第59話 事務企画課の視察(前半)
今日は事務企画課が視察に来る日だ。
その朝も、政雄はいつもと同じ時間に支店に着いた。
胸の奥がまったくざわついていないわけではなかったが、「大失敗だけは避けたい」という程度の緊張でおさまっている。
(きょうは、自分をアピールする場じゃない)
支店の裏口をくぐりながら、そう考える。
(いまのロビーの問題と、やってみて分かったことを話せばいい。それをどう使うかは、向こうの仕事だ)
そう思うと、かえって肩の力が抜けた。
机に着くと、前の晩に開いたノートをもう一度取り出す。
「ロビー改善 追加アイデア」と書かれたページに、ざっと目を走らせた。
・CDの上に用途を書いた札をぶら下げる
・ATMの上に用途を書いた札をぶら下げる
・窓口希望のお客様に番号札を渡す
・「ただいま〇番までご案内中」のボードを出す
・番号札のねらいは、待ち時間短縮ではなく「不安とイライラ」を軽くすること
・途中で並ぶのをやめて帰ってしまうお客様の数を意識しておく
・小型の記帳専用端末をロビー側に置けないか
・OG雇用のメリット など
(全部を一気に話す必要はない。聞かれたところから順に出していけばいい)
ノートをぱたんと閉じると、政雄はネクタイの結び目を軽く整えた。
(まずは、いつもどおりにロビーを回す)
そう自分に言い聞かせ、開店準備を終えたロビーへ向かった。
ゴトウビのロビーと本部との初対面
その日は朝から、ロビーの空気がいつもより一段重かった。
五のつく日と十のつく日が重なる「ゴトウビ」の午前中。
入口付近にはすでにお客様の列ができ、CDとATMの前には、通帳とカードを手にした人たちが絶え間なく入れ替わっていた。
「すみません、現金のお預け入れはどちらですか」
「記帳だけなんですけど、この列でいいんでしょうか」
問いかけに答えながら、政雄は入口とCDの間を行き来していた。
振り分けと案内に集中していると、ふいに背後から次長の声が飛んできた。
「山本君、ちょっといいか」
振り向くと、次長の隣にスーツ姿の男が二人と、その少し後ろに一人、メモ帳を手にした男性が立っていた。
「本部の事務企画課からお越しいただいた方々だ」
次長がそう紹介する。
「山本君だね」
前に立っていた年配の男が、穏やかな声で言った。
四十代半ばくらいだろうか。表情は柔らかいが、目の奥はよく周りを見ている。
「事務企画課の安東です。きみが、こちらのロビーの改善案を出してくれたそうだね」
「山本です。お世話になります」
政雄が軽く会釈すると、その隣にいた、いくらか堅い雰囲気の男も名乗った。
「同じく事務企画課の赤瀬です。きょうは、実際の様子を見せてもらいながら、いくつか話を聞かせてもらえればと」
少し後ろにいた若い男性も、慌てて頭を下げる。
「田口です。よろしくお願いします」
そのあいだにも、ロビーでは新しいお客様が次々に入ってくる。
「山本さん、こちらのお客様、記帳だけなのでお願いします」
CD脇に立っていた年下の女性行員が、通帳を持った年配の男性を手で示した。
「はい、ありがとうございます」
政雄は一歩前に出て、男性に向き直った。
「通帳のご記帳だけでよろしいですね。いまですと、こちらのATMが一番早くお済ませいただけます」
ロビーの端に並ぶATMのうち、一台だけ列の短い機械を手で示す。
「機械はちょっと苦手でねえ」
男性が不安そうな顔をすると、政雄はすぐに言葉を継いだ。
「でしたら、窓口のほうでお預かりして記帳いたします。少しお時間をいただきますが、こちらの椅子でお待ちいただけますか」
「そうか、それなら頼もうかな」
「はい、では通帳をお預かりします」
通帳を受け取ると、政雄は一旦窓口内へ回り、空いている端末につながったプリンタで記帳を済ませた。
印字を確認してから、ふたたびロビーに戻る。
「お待たせしました。残高はこちらになります。ありがとうございました」
お客様を送り出してから、あらためて事務企画の三人に向き直る。
「失礼しました。きょうは、こういう状況でして」
「いえ、ゴトウビですからね」
安東は、ロビーを一望しながら小さくうなずいた。
「まさに、こういうときの様子を見せていただきたくて、お邪魔しています」
そう言ったところで、別の声が飛ぶ。
「山本、こっちも頼めるか」
今度は窓口側から、同僚が書類の束を掲げている。
預金の大量入金らしく、記帳と控えの整理が追いついていないようだった。
「すみません、少しだけ失礼します」
政雄は事務企画の三人に一礼し、駆け足で窓口脇へ向かった。
伝票の枚数を確認し、必要な控えを分け、窓口係に渡す。
そのあいだにも、入口では新しいお客様が列に加わっていく。
(これは、とてもゆっくり話していられる状況じゃないな)
心の中でそう思いながら、息をついたところで、背後から支店長の声がした。
「本部の皆さま、きょうはこのような混雑ぶりで、申し訳ありません」
支店長がロビーに姿を見せ、事務企画の三人に頭を下げる。
「いえ、むしろ本来の姿を見せていただいていると思っております」
安東が穏やかに答えた。
「ありがとうございます。ただ、山本のほうも、いまはロビー対応で手一杯の時間帯でして」
支店長は、ちらりと政雄のほうを見た。
「昼を少し過ぎれば、だいぶ落ち着いてまいります。そのころに、あらためて山本から、ゆっくり話をさせるようにしたいのですが、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
安東がすぐにうなずいた。
「まずは、こちらでロビーの様子を一回り拝見させていただきます。そのあとで、昼過ぎにでも、山本君にまとめて話をしてもらえれば」
そう言って、今度は政雄のほうを見る。
「山本君、きょうはふだんどおりに動いていてください。こちらは支店長さんに案内していただきますから」
「分かりました」
政雄は一礼し、再び入口へと向かった。
ロビーのざわめきの中で、本部の三人と支店長、次長が少し離れた場所からフロア全体を見渡しているのが、視界の端に入った。
(昼過ぎか)
通帳を持ったお客様に声をかけながら、政雄は心の中で時間の感覚を確かめた。
(それまでに、きょうの動きも頭の中で整理しておかないとな)
忙しさの中に、ほんの少しだけ、楽しみに近い感情が混じっているのを、自分でも感じていた。
*
正午を回るころには、ロビーの人の波も、ゆっくりと引き始めていた。
ひと息ついたところで、事務室の入口から次長の声がした。
「山本君、応接室に来てくれ」
「はい」
上着の裾を軽く払ってから、政雄は応接室のドアをノックした。
「どうぞ」
中に入ると、テーブルをはさんで支店長と次長が座り、その向かい側に安東、赤瀬、田口の三人が並んでいた。
「失礼します。山本です」
軽く会釈して席につくと、支店長が口を開いた。
「午前中は、ロビーのほうでだいぶ無理をさせてしまってね」
「いえ、いつものことですので」
そう答えると、安東が「では」と言うように、少し身を乗り出した。
「山本君、きょうはこちらから細かく聞くより、まずきみのほうから話してもらったほうがよさそうだと思ってね」
穏やかな口調のまま、言葉を続ける。
「一番困っているところから、順番に教えてもらえますか。ロビーで、きみが『ここが一番まずい』と思っているところです」
そう言われて、政雄は一度だけ息を吸い、頭の中で午前中の光景をたぐり寄せた。
(いちばん、か)
「そうですね……」
少しだけ間を置いてから、口を開く。
「まずは、窓口の待ち方でしょうか。きょうのような日は、どの列に並べばいいのか分からないまま立っているお客様が多くて、『本当にこの列でいいのか』という不安が、いちばん大きいように感じます」
安東が、うなずきながらボールペンを走らせる。
赤瀬は腕を組んだまま、じっと政雄のほうを見ていた。
「きょうも、途中で『まだかかりますか』と聞かれた場面が何度かありました。正直なところ、いまは感覚でしか答えられていません」
「感覚で」
赤瀬が、そこで初めて口を開いた。
「はい。窓口の担当者の顔ぶれと、そのとき抱えている案件の中身を見て、『この列ならあと三人で十数分くらいだろう』と頭の中で見積もって答えています。ですから、お客様からすると、『本当にそのくらいで終わるのか』という不安は、最後まで残ったままだと思います」
「なるほど」
安東が、今度は少し身を乗り出した。
「山本君としては、その不安をどうしたいと思っている?」
「あと何人待ちか、分かるようにしたいです」
政雄は、言葉を選びながら続けた。
「待ち時間そのものは、急には短くならないと思います。ただ、『あとどれくらいかかるか分からない』状態を、『自分の番がどのあたりまで来ているか見える』状態に変えられれば、イライラや不安は、いくらか減るんじゃないかと」
「そのために、何を考えている?」
「番号札をお配りする案を考えています」
政雄は、ノートを開きながら説明を重ねた。
「窓口をご利用になるお客様に、来店順に札を一枚ずつお渡しします。札には大きく番号だけを書いておいて、ロビーの一角に小さなボードを出し、『ただいま〇番までご案内中』と表示する形です」
安東が「うむ」と短く相づちを打つ。
田口が、興味深そうにボードのイメージをメモに描き始めた。
「番号が見えていれば、『自分は二十番で、いま十五番まで呼ばれているから、あと五人だな』と、お客様ご自身でも見当がつきます。こちらも、『あと五人ですから、おおよそ十五分前後です』と、もう少し具体的にお答えできます」
「途中で並ぶのをやめて帰ってしまうお客様の話も、ノートに書いていたね」
安東が、先ほど預かったメモをめくりながら言った。
「はい。きょうのような日は、ときどき『やっぱりまた今度にします』とお帰りになる方がいらっしゃいます。正確に数えたわけではありませんが、体感では、ゴトウビ一日で何人かは必ず出ている印象です」
「番号札を入れれば、その人たちが減ると」
「そうなってほしい、という期待です。『自分の番が近づいている』のが見えれば、『もう少し待ってみようか』と思っていただけるんじゃないかと」
そこまで話してから、政雄は少し言いよどんだ。
「もう一つ、記帳の件でもう少し何とかならないかと考えていることがあります」
「記帳?」
今度は赤瀬が、ペン先を動かしながら聞き返した。
「はい。きょうもそうでしたが、『記帳だけなんだけど』というお客様が、ゴトウビにはかなり多くいらっしゃいます。ATMにご案内できれば早いのですが、『機械はちょっと苦手で』という方も少なくありません」
安東が、先ほどロビーで見た年配客の顔を思い浮かべたように、うなずく。
「いまは、そういうお客様の通帳は、一度こちらでお預かりして、窓口の端末で記帳しています。そのあいだ、お客様にはロビーでお待ちいただく形になります」
「人が一人、窓口の中でつきっきりになるわけだ」
赤瀬の言葉に、政雄も「はい」と答えた。
「ですから、ロビー側に『記帳だけ』を処理できる専用の端末のようなものを、小さくてもいいので置けないかと考えています」
「いまは、そういう機械は置いていないね」
「はい。機械そのものも高いでしょうし、スペースの問題もあると思います。なので、イメージとしては――」
政雄は、手元のノートを開き、ページの隅に描いておいた小さな箱の絵を指さした。
「既存のオンライン端末から線を伸ばして、ロビー側には通帳を差し込む小さなプリンタだけ出す形です。カウンターの脇からランケーブルを引っ張ってきて、テーブルの上にちょこんと置けるくらいの大きさを想定しています」
「通帳を入れると、自動で記帳されるだけの、単機能の箱だね」
安東が、絵をのぞき込みながら言った。
「はい。お客様には、『記帳専用はこちら』とはっきり案内できますし、窓口の人間も、そのぶん別の仕事に回せます。ゴトウビのような日は、『記帳だけ』のお客様をそこへ集中的に流したいと考えています」
そこで、安東が少し首をかしげた。
「機械は置けても、それを見る人間が要りますね」
穏やかな口調だが、指摘はまっすぐだった。
「おっしゃるとおりです」
政雄もすぐにうなずく。
「機械だけ増やしても、結局は行員がつきっきりになってしまえば、意味がありません」
赤瀬が、そこで口を挟んだ。
「それに、ロビーに人を一人増やすとなると、人件費の話も一緒に考えないといけませんね」
「はい。ですから、常に一人分増員するというよりは……」
政雄は、一度言葉を切ってから続けた。
「忙しい時間帯だけ、ロビーを手伝ってもらえる人を確保できないかと考えています。そのときに、OGの方にパートで入っていただく形はどうだろうかと」




