第67話 勉強会と結婚について
九月の下旬、午後の予定を確認していた政雄は、支店長に声をかけられた。
「山本君、少しいいか」
「はい」
政雄が席を立つと、支店長は手帳を閉じて言った。
「来週の木曜だが、本店で若手向けの勉強会がある。事務企画の主催で、自動機運用と店舗間ネットワークについての講習だ。支店長会でも話が出ていた。これからの店頭の動きにも関わる話だから、午後の予定を空けて出席して欲しい」
「分かりました。調整します」
自席に戻りながら、政雄は少しだけ考えた。
自動機の話そのものは珍しくない。だが、ここしばらくのあいだに、支店でそれに向けた空気が前より濃くなっているのはたしかだった。窓口の混み方、現金の動き方、お客様の待ち方。まだ大きく変わったわけではないが、機械が増えたあとには店の仕事も今のままでは済まなくなるだろうという感覚は、政雄にもあった。
当日、政雄は昼前に本店へ向かった。
上東支店より人の出入りの多い本店は、同じ銀行でも空気が少し違う。窓口や営業の慌ただしさとは別に、組織そのものが一つの建物に集まっている気配があった。
案内された会議室には、すでに若手行員が集まっていた。年齢は政雄とそう変わらない者が多い。顔を知っている者も何人かいたが、ほとんどは近隣の支店から来た行員らしかった。
席に着いてほどなく、前の扉が開いた。
安東が入り、その後ろに田口が続く。田口は受講者名簿と資料を持ち、足りない席へ手早く配っていった。
安東は前に立つと、受講者を見渡した。
「始めます。本日の主題は、自動機運用の拡大と、都市銀行間提携に伴う店頭対応です」
前半は講義中心で進んだ。
今すでに始まっている都市銀行間提携の説明、どの取引ができてどの取引ができないか、お客様への案内で間違えてはいけない点、支店で受けた問い合わせをどう扱うか、提携先との取り決めに反する案内をしないこと。安東の話は、そのあたりを一つずつ確認していくものだった。
田口は横で資料の差し替えをし、ときどき黒板に項目を書き足していく。受講者たちも前半は口をはさまず、手元の資料へ目を落としていた。
前半の講義がひと通り終わると、安東は手元の資料を閉じた。
「では、ここまでで質問があれば聞きます。実際の店頭で迷いそうなことでも構いません」
最初に出たのは、利用時間の案内についての確認だった。続いて、提携先のカードで扱えない取引をどこまでその場で説明するか、照会が必要な場合はどこへつなぐか、といった質問が続いた。
どれももっともだったが、手元の運用を正確にこなすための確認に収まっていた。
いくつかやり取りが続いたあと、安東が会議室を見渡した。
「ほかにありませんか」
そこで政雄が口を開いた。
「質問というより、いまの話を聞いていて思ったんですが」
安東が視線を向ける。
「どうぞ」
「いまは引き出しだけでも、お客様にとってはかなり便利になったと受け取られていると思います。ただ、それに慣れれば、次は預け入れも振込も同じようにできないのか、という声が出てくるはずです。店舗間でできることも広がるでしょうし、いずれは都市銀行どうしだけでなく、別の銀行との連携を求める話も出てくるかもしれません」
会議室の空気が少し変わったのが分かった。
政雄は続けた。
「それと、機械の置き場所も、この先ずっと銀行の中だけとは限らない気がします。勤め先の近くや、人が多く集まる場所で使えた方が便利だと考えるお客様は多いでしょうから、そういう要望は自然に強くなると思います」
何人かが政雄の方を見た。
「そうなってくると、変わるのは機械だけではなくて、支店で使うシステムやコンピューターの方だと思います。操作の仕方も今のままでは済まないでしょうし、窓口での案内も変わってくるはずです。現場向けの案内マニュアルがあれば、そういう変化が出たときにも混乱は少なくて済むのではないかと思います」
言い終えると、会議室の中が一瞬だけ静かになった。
安東はすぐには口を開かなかった。政雄の方を見たまま、ひと呼吸置いてから言う。
「山本君、君の言うことは分かる。ただ、いま話している提携は、まだ始まったばかりだ。預け入れや振込、都市銀行以外との連携まで含めるなら、取り決めそのものが変わらなければならない」
「はい」
「機械の設置場所についても、現時点では店の中での運用が前提だ」
「分かっています」
政雄はうなずいた。
「ただ、お客様の側は、一度便利さに慣れれば、次も同じように考えるだろうと思いまして」
安東はその言葉を受けて、わずかに表情を動かした。
「なるほど」
それ以上は広げず、安東は会議室全体へ目を戻した。
「いまの話は、現状の運用そのものではありません。ただ、お客様の受け止め方としては、たしかにそういう面もあるでしょう。今日はまず、現在の提携内容を誤りなく案内できることを優先して下さい。そのうえで、店頭で気づいたことがあれば、上席者を通じて上げてもらいたい」
そこで質疑は終わった。
最後に安東は、今日確認した内容を各店で改めて見直しておくよう短く言い、勉強会を閉じた。
受講者たちは資料を鞄へしまい、順に会議室を出ていく。田口は机の上に残った資料を寄せ、忘れ物がないかを見て回っていた。安東は教壇脇で名簿を閉じながら、ふと顔を上げる。
「上東の山本君、少し気になったな」
田口は手を止めた。
「ええ」
「都市銀行どうしの出金利用が広がれば、預け入れや振込も求められると言った。機械を銀行の外へ置く話まで口にしていたな」
「地方銀行との連携も言っていました」
安東は名簿を机に置いた。
「現状の確認の場で、あそこまで口にするのがいいかどうかは別だが、考えていることは分かった」
「支店の仕事だけでなく、システムが変わったときのことも見ていましたね」
「ああ」
安東は短くうなずいた。
「現場にいて、ああいう見方をするのは珍しい」
「私もそう思います」
しばらくして、安東が言った。
「まあ、すぐどうこうという話ではないな」
「ええ」
田口はそう返しながら、机の上の資料を抱え直した。
会議室の外では、別の部署の行員たちが行き交っている。その流れの中へ政雄の姿はもう消えていたが、田口の中には、さっきの発言がまだ残っていた。
*
10月下旬、政雄と浩子は休みの合う日に何度か会っていた。
一緒に夕食をとることもあれば、改装の進む店を見に行くこともあった。幹線道路沿いの店は前に見たときよりずっと形になっていて、看板や店内の棚も少しずつそろっていった。浩子は店のことになるとよく話し、政雄もまた、その話を聞くのが嫌ではなかった。
結婚を視野に入れて付き合う、という最初の言葉どおり、二人の間には単純な恋心とは違う空気があった。浮ついたところはないが、そのぶん会うたびに相手のことが前より分かるようになる。
浩子は美人で、人当たりもいい。それだけでなく、思いつきで夢を口にするのではなく、自分の店を持つために本当に動いている。店の計画も、一度決めたら意地でも変えないという人ではなかった。場所のことも、品ぞろえのことも、実際に始めたあとを考えながら見直していた。
政雄は、そういうところを好ましく思った。
ただ、会うたびに、浩子の中では店がいつも暮らしの真ん中にあるのだということも分かってきた。何を見ても、どこへ行っても、話はどこかで店につながる。無理をしてそうしているのではなく、自然にそうなっているのだろう。
ベビー用品店の開業が近づいたころ、浩子は政雄に言った。
「今度、少しちゃんとお話ししたいんです」
「うん」
「店のこともあるんですけど、それだけじゃなくて」
そう言われて、政雄は何となく察した。だが、黙って浩子の次の言葉を待った。
店の近くの喫茶店に入って、しばらくはいつものように店の話をした。改装はほぼ終わり、品物も順に入ってきている。外から見ても、もうじき開く店だと分かるようになっていた。
ひと通り話したあと、浩子がカップを置いた。
「前に、結婚のことも考えてお付き合いしてほしいって、言いましたよね」
「うん」
「あのときの気持ちは、今も変わってないんです」
政雄はうなずいた。
浩子は少し笑ったが、そのあとすぐに真顔に戻った。
「今までは、お店を立ち上げることが一番でした。でも、ここまで来たら、結婚のこともそろそろはっきりしないといけないと思うんです」
「そうだね」
「お店も結婚も、私にはどっちも大事なんです。そうしないと落ち着かなくて。私、欲張りかなって自分でも思うんですけど」
「そんなことはないと思うよ」
浩子は少しだけほっとしたように息をついた。
「それで、今日は山本さんに聞いてほしいことがあるんです」
「うん」
「もし本当に結婚するなら、私は山本さんに銀行を辞めて、一緒にお店をやってほしいと思っています」
政雄は思わず浩子の顔を見た。
浩子は目をそらさなかった。
「急にこんなことを言ったら困るっていうのは分かっています。銀行のお仕事を大事にしていることも、分かっています」
「……うん」
「でも、私はずっと、一人で店をやるより、夫婦で一緒にやれたらいいなと思っていたんです」
浩子はそこで少し言葉を探した。
「父も兄も工場がありますし、もちろん助けてもらえることはあると思います。でも、いつまでも頼るわけにはいかないですし」
政雄は黙って聞いていた。
「それに山本さん、店のことを話すと、ちゃんと聞いてくれるでしょう」
浩子は少しだけ笑った。
「ただ聞いてくれるだけじゃなくて、見方が違うなって思うことがあるんです。私は品物とか、お店の形とか、そういう方ばかり見てしまうけど、山本さんはお客様の動きとか、お金のこととか、先のことも考えている気がして」
政雄は返す言葉が見つからず、曖昧にうなずいた。
「だから、一緒にやっていけたら心強いだろうなって、前から思っていました」
浩子はそこで言葉を切った。
「もちろん、私の考えだけで決められることじゃありません」
「うん」
「山本さんのお仕事のこともありますし、ご家族のこともあるでしょうし。だから、すぐに返事を下さいっていう意味じゃないんです」
そこまで聞いて、政雄は少しだけ息をついた。
「でも、そう考えてくれていたんだね」
「はい」
「僕は……」
言いかけて、政雄は言葉を切った。
結婚の話そのものに驚いたわけではなかった。むしろ、いずれはそういう話になると思っていた。
ただ、銀行を辞めて店に入ることまで、浩子の中ではひとつながりになっていた。そこが政雄には思ったより重かった。
「小泉さんと結婚を考えることに、迷いがあるわけじゃないんだ」
浩子は黙って聞いている。
「でも、銀行を辞めることまで一緒に考えるとなると、すぐには答えられない」
「はい」
「自分の仕事のことは、やっぱり簡単には決められないから」
浩子はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「そうですよね」
その声に、無理に明るくしたところはなかった。
「私も、簡単なことじゃないのは分かっているんです」
「うん」
「でも、先に言っておきたかったんです。あとになって、そんなつもりじゃなかったってなるのも嫌だったので」
政雄はそれを聞いて、浩子らしいと思った。相手にとって重い話でも、先にきちんと出しておきたいのだろう。
「言ってくれてよかったよ」
そう言うと、浩子は少しだけ表情をやわらげた。
「本当ですか」
「うん。大事なことだから」
浩子はうなずいた。
「すぐじゃなくていいです。でも、ちゃんと考えてもらえたらうれしいです」
「分かった」
そのあとはまた店の話に戻ったが、政雄の頭には、さっきの言葉が残っていた。
銀行を辞めて、一緒に店をやってほしい。
浩子はたしかにそう言った。
意外ではあったが、筋の通らない話だとは思わなかった。浩子が店を大事にしてきたことは、これまで何度も会う中でよく分かっている。結婚するなら、その店をどうするかまで含めて考えるのは当然だろう。夫婦で一緒に店をやるという形も、世の中にはいくらでもある。
それに、浩子となら、そういう暮らしも悪くないのかもしれないと、政雄は思った。幹線道路沿いのあの店に二人で立ち、浩子が品物や客の応対を見て、自分が金の出入りや経理を見る。そういう役割分担だって、できなくはないように思えた。
浩子はきれいで、気立ても悪くない。考え方もまじめで、仕事にも本気だ。結婚相手として見て不足があるどころか、むしろ十分すぎるくらいだった。
だが、そう思ったあとで、別の考え湧いてきた。
自分はそのために、ここまで来たのだろうか。
県でトップの高校に入り、入学金は自分で用意し、国立大へ進んだ。銀行に入ってからも、前世のように、よく考えないまま流されて、あとになって何も残らなかったと悔やむことだけはしたくなかった。
だからこそ今の自分は、目の前にある仕事にも、先のことにも、前よりずっと意識して向き合ってきたはずだった。
その先にあるものが何か、まだ全部見えているわけではない。だが少なくとも、ここで銀行を辞めて店に入ることが、自分の目指してきたものと同じ方向なのかどうか、それはすぐには言えなかった。
浩子の話が悪いのではない。むしろ、十分に魅力のある話だった。
それでも政雄には、それをその場で受け入れるだけの思い切りが持てなかった。
喫茶店を出たあとも、その迷いは消えなかった。浩子の店は、もうじき始まる。結婚の話も、いつまでも曖昧にはしておけない。
ちゃんと答えを出さなければならない日は、すぐそこまで来ていた。




