第69話 姉夫婦からの報告と元日の脳内会議
十一月も半ばを過ぎると、まだ明るいうちに洗濯物を入れておかないと、夕方には空気が冷えてくる。
朝から庭に干しておいたシャツやタオルを取り込みながら、もうそんな時分かと思った。三時前ならまだ日は高いが、のんびりしているとすぐ遅くなる。
居間では夫が釣り道具を広げていた。竿を拭き、糸を見て、小さな箱の中をいじっている。最近はほとんど行かないのに、休みの日になるとこうして手入れだけはしている。
「それ、まだ使う気あるの」
「そうだな、だいぶ行けてないからな」
「この前行ったの、いつだったかしら」
「いつでも行けるように、手入れだけはしておかないとな」
少し笑って、取り込んだ洗濯物を座布団の上に置く。畳みながら、今日は政雄が昼過ぎから出かけていることを思い出した。最近付き合っている人に会いに行ったのだろう。
その時、表で車の止まる音がした。
「誰かしら」
玄関を開けると、幸と和夫さんが立っていた。
「いらっしゃい。どうしたの、二人で」
「こんにちは」
「上がって上がって」
二人を居間に通して座らせる。いつもの立ち寄りとは少し空気が違う。何か話があるのだとすぐ分かった。
「何、どうしたの」
幸は和夫さんと目を合わせてから、こちらを見た。
「お母さん、あのね」
「うん」
「昨日病院で診てもらったら、妊娠三か月だって」
思わず手を止めた。
「えっ」
「だから、来年の六月ごろだろうって」
「本当に?」
幸がうなずく。和夫さんも横で頭を下げた。
「まあ、よかったわねえ」
声に出した途端、うれしさが胸いっぱいに広がった。幸もそこでようやく笑った。
夫は釣り道具を脇へ寄せて、幸を見た。
「そうか。それはめでたいな」
来年の六月に産まれるなら、夏の間は幸も家にいられる。けれど夏休みが明けたら、学校へ戻ることになるはずだ。そうなれば、子供をどうするか考えておかなくてはならないわね。
「しばらくは車で通った方がいいわね」
「うん。お腹が大きくなったら、学校に話して車通勤にするつもり」
「その方がいいわよ」
朝、幸が子供を連れてここへ寄る。帰りにまた迎えに来る。平日だけなら、それで足りる。そう決まれば、配達の仕事はやめるしかないわね。去年転んで休んだ時にも、いつまで続けるものかと少し考えた。やめるなら、その時だわ。
「お母さん?」
「あら、ごめんなさい。もう来年のこと考えてたのよ」
「何を」
「何をって、あんた、夏休み明けには学校へ戻るんでしょう?」
「たぶん、そうなると思うけど」
「じゃあ、そのころから昼間はうちで見るわよ」
「えっ」
「朝ここへ連れてきて、帰りに迎えに来ればいいじゃない。平日だけなら何とかなるわよ」
「でも、お母さんの仕事は?」
「そのころにはやめるわよ」
幸は驚いた顔のまま、しばらく何も言わなかった。和夫さんが先に口を開いた。
「そこまでしてもらうのは、申し訳ないです」
「何言ってるの。そういう時の実家でしょう」
立ち上がって、台所へ向かう。
「こんな話を聞いたら、お赤飯にしなきゃね」
「お母さん、まだ早いわよ」
「早くないわよ。こういうのは気持ちなんだから」
「お父さん、小豆まだあったわよね」
「この前のがあったはずだ」
「見てきてちょうだい」
「分かった」
幸が笑い、和夫さんもつられて笑った。
小豆を水にくぐらせながら、政雄が帰ってきた時の顔を思った。あの子はきっと驚く。
夕方になって政雄が帰ってきた。幸と和夫さんの顔を見るなり、
「どうしたの、今日は」
と聞いてきた。
「幸にね、子供ができたんだって。いまお赤飯を用意してるから、早く着替えてきなさい」
「えっ」
政雄は幸の方を見た。幸は少し照れたように笑い、和夫さんは頭をかいた。
「予定日は来年の六月だって。あんたも覚悟しといてね」
「え? 俺は何を覚悟すればいいんだ」
*
着替えて居間に戻ってくるころには、台所の湯気が部屋まで流れてきていた。赤飯の匂いに混じって、味噌汁の湯気と焼き魚の匂いもする。祝いの日だからといって急に豪勢になるわけではないが、いつもより皿が少し多いだけで、食卓は明るく見えた。
卓袱台の上には赤飯の入った飯台が置かれ、湯気の立つ味噌汁の椀が並んでいる。母が漬物の皿を真ん中へ寄せ、父はさっきまでいじっていた釣り道具を片づけて座った。姉と義兄さんは並んで座り、そこへ政雄も腰を下ろした。
「ほら、冷める前に食べなさい」
母に言われて茶碗を受け取りながら、まだ少し落ち着かない気分だった。
「しかし、姉さんに子供か」
「何よ、その言い方」
姉が笑う。
「いや、なんていうか、急だなと思って」
「急じゃないわよ。結婚したんだから、そういうこともあるでしょ」
味噌汁を政雄の前に置きながら、母が言った。
「叔父さんになるんだから、少しはしゃんとしなさい」
「叔父さんねえ」
そう言って、赤飯をひと口食べた。
義兄さんが苦笑した。
「私も、まだあまり実感がないんですけどね」
すると父が言った。
「まあ男なんてそんなもんだ。子供が生まれてから父親になっていくものさ」
「そうそう、だから生まれた後のことも考えておかないとね」
母は待っていたように続けた。
「姉さんは夏休みが明けたら、学校へ戻るんでしょう。そうしたら、そのころから昼間はうちで預かるからね」
「お母さん、もうそこまで決めてるの」
「決めてるわよ。保育園探すのも大変らしいし、身内に預けた方が安心でしょう」
父はうなずいた。
「そうだな。そうしなさい」
姉は少し困ったように笑い、義兄さんは頭を下げた。
「そこまでしてもらうのは、申し訳ないです」
「何言ってるの。私も孫といれたらうれしいし」
母はそう言って、ようやく自分も腰を下ろした。
「実はね、配達の仕事もそろそろ潮時かなって思ってたのよ」
「そうだね。その方がいいね」
そう言ったのは、去年の暮れに母が怪我をした時、本人もそんなようなことを口にしていたのを思い出したからだ。
しばらくは、病院で何を言われたとか、つわりはどうなのかとか、そういう話になった。姉は朝は少し気持ちが悪いことがあるが、まだひどくはないと話した。
「無理することはないんだからな」
父が言うと、姉は少しだけ目を細めた。
「うん」
食卓には何度も笑い声が上がった。叔父になると言われて姉にからかわれ、政雄が言い返し、母がまた口を挟む。義兄さんは控えめに笑い、父も口数は多くないまま、ときどき口元をゆるめていた。
ほんの半日ほど前まで、別のことで頭をいっぱいにしていたはずだった。けれど今は、新たな命と共に家族の絆に包まれているように思えた。
*
それから年の瀬までは、支店ではフロアー改善や都銀同士の相互引き出しへの対応に追われ、家に帰れば、母は姉が使っていた部屋を少しずつ片づけては、これから必要になるものを楽しそうに考えていた。そうこうするうちに、気がつけばもう年の瀬だった。
今年から姉は嫁いで家を出て、家族三人で迎える年の暮れになった。けれど大晦日には政雄がそばをゆで、元日の朝は母の雑煮を食べ、近所へ初もうでに行く。年末年始の段取りは、今年もほとんど例年通りだった。
そして例年通り、昼食を終えると自室に戻り、机にノートを広げた。椅子に座り、小さな電気ストーブを足元へ寄せ、綿入り半纏を羽織る。これで準備は整った。今年もまた、脳内会議の時間である。
大学時代には、勉強担当、バイト担当、サークル担当がそれぞれ勝手なことを言い合い、最後に議長の自分がどうにかまとめていたものだが、社会人になった今となっては、さすがに顔ぶれも少し変わっている。
もっとも、勝手なことを言う連中ばかりなのは昔と変わらない。
「それでは、今年の方針について協議を始めたいと思います」
議長がそう言うと、まず仕事担当が口を開いた。
「四月になれば入行五年目、上東支店でも三年目ですよ。そろそろ先を見て動く時期ではないですかね」
「先って、どの先だよ」
「どの先も何もないでしょう。もともと銀行に入ったのだって、これから先は世の中がもっとネットでつながっていくと見込んでいたからではないですか。窓口や渉外を覚えるのも大事ですけど、いずれは企画や運用の側へ近づいていかないと、話が違ってきますよね」
それはそうだよな、と議長も思う。
最初からそのつもりでここに来たのだ。いきなり本部へ行けるわけではないにしても、ただ毎日の仕事をこなしているだけでは少し鈍いのではないか、という気もする。
すると今度は家族担当が割り込んできた。
「いやいや、今年の目玉はそこじゃないでしょう。姉さんが子供を産むんですよ。家の空気が変わるのは、むしろそっちではないですか」
「それはまあ、そうかもしれないけどな」
「母さんはもう預かる気満々ですし、父さんも止める様子はなかったですよね。となると、場合によっては自分だって巻き込まれるのではないですか。おむつを替えるとか、ミルクをやるとか」
「叔父というのは、そこまでやるものなんだろうか」
「知らないですけど、逃げ切れる感じはしませんね」
議長は少し黙った。たしかに、そのへんは考えておいた方がいいのかもしれない。双葉銀行には業務マニュアルがいろいろあるが、叔父の務めについて書いたものは、さすがに見たことがない。
そこへ恋愛担当が、少しもったいぶって口を出した。
「で、その一方で、こちらの話も放ってはおけないのではないですか」
「こちらとは」
「恋愛と結婚ですよ。今年で二十七になるんでしょう。昨年十一月に浩子さんのことがあったばかりだから、すぐ次へという気になれないのは分かりますよ。でも、だからといって何年も棚上げにする話でもないのではないですか」
「それはそうだけど、縁なんて考えたから来るものでもないだろう」
「来ないでしょうね」
あっさり認めるあたり、実に頼りない担当である。
最後に、生活設計担当が咳払いをした。
「実は今年、いちばん重いのはそこかもしれませんよ」
「どこだよ」
「父さんです。今年十一月で五十五でしょう。町工場なら、そのあたりで定年でもおかしくないのではないですか」
そこまで言われると、たしかに軽くは流せない。父が退職したあと、どうするつもりなのか、まだちゃんと聞いたことがなかった。
「母さんも配達の仕事をそろそろ潮時だと言っていたしな」
「そうなると、家のことも考えないといけないですよね。金利も安いことですし、ローンで家を買うという手もあるのではないですか」
「いきなり話が大きいな」
「いっそ姉さん夫婦も巻き込んで二世帯住宅にする手もありますよ。一階に両親と自分、二階に姉さん夫婦。赤ん坊が泣いたら全員出動です」
「まてまて、正月から何を勝手に設計してるんだよ」
議長が制すると、生活設計担当は少し不満そうに黙った。
ノートの上には、仕事、家族、恋愛、父と家のことと並んでいる。どれも冗談半分で済ませられる話ではない。とはいえ、深刻な顔ばかりしていても始まらないのだろう。
「では、まとめようか」
仕事については、まったく足がかりがないわけではない。事務企画課の田口さんとは、昨年の窓口改善の件で知り合いになれた。大学の先輩でもあるし、軽音楽サークルにも誘われた。この縁は大事にしておいた方がいいだろう。仕事のことを教わる機会にもなるだろうし、案外そこから別のつながりができることもあるかもしれない。
家族のことは、姉の出産が近づいたら、その時できることをやるしかない。おむつだのミルクだのは、必要になれば覚えればいい話ではないか。今から構えすぎても仕方がないだろう。
恋愛については、あまり気負わない方がいいのかもしれない。ただ、閉じこもっていても何も始まらない。田口さんの誘いに顔を出してみるのも、その意味では悪くないのではないか。
それから父のことだ。父さんは今年で五十五になる。定年退職がいつになるのか、そのあとどうするつもりなのか、一度ちゃんと聞いてみた方がいいだろう。そこが見えなければ、家のことも何も決めようがない。
そう考えると、今年やるべきことは、思ったよりはっきりしてきた気がした。
ノートの端に、田口さんとの縁を大事にすること、父さんに退職後のつもりを聞くこと、と書き足す。正月の脳内会議にしては、今年はずいぶん地に足のついた結論になったのではないか。
少なくとも今年も、何となく流されて過ごすわけにはいかない。そこだけは、議長も各担当も異論がないようだった。




