第65話 駅前の居酒屋にて
七月に入ってからも、田口はゴトウビの午前だけでなく、ほかの日にも何度か上東支店へ顔を出していた。
五月中旬から始まったOGの試験運用は、ひとまず大きな混乱もなく続いている。入口近くでの声かけや、伝票記入の誘導、用件ごとの振り分けも、少しずつ支店の日常に溶け込みつつあった。社宅から採用した元行員の二人も、最初のぎこちなさが抜け、混み合う時間帯には自然に動けるようになってきている。
田口は来るたびに、窓口の前だけでなく、入口側や記帳台のあたりにも目を向けていた。帳面に何かを書きつけることもあれば、支店長と短く言葉を交わして帰ることもある。
最初の報告書を出してから一か月。まだ様子見の段階ではあるのだろうが、報告のためだけにしては、田口は思ったより丁寧に現場を見ている気がした。
その日も夕方近くまで支店にいた田口は、窓口の混雑が落ち着いたころ、フロアの奥にいた政雄へ声をかけた。
「山本君、今日このあと少し時間あるかい?」
珍しいなと思って顔を上げる。
「ええ、大丈夫です」
「少し話したいことがあるんだけど、駅前で軽くどうかな」
断る理由もない。おそらく仕事の話だろう。
「分かりました」
支店を出たころには、外はまだ明るかった。
*
駅前の商店街を抜けた先の居酒屋は、仕事帰りの客でそこそこ賑わっていた。気取った店ではないが、話をするにはかえって都合がいい。壁際の小さな席に通され、とりあえずビールを頼む。
先に口を開いたのは田口だった。
「報告書のこともあるんだけど、前から少し気になっていてね」
「混雑の件ですか」
「そう」
運ばれてきたビールに口をつけてから、田口は続けた。
「毎月、上東支店の状況はまとめているんだけど、やったことと結果を書くだけでは、この案の肝がうまく伝わらない気がしていてね」
政雄は黙って先を待った。
「君の案は、ほかと少し違う。窓口を増やすでもなく、CDやATMを増やすでもなく、客の流れを変えた。列の後ろではなく、列になる前を見ていた。ああいう発想は、どういうところから出てきたのかなと思ってね」
「たいした話じゃないですよ」
「そういうふうに言う人ほど、案外いろいろ考えているものだよ」
田口にそう返されると、少し笑うしかない。
「窓口の中だけ見ていても、詰まり方はあまり変わらないと思ったんです。用件ごとにかかる時間は違いますし、並ぶ前に済ませられることもある。だったら、列にしてから順番に処理するより、列になる前に分けた方が全体は流れるんじゃないかと」
「なるほど」
「一度どこかで止まると、その先まで全部遅くなることがありますから。だったら、止まり始める場所を先に見た方がいい。そんな感じです」
田口は枝豆をつまみながら、小さくうなずいた。
「そこへ最初に目が行くのが、少し珍しいんだろうね」
「そうですか?」
「学生のころから、そういう見方をしていたのかい」
そう聞かれて、少し考える。
「大学ではジャズ研にいました。サックスを吹いていました」
「ほう」
「ただ、それより時間を使っていたのは、たぶんバイトですね」
「どんな」
「大学に入ってからは、学内で弁当の配達をしていました。自転車で研究室や部室のあたりまで届けるんです」
「学内で弁当配達か」
「食堂や売店が遠い場所もありますし、昼にそこまで行く時間がない人もいるので。だったら、配達すれば金になるかなと思って始めました」
田口は、なるほど、と笑った。
「たしかにうちの大学はやたら広いからな、そういう需要はありそうだな」
「ただ、流れを見る癖みたいなものがついたのは、そっちじゃないです。高校のころ、三年間ほど蕎麦屋の配達をしていたんです」
「蕎麦屋?」
「どう回れば効率よく配れるかとか、食べ終わった丼をどの順番で回収すれば無駄がないかとか、どの道順なら時間を食わないかとか、そういうのはいつも考えていました」
そこまで言うと、田口が少し目を丸くした。
「高校時代に三年間ずっとバイトしていて、よくうちの大学に入れたね」
政雄は苦笑した。
「いや、実家があまり裕福じゃなかったので。大学の入学金を貯めないといけなかったんです」
「それはすごいな」
「三歳上の姉がいて、二人とも大学には行きたかったんですが、家にそこまで余裕はなくて」
「ほう」
「姉にもだいぶ頑張ってもらいました。二人とも国公立にして、あとは奨学金で通いました」
話しながら、こういうことを職場で口にするのは珍しいなと政雄は思った。
だが田口の聞き方には、詮索めいたところがあまりない。ただ、発想の根っこを知りたいのだろうという感じがあった。
「君は、見かけよりずっと粘り強いんだな」
「褒めていただいてますか?、それ」
「もちろん褒めているよ」
そう言われると、悪い気はしない。
ビールも半分ほど減っていて、最初より口も軽くなっていた。
「そういえば、大学のころ、通行量調査の集計を手伝ったことがあるんですけど」
「通行量調査」
「ええ。都市デザイン科の研究で、学生が集めてきた車の台数や人の数を、あとでずっと足していくんです」
「それは地道だね」
「かなり面倒でした。途中で、こういうのは表にして、縦や横をコンピューターが計算してくれたら、間違いも減るし早いのにって口にしたことがあって」
実際には、そのとき政雄は表計算と言ってしまっている。だが、それをそのまま持ち出すのはやめておいた。この場で説明するなら、このくらいに崩した方が無難だろう。
田口は枝豆をつまむ手を止めた。
「そんなことを言ったのかい」
「ええ。そばで作業していた院生が聞いていたらしくて、面白がって教授に話したみたいなんです」
「それで教授が動いたのかい」
「どうもそうらしくて。単純な集計だけならできるだろうということになって、大学のメインフレームで本当に作り始めまして」
「本当に」
「ええ。僕も横で見ていました。結局、それができたあと、そのひな形を使って集計のバイトを終わらせました」
田口は小さく笑った。
「君は、ずいぶんさらっと言うけれど、なかなか変わった話だね」
「作ったのは先生たちですから。僕は余計なことを言っただけですよ」
「いや、それでも発端には違いないだろう」
田口はそう言ってから、少しだけ黙った。大学の思い出話として面白がっているだけのようにも見えるが、それだけでもなさそうだった。政雄の言ったことを、そのまま受け流さず、どこか別の角度から見ているようにも思える。
この人は、案の発想だけでなく、人間そのものも見ているのかもしれない。ふとそんな気がした。
焼き鳥が運ばれてきたころ、田口は少し声を落とした。
「もう一つ聞きたかったんだ」
「はい」
「去年九月のプラザ合意から、円高がずいぶん急だろう。これから自分たちの周りは、どうなっていくと思う」
その問いに、政雄はすぐには答えなかった。
ついにそこか、と思う。
この一年で円高はかなり進んだ。前世を知る政雄から見れば、まだこれは入口にすぎない。ここから先、低金利と資金の膨張が、あちこちの景色を変えていく。だが、それをそのまま口にするわけにはいかない。
「輸出の比重が大きいところは、やっぱり厳しくなると思います。今までと同じようにはいかないでしょうね」
「そうだろうね」
「ただ、その一方で、内需寄りの商売には目が向くかもしれません。国内で金が回る先です。生活に近いものとか、余暇とか、家族向けとか、住宅ローンなんかも」
田口は黙って聞いていた。
「それに、金利が下がれば借りやすくなります。これから前向きな話も増えると思います」
「景気が悪いばかりじゃない、ということか」
「ええ。ただ」
「ただ」
「借りやすいから借りる、みたいな話も増える気がします。本業の見通しより、勢いで広げる話とか。そういうのは少し気をつけた方がいいんじゃないかと」
田口はそこで、少しだけ目を細めた。
「君は、景気の話をしていても、あまり浮かれた感じがしないね」
「そう見えますか」
「見えるよ」
政雄は苦笑した。
「景気が動けば、伸びるところもあると思います。でも、全部がいい話になるわけじゃないでしょうから」
本当はもっと言える。
土地に浮かれる会社。
本業より含み益に目が行く経営者。
借りられるうちに借りて広げること自体が目的になる案件。
そういうものがこの先いくらでも出てくる。だが、今の段階でそこまで口にすると、かえって不自然だ。
田口はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
その顔は、単に会話を楽しんでいるというより、政雄の言葉の奥を知ろうとしてるようだった。
酒が進むにつれて、話題は少しずつ軽くなった。
大学のころの部室の空気や、サックスのこと、蕎麦屋のまかないが思ったよりうまかったことまで話したあたりで、田口の表情もいくらか和らいでいた。
仕事のために誘われたのだろうとは思う。
だが、それだけでもないのかもしれない。そんなことを、政雄はぼんやり感じ始めていた。
店を出ると、駅前の空気は昼より少しだけ涼しくなっていた。
改札へ向かう人の流れを横目に、二人はしばらく並んで歩いた。
「今日はいろいろ聞けて楽しかったよ」
田口が言う。
「いえ、こちらこそ。ああいう話をする機会はあまりないので」
「次の報告は、前より少し違う書き方ができそうだ」
「そうですか」
「結果だけじゃなくて、考え方も書けそうだからね」
そこで別れるのかと思ったとき、田口がふと思い出したように足を止めた。
「そうだ。君、サックスをやっていたと言っていたね」
「はい」
「もしよければ、うちの銀行の軽音楽サークルに一度来てみないか」
思わぬ方向から話が来て、政雄は少しだけ目を瞬いた。
「軽音楽サークルですか」
「ジャズ専門ではないんだけどね。いろんなジャンルを経験してきた人が集まっているんだ。たまに音を合わせるだけでも、悪くないと思うよ」
報告書のためだけなら、こんな誘い方はしないだろう。
「機会が合えば、ぜひ」
「その気になったら声をかけてくれればいい」
田口はそう言って軽く手を上げ、駅のほうへ向かった。
その背中を見送りながら、政雄は少しだけ息をついた。
事務企画課の人間として様子を見に来ているだけだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。田口は改善案のことを知りたがっていたし、そのついででは片づかないくらいには、政雄自身にも興味を持ち始めているようだった。
もっとも、それが厄介な話ではなさそうなのは救いだった。
むしろ、こういうつながりは持っておいて損はない。軽音楽サークルというのは少し意外だったが、考えてみれば銀行の中で別の顔を持つ人間と知り合う機会にもなる。
七月の夜風は、昼間よりだいぶやわらかかった。
政雄は駅へ向かって歩きながら、田口という五年上の先輩のことを、さっきまでより少し近く感じていた。




