第66話 浩子とのデート
六月の下旬に浩子の融資が無事に実行されてから、話は思っていたより順調に進んでいた。
当初の大きすぎる計画を引っ込め、店の広さを絞り、大型品は見本と注文を中心にする。店前の駐車場が足りない分は、近くの時間貸し駐車場と組み合わせて補う。そういう形に切り替えてからは、計画にも無理がなくなり、父親と兄も納得し、物件も決まり、八月の半ばには改装工事が始まっている。
最初の計画のままでは難しいとはっきり伝えたときの浩子の顔を、政雄はまだ覚えていた。さすがにこたえただろうが、あの人はそこで意地にならなかった。持ち帰って考え直し、家族とも話し、もう一度きちんとやり直してきた。その意味では、融資が通ったのも半分は本人の力だろう。
浩子に対して、政雄はもともと悪い印象を持っていなかった。むしろ、美人だし、人当たりもいい。そのうえ、自分で店を持ちたいという夢まである。素敵な人だと思っている。
ただ、それとこれとは別だった。
最初に話が来たときから、吉野は見合い話だとはっきり言っていたし、洋品店で浩子の融資の話をしたあと、浩子が帰ってからも、どう?、浩子ちゃんは、と当然のように聞いてきた。
そのとき政雄は、まずは仕事をきちんとしたいので、と答えた。
実際その通りだった。あの時点では、相手がどうこうという前に、計画をきちんと見たかった。中途半端なまま私情を混ぜるのも違うと思っていたし、浩子に対してもその方が失礼だろうと思っていた。
だが、融資が決まり、改装も始まった今となっては、話は少し変わってくる。
八月も半ばを過ぎたある日、支店で仕事をしていると、浩子から電話が入った。
「あの、今度のお休みの日なんですが、少しお時間いただけませんか」
仕事の相談という口ぶりではあったが、声はいつもの打ち合わせのときより少しかたかった。
「店のことで何かありましたか」
「いえ、そういうことではなくて。お話ししたいことがあって」
そこで一度、言葉が切れた。
政雄は受話器を持ったまま、小さく姿勢を直した。支店ではなく休みの日を選んでくる以上、仕事そのものの話ではないのだろう。もっとも、それで妙に構える気にもならなかった。あの浩子が、考えもなしにこういう電話をしてくるとも思えない。
「分かりました。では、お休みの日に」
そう返すと、受話器の向こうで浩子が少しだけほっとしたようだった。
休みの日の午後、政雄は待ち合わせに指定された駅前へ向かった。
ロータリー脇で少し待っていると、淡い色の軽自動車が近づいてきた。運転席の窓が下がり、浩子が会釈する。
「お待たせしました」
「いえ、今来たところです」
助手席に乗り込むと、車内には新しい布地の匂いと、かすかに甘い香りが混じっていた。浩子が運転する姿を見るのは初めてだったが、手つきは落ち着いていた。
「今日はまず、お店の方を見ていただこうと思って」
「はい。改装が始まったと聞いていましたし、ぜひ見せてください」
車は市街地を抜け、交通量の多い幹線道路へ出た。郊外型の店舗や駐車場の広い店が続いている。こうして実際に走ってみると、車で来る店を考えた浩子の見立ても、まったく外れてはいないのだと分かる。
「この先です」
道沿いに並ぶ店の一角に、改装中の建物が見えてくる。元ドラッグストアらしく間口は広いが、最初の物件ほど過剰ではない。店前には車を二台ほど置ける余裕があった。
「いい場所ですね」
「ありがとうございます。前のところより小さいですけど、今はこのくらいでよかったと思っています」
車を止めて二人で降りると、八月の日差しがアスファルトに強く照り返していた。入口には工事中の張り紙があり、店先には資材がまとめて置かれている。
「せっかくなので、中も見ていただけますか」
「ええ」
中へ入ると、前の店の設備はかなり外されていて、壁も床も手が入っていた。まだ何も置かれていないが、以前より空間の見え方はずっと整理されている。
「こちらが入口側で、手前に服を置く予定です。奥は見本や注文のご案内ができるようにしようかと」
「大型品はやはり全部は置かないんですね」
「はい。場所を取りますし在庫が重くなるので、見本とカタログ中心で始めることにしました」
その答え方には、もう迷いがなかった。駐車場のこと、改装費のこと、棚の数のこと。浩子は一つずつ、自分で決め直した内容を説明していく。
「前より、ずっといい計画になったと思います」
政雄がそう言うと、浩子は少しだけ目を伏せて笑った。
「山本さんに最初にはっきり言っていただけたからです。あのままだったら、たぶん私は見たいものしか見ていなかったので」
「いえ、小泉さんがちゃんと考え直したからですよ」
そう言うと、浩子の表情に前より明るさが見えた。
店の中を一通り見たあと、二人は外へ出た。道沿いを車が絶えず流れていく。こうして立っていると、この場所を選んだ理由もよく分かる。
浩子は店を振り返ってから言った。
「今日は、これを見ていただきたかったのもあるんですが」
「はい」
「もしよろしければ、このあと少しだけお時間いただけませんか。近くに喫茶店があるんです」
「ええ、大丈夫です」
浩子はうなずき、先に車へ戻った。
再び助手席に乗り込むと、さっきまでとは少し違う空気があった。店の話が切れたぶん、次に来る話の気配だけが残っている。
車は店を出て、幹線道路を少し戻った先で脇道に入った。ほどなくして、駐車場の広い喫茶店が見えてくる。郊外によくある造りで、ガラス越しに店内のテーブルが見えた。
浩子が車を止める。
「ここです」
「落ち着いて話せそうですね」
「はい」
二人は車を降り、並んで店の入口へ向かった。
店の入口を入ると、冷房の風が汗ばんだ肌に当たった。店内は木目の多い内装で、昼下がりの客がぽつぽつ入っていた。奥の席に案内され、二人は向かい合って腰を下ろす。
「今日は車を出してもらって、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、来ていただいてありがとうございます」
席についても、浩子の表情は店を案内していたときよりかたかった。膝の上の鞄の持ち手を、指先で一度持ち直している。
水を運んできた店員に、浩子はアイスコーヒーを頼み、政雄も同じものを頼んだ。
「改装、思っていた以上に進んでいましたね」
政雄がそう言うと、浩子は少し顔を上げた。
「はい。職人さんが入ると早いですね。自分ではまだ実感が追いつかないんですけど、壁や棚の位置が変わってくると、いよいよだなと思います」
「入口から見た感じもよかったです。手前に服を置く形は見やすいと思います」
「ありがとうございます。前は、あれもこれも置きたいと思っていたんです。でも今日見ていただいた形の方が、自分でもしっくりきています」
「無理のない始め方になっていますからね」
「はい。それが大事だったんだと思います」
運ばれてきたアイスコーヒーの水滴が、グラスの表面をつたって落ちる。浩子はストローの袋を外しかけて、途中で手を止めた。
「山本さん」
「はい」
「私、この何か月かで、自分では考えていたつもりでも、見えていなかったことが多かったんだなと思いました」
政雄は黙って続きを待った。
「最初に持って行った計画も、夢があると言えば聞こえはいいですけど、実際には自分に都合のいいところばかり見ていた気がするんです」
「始める前は、どうしてもそうなりますよね」
「ええ。でも、山本さんに難しいとはっきり言っていただいて、それで終わりじゃなくて、どう直せばいいかまで言っていただけたので」
浩子は一度目を伏せた。
「ありがたかったんです。本当に」
「それは、小泉さんが夢を諦めなかったからですよ」
そう返すと、浩子は少しだけ笑った。
「その場では、わりとへこみました」
「でしょうね」
「はい。でも帰ってから考えたら、悔しいというより、ちゃんと見てもらえたんだなと思って」
政雄はグラスに手をかけながら、目の前の浩子を見た。見た目の華やかさだけでなく、相手の顔を見て言葉を選ぶところに、この人らしさがある。その一方で、今の仕事も、自分の店のことも、人任せにはしない。そういうところが、やはり好ましく思える。
「今日は、あのお店を見せてもらえてよかったです」
「見ていただきたかったんです。今のところまで来られたことを」
それから、また少し間が空いた。
ここから先が、本当に言いたいことなのだろうと政雄にも分かった。急かさずに待っていると、浩子は一度うつむき、それから鞄に手を入れた。やがて、数枚の書類を取り出し、きちんと向きをそろえてテーブルの上に置く。
「こんなものを持ってきてしまって、自分でも少し変だと思うんですけど」
困ったように笑いながら、浩子は言った。
「何をどう話したらいいのか分からなくて。だったら、先に自分のことを書いておいた方がいいんじゃないかと思って」
政雄はテーブルの上のそれに目を落とした。
手書きで整った文字が並んでいる。名前、生年月日、家族のこと、勤め先、これまでのこと。ざっと見ただけで、ほぼ履歴書だった。
思わず、政雄はそれと浩子の顔を見比べた。
「……あのぅ、これは」
浩子はその反応を予想していたらしく、恥ずかしそうに口元をゆるめた。
「やっぱり変ですよね」
「いえ、変というか……」
政雄はもう一度それへ目を落とした。名前、生年月日、家族構成、勤め先、これまでの経歴まで並んでいる。字はきれいで、書き方もまじめで、余白の取り方まできちんとしていた。だから余計に、履歴書にしか見えない。
「ずいぶんきちんと書いたんですね」
「たぶん、きちんと書きすぎました」
浩子は少し困ったように笑った。
「私、こういうことに慣れていなくて。何をどこから話したらいいのか、考えてもよく分からなかったんです。それで、自分のことをちゃんと知ってもらうには、まず書き出した方がいいんじゃないかと思って」
「書き出していったら、こうなったと」
「はい」
短く答えたあと、浩子は少しだけ視線を下げた。
「家のこととか、仕事のこととか、これまでどうしてきたかとか、口で言おうとすると抜けそうな気がして。あとで、あれを言っていなかった、これも違った、となるのも嫌でしたし」
そこまで言ってから、浩子はかすかに息を漏らした。
「こんな経歴書みたいにして持ってくる人、あまりいないとは思うんですけど」
政雄は思わず口元をゆるめた。
「たぶん、あまりはいないでしょうね」
「ですよね」
浩子もつられるように笑ったが、すぐにその表情を引き締めた。
「でも、いい加減な気持ちで来たわけではない、ということだけは、ちゃんと伝えたかったんです」
そう言って、浩子は一度言葉を止めた。
政雄は何もはさまずに待った。ここまで来るのにも、浩子なりにかなり勇気を使っているのが分かる。
浩子はグラスには手をつけないまま、政雄の方を見た。視線が合うと、少しだけためらうような間があって、それでも逃げずに口を開く。
「吉野さんからのご紹介ですし、もしよければ、結婚も視野に入れてお付き合いしてみませんか?」
言い終えたあと、浩子はそれ以上言葉を足さなかった。
政雄は返事をする前に、一度だけ息を飲んだ。
まっすぐに来たな、と思った。
こうして面と向かって、しかも浩子の口からきちんとそう言われると、やはり受ける重さが違う。
うれしい、という気持ちはまず先にあった。
浩子は美人で、人当たりもいい。実家の後ろ盾があるからではなく、自分の店を持ちたいという思いでここまで動き、実際に店を形にしようとしている。その姿を、この数か月、政雄は近くで見てきた。好ましく思わないはずがない。
しかも今、目の前の浩子は、年上の見栄も飾りも捨てて、自分から言いにくいことを言っている。履歴書みたいなものまで用意してきたのは、少しでも誠実に向き合おうとした結果なのだろう。
こんなふうに言われて、うれしくないはずがなかった。
それなら、断る理由はどこにもなかった。
政雄は浩子を見た。
浩子は返事を待ちながら、膝の上で手をそろえている。
「こちらこそ、ぜひお願いします」
そう答えると、浩子は一瞬、きょとんとしたように目を見開いた。
「僕も、小泉さんのことはもっと知りたいと思っていました」
そこまで言ってから、政雄は自分でも少し頬が熱くなるのを感じた。気の利いた言い方ではない。だが、今の自分にとってはいちばん正直な言葉だった。
浩子はほっとしたように息をつき、それから、ようやく手元のグラスに指を伸ばした。




