がついた、という話が続く。去年までなら慎重だと言われていた先輩まで、今では土地を持っているならまず当たれ、という口ぶりだった。
政雄だけが取り残されているわけではない。慎重に見ている者がほかにいないわけでもないのだろう。だが、少なくとも表に出る空気は完全に変わっていた。いま強く出られない営業は、やる気がないか、勘が鈍いか、そのどちらかのように見られ始めていた。
*
そんな折、政雄は支店長室に呼ばれた。
何かあっただろうかと思いながら入ると、支店長は机の向こうで帳面を閉じ、政雄の方を見た。
「山本君、最近の融資実績だが、君だけ特に落ちているわけではない」
そこまで聞いたところで、その先もだいたい読めた。
「ただ、今の支店全体の動きと比べると、どうも慎重すぎるように見えるんだよな」
「はあ」
「もちろん、無理に乱暴な貸し方をしろという話ではない。だが、土地を持っている先でもう少し踏み込めるところはあるんじゃないか。上からもそういう方針が出ている以上、支店としては拾える案件は拾っていかないといけない」
「はい」
「君なりの考えがあるのは分かる。だが、いまのままだと、どうしても消極的に見られるだろうな」
返事をしながら、政雄は腹の底が少し重くなるのを感じていた。
言われていることは分かる。
支店長も好きでこういうことを言っているわけではないのだろう。
けれど、だからといって気が軽くなるわけでもなかった。
四月も終わりに近づくころには、支店の空気はさらに露骨になっていた。土地を持っている先へ足を運び、話を大きくして帰ってくる営業ほど景気のいい顔をしていたし、そういう先をいくつも抱えた者ほど会議でも名を呼ばれる。
政雄のやっていることが間違いだとは、まだ誰も言わない。
だが、褒められもしない。目立って失敗しているわけでもないのに、どうにも流れに乗れていない者として見られている気配だけは、日に日に濃くなっていくようだった。
五月に入っても、その感じは薄れなかった。成績そのものは以前と大きく変わっていないのに、周りが勢いづいているぶんだけ、自分だけ取り残されているように見える。
希望している先はまだ遠く、今いる場所ではどこか噛み合わない。
そのことが、思った以上にこたえていた。
*
そんな日が続いた五月の日曜、母と姉夫婦は赤ん坊のためのあれこれを買いに出かけていった。姉の家に置くものと、こちらに置いておくものとで考えることがいろいろあるらしく、朝から三人でずいぶんにぎやかだった。
そのあとに残されたのは、父と政雄だけだった。
居間ではテレビがついていたが、父も政雄もろくに見ていない。母が出していった茶を飲みながら、何となく時間だけが過ぎていく。こういうとき、間をつなぐのはたいてい母か姉なのだが、今日はそれがいない。
蚊帳の外にされた男二人というのは、こういうことかもしれないと政雄は思った。
「にぎやかだったな」
先に口を開いたのは父だった。
「まぁね。ああいうのは、男がいてもあまり役に立たないだろうし」
「それもそうだな」
そこでまた少し間が空いた。
このままでも別にかまわないのだが、今日はそうもいかない気がした。正月の脳内会議で決めたことを思い出しながら、政雄は湯飲みを置いた。
「父さん、ちょっと聞いてもいい?」
「ん?何だ」
「いや、たいした話じゃないんだけどさ。最近、仕事の方が少しやりにくくてね」
父は顔を上げたが、すぐに何か言うでもなく、その先を待った。
「春から店の空気が変わったというか、融資をもっと積極的に取ってこいって話が強くなってるんだ。土地を持ってる先なら、なおさらでね」
「うん」
「別に僕だけできてないわけじゃないんだけど、ほかと比べると慎重すぎるって見られてるらしい。この前、支店長にも、もう少し踏み込めるところがあるんじゃないかって言われたよ」
「そうか」
「言ってることは分かるんだけどね。支店の方針ってのもあるし。でも、どうもああいうやり方に乗り切れないんだよ」
父は湯飲みを持ったまま、少し考えるように目を落とした。
「生きていれば、自分の意にそぐわないことなんていくらでもあるさ」
それだけ言って終わるのかと思ったが、父はその先も続けた。
「仕事ならなおさらだろう。自分の思う通りにばかりいくものでもない」
「うん」
「銀行のことは父さんにはわからないけど、政雄は子供のころからしっかり目標を決めて、まっすぐ努力していたじゃないか」
「うん」
「今回も、今は足場を固めるときだと割り切って、何をすればいいのか考えてみてもいいと思うな」
「そうか。そうだね、考えてみるよ」
父にしてはずいぶん長い言葉だった。政雄は少し意外に思いながら、湯飲みの中の茶を見た。
政雄はふと、前世でも父とこんな話はしなかったと思った。しかし、あのころの自分では、父の話は説教にしか聞こえなかったかもしれないとも思う。
「ありがとう。父さんに話したら、少し楽になった気がするよ」
「それなら良かった」
「そういえば父さん、定年っていつなの」
その問いには、父も少し間を置いた。
「会社の決まりだと、いまのところ五十五だよ」
「じゃあ、今年なんだ」
「ああ。今年の十一月だな」
「そのあとは、何か考えてる?」
「何も考えていないわけではないよ。しばらく休むにしても、ずっと家にいる気はないしね。何かしら働くだろうな」
政雄はそこで、前世の記憶の中にあるマンションの管理人を思い出した。この時代の後から急速に増える仕事で、高齢者向けの求人も多くなることを政雄は知っている。父はああいう仕事に向いていそうだ、とふと思う。まじめで、時間にもきっちりしていて、口数は少ないが人当たりも悪くない。
案外、ああいう仕事の方が長く続けやすいのかもしれない。
だが、それを今ここで言うのも違う気がして、口には出さなかった。
「母さんの方も、そろそろ配達の仕事を辞めるんだろうね」
「あとひと月もすれば幸の子供も生まれる。それまでにはやめるつもりだろう」
「そうなると、家のこともいろいろ変わるね」
「変わるだろうな」
父はそこで一度言葉を切った。それから、少しだけ遠くを見るような顔になった。
「正直に言えば、幸も政雄も、二人とも大学までやれるとは思っていなかったんだ」
政雄は思わず父を見た。
「うん?」
「二人とも奨学金で公立に行ってくれただろう。あれは家計の上では本当に助かった」
「うん」
「だから、退職したあとすぐにどうにかしないといけない、というほど切羽詰まってはいない。そこは二人のおかげだよ」
そこで父は、わずかに息をついてから続けた。
「お前たち二人は父さんの自慢だ」
そこまで言われると、政雄は返す言葉に少し困った。気恥ずかしいのもあるし、そんなふうに面と向かって言われること自体が珍しすぎた。
「そんなに褒められると、ちょっと恥ずかしいな」
「そうか。だが、これは本心だからな」
そう言いつつ、言った本人もちょっと照れくさそうに笑った。
父と話したことで、政雄は改めて家族に守られているのだと感じた。それまで仕事のことで抱えていた重さも、だいぶ軽くなったように思えた。
支店の空気が急に変わるわけではないだろう。自分の立場がすぐに良くなるとも限らない。それでも、腐っているだけでは仕方がない。今の場所で何を見ておくべきか、何を覚えておくべきか、そのくらいはまだ考えられるはずだった。そう思えただけでも、この日の会話には意味があった。
1987年の銀行現場では、低金利と内需拡大の流れの中で、不動産を担保にした融資へ傾く空気が強まっていた一方、その後に資産価格の急騰が続くことも知られています。 とうとう「倍返しだー」の時代に突入してしまった、ガンバレ政雄。




