第63話 田口から見た改善案(田口視点)
自分の席へ戻る途中、ふと上東支店のロビーの様子がよみがえった。
番号を呼ばれるのを不安そうに待っていた高齢の客に、わかりやすく声をかけていた行員の姿。
履歴書で見た学歴の欄で山本君が大学の後輩だとわかっていたが、それを抜きにしても、あの支店のやり方は、このまま机の中にしまい込むには惜しいと思っていた。
席に戻ると、私は手帳を開いた。
部長に言われた通り、先に回るべきなのは人事、経理、リスク管理の三つだった。上東支店の案を本部の試験運用として動かすなら、思いつきのまま持ち出すわけにはいかない。どこまでを任せて、どこから先は任せないか。雇い方をどう整理するか。事故や苦情が出たとき、どこで受けるか。確認すべきことは最初から見えていた。
翌日から、人事、経理、リスク管理を順に回った。
元行員をゴトウビだけの短時間パートとして戻すことに、どこまで無理があるか。
ロビー案内に仕事を限るとして、現金や通帳、印鑑を預からせない形で運用できるか。
給与の扱い、雇用の形、事故や苦情が出た場合の責任の置き方まで、一つずつ確認していった。
どの部署も、最初から乗り気だったわけではない。
前例がない以上、慎重になるのは当然だった。だが、上東支店をモデルとする試験運用に限ること、勤務時間をゴトウビの九時から十三時に絞ること、仕事の範囲をロビー案内と機械操作の説明までに限ること。その条件をそろえていくうちに、話は少しずつ通り始めた。
最終的に、本部として持っていく案はこうなった。
募集は現役行員の妻で元行員だった者を中心に行う。
仕事は入口での案内、番号札の説明、CDやATMへの誘導、用紙の書き方の補助まで。
現金や通帳や印鑑には触れず、窓口の判断を要する用件には立ち入らない。
そこまで整理してから、上東支店へ連絡を入れた。
数日後、上東支店の応接室には、支店長と山本君が揃っていた。
「遠いところ、ご苦労様」
支店長が軽く会釈をした。
「いえ。こちらのほうこそ、急な訪問で申し訳ありません」
持参した資料をテーブルに広げた。
「本部としての試験運用の枠組みは、いまお渡ししたとおりです。あとは、こちらでOG募集の条件や、仕事の範囲と権限を決めていきたいと思います」
支店長が資料に目を落としながら言った。
「採用は、元行員の方限定ということだね?」
「はい。支店のご希望も、その前提でしたね」
うなずくと、支店長は続けた。
「ロビーの案内を一から教えるのは時間がかかるからね。今いる行員の妻で、前にこちらにいた人たちが、一番入りやすいだろうと思っている」
「そうですね」
山本君がうなずいた。
「現役の行員の奥さんなら、信用の面でも安心ですしね」
支店長は、資料から顔を上げた。
「社宅の集まりやOG会で声をかければ、だいたい仕事の中身も分かっている人が何人かはいるだろう。募集の広告を外に出さなくて済むから、費用もかからないし、知らない人を一から見るよりはずっと楽だ」
支店長の言い方はさらりとしていたが、その裏にある勘定ははっきりしていた。
「それに、現役行員の妻なら、旦那の勤務のことも分かっている。ゴトウビの九時から十三時みたいな半端な時間帯でも、『それなら手伝える』と言ってくれる人が出てくると思う」
「本部としても、その考え方で整理しています。今いる行員のご家族で、元行員の方を中心にお願いする形で、上東支店をモデルにさせてください」
別の資料を取り出した。
「このあとは、仕事の範囲と権限を一つずつ確認させてください。どこまでをお願いして、どこから先は必ず正職員が受け持つか、はっきり決めておきたいので」
*
その後の打ち合わせは、淡々としていたが、詰めることは多かった。
ロビーでお願いする仕事は、入口近くでの案内、番号札の場所と使い方の説明、CDやATMの操作の案内。
用紙の書き方に不安がある客には、別の机に一緒に座って下書きを見てもらうところまで。
逆に、通帳や現金、印鑑を預かる場面には一切入らないこと。
「ついでに預かっておいて」と差し出されても、必ず窓口を案内すること。
操作中の画面には触れず、説明は口と指さしまでにとどめること。
その一つひとつを書き起こしながら、頭の中でロビーの景色を並べた。
本部の研修テキストに書いてある抽象的な文言ではなく、上東支店の入口からCDコーナーまでの数メートルを思い浮かべながら、どこに誰が立つかを考えていく。
*
募集の話は、その週のうちに社宅へ回った。
夕方、社宅の集会室で開かれた家族会の終わり際に、支店長が立ち上がる。
テーブルの上には、作った簡単な募集要項が何枚か重ねて置かれていた。
「少しだけ、支店からのお願いがあります」
子ども連れの妻たちが、飲みかけの紙コップを手にしたまま顔を上げる。
年齢は三十代半ばから四十代くらい。
中には、以前の制服姿がそのまま思い出せそうな雰囲気の人もいる。
「ゴトウビの午前中だけ、ロビーでお客さまの案内を手伝っていただける方を探しています。元行員の方で、もう少し外に出てもいいかな、と思っている方がいらっしゃれば、ぜひ声をかけてください」
元行員という言葉に、数人が目を見合わせた。
「ロビーでの案内が仕事の中心になります。通帳や現金を扱う仕事ではありません。時間は九時から十三時まで。お子さんが学校に行っているあいだだけ、と考えていただければ、イメージしやすいと思います」
説明が終わるころには、二、三人の妻が要項を手に取っていた。
「ちょっと考えてみます。前に窓口にいたので、ロビーくらいなら出来るかもしれません」
「子どもももう高学年ですし、朝は何とか間に合うかも」
そんな声が、小さく漏れていた。
*
面接の日、再び上東支店を訪れた。
応接室の隣の小さな会議室に、支店長と山本君、それから候補者の妻たちが順番に入ってくる。
一人は、三十代半ば。
高卒で入行し、四年ほど窓口にいたあと、行内結婚をして退職。
子どもは小学五年生と三年生で、いまは専業主婦だと話した。
「通帳の扱い方や、窓口の雰囲気は覚えていますか」
尋ねると、彼女は少し笑ってからうなずいた。
「夢に見るくらいには、覚えています」
「ロビー案内は、窓口よりもお客さまとの距離が近い仕事になります。待っている方の表情を見ながら、声をかける場面が多くなりますが、そのあたりはいかがでしょう」
「そのほうが向いているかもしれません。昔から、話しかけられることが多かったので」
もう一人は、四十歳近く。
やはり窓口経験があり、夫はいま支店で課長を務めている。
「夫の支店で働くことになりますが、その点は大丈夫ですか」
支店長の問いに、彼女は少しだけ照れ笑いを浮かべた。
「家で愚痴をこぼしにくくなるかもしれませんけど、大丈夫です」
履歴と話しぶりを聞いているかぎり、二人ともロビーに立つ姿は想像しやすかった。
面接票に必要なことだけを書き込み、あとは支店長にうなずいて見せた。
結果として、初期の試験運用では、この二人にお願いすることになった。
*
パート初日の朝、開店前のロビーに立っていた。
入口の自動ドアはまだ閉まっている。
窓口のシャッター越しに、行員たちが開店準備をしている影が動いていた。
ロビーの一角には、簡単な説明用の机が出されている。
その前に、今日から入る二人の妻が並んで立っていた。
紺のスカートに白いブラウス。
支店から貸与された名札には、旧姓ではなく、今の姓が記されている。
「本日は、ロビーの案内をお願いいたします」
用意してきた説明用の資料を手に取りながら言った。
「入口付近でのお迎えと、番号札のご案内。CDとATMの場所と使い方の説明。それから、用紙の書き方に不安がある方への声かけが、きょうの仕事になります」
二人は真剣な表情でうなずく。
「通帳や現金、印鑑は、お客さまから直接預からないようにしてください。『ついでに』と渡されそうになったときは、『窓口でお預かりします』と言って、ご案内をお願いします」
「はい」
「操作中の画面も、お客さまの手元を見ながら、『このボタンを押してください』『こちらにお名前を書いてください』といった説明にとどめてください。手を伸ばして押してしまうと、あとでトラブルになります」
一つひとつの注意点を、資料に書いてある順番どおりに伝えていった。
隣では、山本君が二人の顔を交互に見ながら、要所で補足を入れる。
「混んでいる時ほど、ゆっくり、はっきり話していただけると助かります。待っている方は、こちらが思っている以上に落ち着かない気持ちになっていますので」
「分かりました」
時計を見ると、開店時間まであと十分を切っていた。
ロビーの照明が明るくなり、扉の向こうに人影が増え始める。
「それでは、きょう一日、よろしくお願いします」
頭を下げると、二人も軽く会釈を返した。
自動ドアが開き、最初の客がロビーに入ってくる。
入口のところで、「おはようございます」と声をかける新しい案内係の姿を見ながら、私はロビーの一歩うしろへ下がった。
この日が、OGを入れて迎える最初のゴトウビだった。
開店してまもなく、年配の夫婦が入ってきた。
入口のところで足を止めた二人に、この日からロビーへ入るOGの一人がすぐ声をかける。
「本日はどのようなお手続きでしょうか」
夫のほうが、振込をしたいのだと答えた。
すると彼女は、窓口へ向かう前に記入台へ案内し、用紙のどこを書けばいいかを示した。窓口で受ける用件だと分かった段階で、番号札を渡す。
もう一人のOGはそのあいだも入口近くに残り、次に入ってきた客へ目を向けていた。
通帳を手にしている中年の男に、ATMでのお預け入れですかと声をかけ、そのまま機械のほうへ案内する。客は最初こそ戸惑っていたが、横で操作の順を示されると、立ち止まったまま窓口へ向かうことはなかった。
開店からまだ十分もたたないうちに、ロビーの流れは以前のゴトウビとは違うものになり始めていた。
これまでは、入口から入ってきた客の多くが、とりあえず窓口の前へ寄っていた。
そこで用件を聞かれ、機械で済むと分かってから移る。だから列がふくらみ、待たされる客の不満もたまりやすい。
だが、この日は入口のところでまず行き先が分かれる。
窓口の用件なら記入台へ。預け入れや引き出しならATMやCDへ。書き方が分からない客には、その場で説明が入る。窓口の前に人が寄り始めるまでの時間が、前よりはっきり長くなっていた。
もちろん、すべてが一度でうまくいくわけではない。
案内の途中で、つい通帳を差し出しかける客もいる。そのたびに、近くで見ていた山本君が、預かるのではなく窓口へお持ちくださいと短く言い添えていた。
それでも、午前の山を越えるころには、支店の中の空気が変わって見えた。
窓口の前に立ったままいら立つ顔が、前より少ない。窓口の行員たちの受け答えにも、わずかな余裕が戻っていた。
腕時計に目をやってから、ロビー全体をもう一度見渡した。
始まったばかりの試みだから、これで結論を出すには早い。だが、客が何も分からないまま窓口へ集まってしまう場面が減っていることだけは、自分の目でも確かめられた。
支店長も、窓口の奥から何度かロビーへ目をやっていた。
昼前、客足がいったん切れたところで近づくと、小さくうなずく。
「悪くないね」
「はい。入口での振り分けが効いています」
「これなら、続けて見ていく意味はありそうだ」
その後も、私はゴトウビに合わせて上東支店へ通った。
OGが入る九時から十三時まで、入口まわりの客の流れと、窓口の前に人がたまり始める時間を見ていった。以前ならそのまま窓口へ向かっていた客が、入口で用件を聞かれた段階でATMやCDへ向かう。記入台へ案内される客も、最初から書く場所が分かっているぶん、窓口の前で止まらない。
山本君にも、合間を見て何度か話を聞いた。
「前より、お客様が窓口まで来てから戻ることが減りました」
「案内しやすいですか」
「はい。入口で一声かけてもらえるだけで、だいぶ違います」
窓口の行員からも、似たような声が出ていた。
待ち時間への苦情が減ったこと。機械で済む用件が先に振り分けられるぶん、窓口では本来必要な説明に時間を使えること。混雑している時間帯でも、前より客の顔を見て応対しやすくなったこと。
通常営業日にも支店へ行った。
OGのいない日の流れも見ておかなければ、ゴトウビで起きている変化の幅がつかみにくい。もともと上東支店がどのくらいの客の動きで回っているのか、その基準を自分の目で確認しておきたかった。
通常営業日は、やはりゴトウビほどの混雑にはならない。
それでも、客が入口で迷ってから窓口に寄る場面はあるし、機械で済む用件が窓口へ流れ込むこともある。改善前のゴトウビほどではなくても、入口で案内する人がいるかいないかで、ロビーの空気は変わるだろうと思えた。
支店で回収した客の声も見せてもらった。
窓口に並ばずに済んで助かった。
機械は苦手だったが、教えてもらえたので使えた。
待ち時間が短くなった気がする。
そうした感想が、以前より目についた。
ここまで見たうえで、比較に入った。
前年の同じ月。改善に手をつける前の昨年十二月まで。OGを入れる前の四月まで。それぞれの時期と見比べながら、上東支店の状況を拾っていく。規模や客層の近い支店の動きも並べてみた。
もともと、今回の試験運用は、ゴトウビの混雑をあまり費用をかけずにやわらげるためのものだった。
支店の利益を増やすことを、支店も事務企画課も最初から考えてはいなかった。
だから、新規口座の件数と預かり金のわずかな増加が出ているのを見たときは、私もすぐには判断できなかった。
だがOGが導入された五月以前の成績や、前年同月、それに近い規模の他支店と見比べると、誤差の範疇とは言えない増加が見て取れた。
入口で迷う時間が減る。
待たされる時間が短くなる。
窓口での応対に余裕が出る。
その変化が、支店に対する客の印象をわずかに良くしているのかもしれない。そこまでは考えたが、表やグラフに現れた結果だけを報告することにした。
私は事務企画課へ上げる報告書を書いた。
混雑緩和の効果。客の不満の減少。窓口応対の余裕の回復。さらに、新規口座開設と預かりの動きにも、見過ごしにくい変化があること。対象を広げた場合にも同じ傾向が出るか、引き続き確認が必要であること。そこまで書いて読み返し、余計な推測などを削った。
夕方、報告書を持って部長の席へ向かった。
「失礼します。上東支店の試験運用について、ご報告です」
部長は受け取った報告書を開き、最後まで読んだ。
「ほう、なかなか面白い結果が出たな」
「はい。ただ、こういう事は短期間では結果が出ませんので、当初予定より試験運用期間を延長してもいいかと考えてます」
「うむ、そうだな。検討しよう。君をこの件の担当窓口にするから、毎月の推移を報告してくれ」
「はい」
そう答えて席を立った。
自席に戻ると、この案件はまだ先があると思えた。




