第68話 浩子の夢、政雄の思い
十一月中旬、浩子のベビー用品店が開店した。
その日は平日だった。政雄は仕事を終えると、帰りに花束を抱えて店へ向かった。幹線道路沿いの店は、前に見たときよりもずっと店らしくなっていた。ガラス越しに見える店内には、明るい色の品物がきちんと並び、入口の脇には祝いの鉢植えがいくつか置かれている。
中へ入ると、すぐに若い女性がこちらへ来た。店の者らしく、やわらかく頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
政雄も軽く会釈して、店の奥へ目をやった。
浩子はすぐに気づいた。客に声をかけていたところだったが、ひと区切りつくと、表情を明るくしてこちらへ来る。
「山本さん」
「開店おめでとう」
そう言って花束を差し出すと、浩子は少し目を見開いたあと、笑った。
「ありがとう。来てくれてうれしいわ」
「忙しそうだね」
「ええ。でも、思ったよりちゃんと始められてほっとしてるの」
店の中を見回すと、従業員らしい女性がもう一人、棚の前で品物を整えていた。客は多すぎるほどではないが、途切れてもいない。開店初日としてはまずまずなのだろうと政雄は思った。
「いい店になったね」
浩子はその言葉を聞いて、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「そう言ってもらえると安心する」
「手伝えることがあればと思ったけど、今日は邪魔しない方がよさそうだ」
「今日は顔を見せてもらえただけで十分よ」
浩子は花束を抱え直し、それから少し声を落とした。
「電話しますね、では今度のお休みの日に」
「分かった」
「今日は本当にありがとう」
「いや、無事開店できてよかった」
次に浩子と会ったのは、その翌週の休みだった。
待ち合わせは、前にも一度入ったことのある喫茶店だった。昼を少し回った時間で、客はまばらだった。
政雄が先に着いて席についていると、ほどなく浩子が入ってきた。仕事帰りに店で会ったときとは違い、その日は落ち着いた色のワンピースを着ていた。だが席に着いた顔には、開店直後の疲れが少し残っているようにも見えた。
「お待たせ」
「いや、今来たところ」
「この前はありがとう。お花、本当にうれしかったわ」
「開店の日だし、それくらいはね」
浩子は小さく笑ってから、水の入ったグラスに手を添えた。
「お店、何とか始まったわ」
「見た感じ、ちゃんとしてたよ」
「そう言ってもらえると嬉しい。私、自分ではもう必死だったから」
注文を済ませて、少しのあいだは開店後の話になった。客の入りはまずまずで、思ったより細かい用事が多いこと、従業員を二人入れてよかったこと、前の会社を辞めておいて正解だったこと。浩子はひとつひとつ確かめるように話した。
政雄はそれを聞きながら、やはりこの店は浩子にとって思いつきでも道楽でもないのだと改めて感じた。
コーヒーが運ばれてくると、浩子は一度口を閉じた。カップに手を添えたまま、ほんの少し視線を落とし、それから顔を上げる。
「今日は、その話だけじゃないの」
「うん」
「この前、お店が落ち着いたら改めてって言ったでしょう」
政雄は黙ってうなずいた。
「山本さん、考えてくれましたか」
「うん真剣に考えたよ」
浩子は黙って次の言葉を待った。
「この前も言ったけど、浩子さんとの結婚を考えること自体に迷いがあるわけじゃないんだ」
「ええ」
「浩子さんはきれいだし、話していても楽しいし、しっかりしている。結婚相手として見ても、十分すぎるくらいだと思う」
浩子は少しだけ目を伏せたが、何も言わなかった。
「だからこそ、曖昧なままにはしたくない」
「……はい」
「僕は、銀行を辞めてお店に入るつもりにはなれないだ」
浩子の表情は大きく変わらなかった。だが、指先がわずかに動いた。
「今の仕事をそこまで大事に思っているのね」
「そうだと思う。好きかどうかはうまく言えないけど、ここまで来るのに自分なりにやってきたつもりなんだ。だから、結婚するなら仕事も変えるのが前提、という形では受けられない」
「私も、そこは外せないの」
「うん」
「店を始めた以上、私はこの先もここでやっていくつもりだし、結婚するなら、やっぱり一緒に店を見てくれる人がいいと思ってる」
「分かるよ」
「あなたにはあなたの進むべき道が有るのね、私の夢と同じように」
「よく考えたんだ、きっとそういう事なんだろうね」
少し間が空いた。
浩子は水をひと口飲んでから、顔を上げた。
「でも、そうすると、答えは決まってしまうわね」
「……そうだね」
「私の望む形では、一緒にはなれない」
「そうなると思う」
浩子は小さくうなずいた。
「残念だわ」
「僕もそう思う」
「本当?」
「本当だよ」
その答えに嘘がないことは、浩子にも分かったようだった。けれど、それで何かが変わるわけでもない。
「お店、きっとうまくいくよ」
「ありがとう」
「大変なこともあるだろうけど、浩子さんならやれると思う」
浩子は少しだけ笑った。
「そう言ってもらえるの、うれしいわ」
また少し沈黙があった。
「お花、ありがとう」
「いや」
「開店の日に来てくれたのもうれしかった」
「それは行くよ」
「ええ」
浩子はそこで一度言葉を切った。
「あなたに会えてよかったわ」
政雄はすぐには返せなかった。
それでも、黙ったままにするのは違う気がした。
「僕もだよ」
浩子はうなずいた。
「じゃあ、今日はこれで」
「うん」
席を立つときも、浩子は取り乱さなかった。泣きそうな顔もしなかったし、無理に明るくふるまうこともしなかった。ただ、最初から最後まで、自分の気持ちをきちんと持ったまま話していた。
店を出るところで、浩子がもう一度だけ振り返る。
「お仕事、がんばってね」
「浩子さんも」
それで終わった。
*
喫茶店を出たあと、政雄は一人で電車に揺られた。
これでよかったはずだと思う一方で、別の考えも頭を離れなかった。
やっぱり失敗だったかな、と。
浩子は美人で、話していても楽しかった。夢があって、自分の店を本当に形にしてしまうだけの力もあった。あの店だって、うまくいく気がする。これから先、東京近郊の神奈川、埼玉、千葉で同じような店を広げていくこともできるかもしれない。もっと先には、ネットでの販売もできるだろう。そうなれば、前世の知識と今世の経験を生かせる場面もきっとあったはずだった。
別れたばかりだというのに、ずいぶん都合のいいことを考えるものだと、自分でも少しあきれた。
*
家に帰ると、玄関に見慣れない靴があった。上がってみると、姉と義兄が来ていた。母は台所で何かを用意していた。
「どうしたの、今日は」
政雄が聞くと、母が振り向いて、うれしそうに笑った。
「幸にね、子供ができたんだって。いまお赤飯を用意してるから、早く着替えてきなさい」
「えっ」
思わず姉の方を見ると、幸は少し照れたように笑い、義兄も頭をかいた。
「予定日は来年の六月だって。あんたも覚悟しといてね」
「え? 俺は何を覚悟すればいいんだ」
幸が吹き出し、母も声を立てて笑った。
さっきまで浩子のことを考えていた頭が、一度で別の方へ持っていかれた。
政雄のまわりは、感傷に長く浸っていることを許してはくれないらしい。




