第58話 姉の門出とフロアー改善の成果
三月に入ると、日々が一段と早く過ぎていくように感じた。
平日は通常どおり融資の仕事をこなし、ゴトウビにはロビーの新しいやり方を続けて試す。
二回目、三回目のゴトウビは、最初ほどの混乱にはならなかったが、それでも「これで完成」と胸を張れるような出来ではなかった。
(それでも、前よりは少しましになっているはずだ)
そんなふうに思いながら動いているうちに、カレンダーはいつのまにか、姉の結婚式の日を指していた。
当日は、まだ肌寒さの残る、よく晴れた日だった。
結婚式場の控室で、姉は白無垢姿で座っていた。
いつもの勝ち気な表情が、どこか照れくさそうに和らいでいる。
「どう? 変じゃない?」
振り向いた姉が、少しだけ不安そうに聞いてきた。
「似合ってるよ。いつもよりおとなしく見える」
「それ、ほめてるの?」
「もちろん」
そう答えると、姉はふっと笑った。
父は、着慣れない礼服に少し落ち着かない様子で、ネクタイを何度も直している。
母はその横で、小さなハンカチを握りしめながら、時々姉のほうを見ては目元をぬぐっていた。
式と披露宴は、親族中心のこぢんまりとしたものだった。
大げさな演出は何もなく、料理と酒と、親戚同士の会話が静かに続いていく。
お色直しを終えて戻ってきた姉が、テーブルの合間をぬって政雄の席に近づいてきた。
「ねえ、政雄」
「ん?」
「お父さんとお母さんのこと、頼んだわよ」
小さな声で、それだけを言う。
「そんな大げさな」
「大げさじゃないわよ」
姉は、からかうような、けれどどこか真剣な目で政雄を見た。
「あんた、長男なんだから。お父さんの話し相手くらいにはなってあげなさいよ。お母さんの愚痴も、たまには聞いてあげて」
「分かったよ。できる範囲で」
「最初から完璧じゃなくていいの。あんた、そういうところ、ちょっと真面目すぎるから」
そう言って、姉は笑って自分のテーブルへ戻っていった。
披露宴がお開きになり、両家の挨拶もすべて済んだころには、外は夕方の光に変わっていた。
結婚式場の玄関前で、家族と親戚が列になって見送る。
姉は新郎と並んで一礼し、タクシーに乗り込んだ。
「じゃあ、行ってきます」
開いた窓から、姉が手を振る。
「あぁ、気をつけてな」
父がそう返す。
母は何も言えずに、ただ手を振り続けていた。
タクシーが門を出て、通りの角を曲がって見えなくなるまで、政雄もその場で見送った。
そのあと、父と母と三人で、式場から家へ向かう電車に乗った。
帰り道、母は「この子はね、生まれる前に一度流産しかけたのに、奇跡的にもちこたえて……」と、何度も聞いた話をまた最初から始める。
父は飽きた様子も見せず、「ああ、そうだったな」「立派に育ってくれて良かったな」と、いつもの調子で相づちを打つ。
二人のやり取りを聞きながら、政雄も一緒に家へ戻った。
そのまま姉夫婦は、三泊四日の新婚旅行に出かけていった。
行き先は国内の温泉地で、新居も家から車で二十分もかからない場所だ。
(大げさに別れを惜しむような距離でもない、か)
そうは思いながらも、家の中の空気が少しだけいつもと違うように感じるのを、政雄は否定できなかった。
*
姉の結婚式から五日ほどたった日の夕方、政雄が仕事から帰ると、玄関に見慣れた靴が並んでいた。
「あれ?」
居間のふすまを開けると、姉と義兄が座っていた。
「おかえり」
姉が手を振る。
「ただいま。もう戻ってきたのか」
「三泊四日よ。そんなに遠くまで行ってないもの」
姉は、いかにも得意そうに紙袋を持ち上げた。
「はい、あんたにもお土産あるわよ」
(お、新婚旅行のお土産なら、マカデミアナッツのチョコか? あれ好きなんだよな)
期待しながら受け取ると、中に入っていたのは、きれいな箱に並んだ温泉まんじゅうだった。
「……温泉まんじゅうか」
「なによ、その声は」
「いや、べつに。おいしそうだよ」
(そりゃそうだよね。行ったのは別府温泉なんだから)
心の中でそうつぶやきながら、苦笑いをこらえる。
「いいじゃないの、おいしいんだから」
母がすぐさま口をはさんだ。
「別府の地獄めぐりもしてきたんだって。さっきから写真を見せてもらってたところよ」
「そうなんだ」
「もう、あっついのなんのって。湯気で前が見えなくなるくらいよ」
姉は身ぶりを交えて、温泉地獄めぐりの話をひとしきり母に語って聞かせた。
義兄は、隣で相づちを打ちながら、時々「そこでこけそうになってさ」と話を足していく。
父は、「そうか、そうか」と言いながら、お茶のおかわりを何度もすすめていた。
一通りの土産話が終わると、姉は時計をちらりと見た。
「そろそろ行かないとね。晩ごはんは、あっちで食べるから」
「もう帰るのか」
「新居、そんなに遠くないでしょ。二十分もあれば着くんだから、またすぐ来るわよ」
姉はそう言って立ち上がり、最後にもう一つ、小さな包みを政雄のほうに押しつけた。
「これは何」
「キーホルダー。別府って書いてあるやつ。あんた、鍵束にでもつけときなさい」
「……ありがとう」
義兄の車が待つ通りまで見送りに出て、二人が乗り込むのを見届ける。
「じゃあ、また近いうちに」
窓から手を振る姉に、政雄も軽く手を上げて応えた。
車が角を曲がって見えなくなったあと、玄関へ戻りながら、ふっと笑いがこみ上げてくる。
(姉が結婚した日に感じた、あのちょっとした感傷は何だったんだろうな)
そんなことを思いながら、居間へ戻った。
*
政雄のほうも、仕事は相変わらず忙しかった。
平日は融資の案件に追われ、月に六回のゴトウビには、ロビーの新しいやり方を続けて試す。
その後のゴトウビでも、最初のころよりはロビーの動きが落ち着いてきていたが、それでも「これで完成」と胸を張れるような出来ではなかった。
CDとATMの列は、最初のころより落ち着いてきたが、通帳記帳を希望するお客様の多さには、毎回のように頭を悩まされていた。
(記帳だけのお客様を、もっと早くさばければな)
そんなことを考えながら、ある日の午後を迎えた。
その日の夕方、事務室で伝票を整理していると、次長に呼ばれた。
「山本君、ちょっと支店長室まで来てもらえるかな」
「はい」
手を止めて顔を上げると、次長はいつもより少しだけ真面目な表情をしていた。
ノックをして支店長室に入ると、支店長が机の向こう側から立ち上がりかけていた。
「そこに、座って」
「失礼します」
政雄が椅子に腰を下ろすと、支店長は机の上の一枚の紙を軽く指で押さえた。
「きょうは、少しうれしい話だ」
そう言って、支店長は口元に笑みを浮かべた。
「事務企画課から、うちの支店に視察に来たいという連絡があった」
「事務企画課が……ですか」
思わず聞き返すと、支店長はうなずいた。
「前に、きみがまとめてくれたロビー運営のメモがあっただろう。あれを、次のゴトウビの結果と一緒に本部へ送っておいたんだ。ゴトウビのロビーの流し方と、記帳のお客様への対応、それから増員案のところだ」
支店長は、机の端に置いてあった書類の束から、一枚を抜き出した。
「向こうからの返事がこれだ。ざっくり言えば、『一度現場を見せてほしい』ということだな」
政雄は、胸のあたりが少しだけ熱くなるのを感じた。
「視察の目的は三つだ」
支店長は、指を折りながら続けた。
「一つ目は、ゴトウビのロビー改善そのもの。入口での振り分けや、相談机の使い方が、どの程度ほかの支店にも広げられそうかを見たいそうだ」
「はい」
「二つ目は、記帳の動線と、小型の記帳専用端末の話だ。きみのメモにあった『フロア近くに記帳専用の小型機を置けないか』という案に、事務企画のほうが興味を持っている。今すぐどうこうという話ではないが、現場の声として、詳しく聞いておきたいらしい」
そこまで言って、支店長は少しだけ表情を引き締めた。
「三つ目は、増員のやり方だ。ゴトウビだけでもフロアに人を増やしたい、という話はどこの支店でも出ている。ただ、今までは『お金を扱う以上、正社員しか置けない』という考え方が強かった」
「そうですね」
「今回、事務企画のほうから、『OGの活用』という言葉が出てきた。きみのメモの『フロアにもう一人』という話と、うちで検討しているOG採用の案を、一緒に見ておきたいらしい」
政雄は、思わず姿勢を正した。
「OGの採用、ですか」
「ああ。今いる行員の妻で、元行員でもある人たちなら、信用面でも仕事の理解という点でも、安心して任せやすい。ゴトウビのロビーに限ってでも、そういう人材をどう活かせるか、一度現場を見ながら考えたい、というのが事務企画の意向だ」
支店長は、そこで政雄をまっすぐ見た。
「そこでだ」
「はい」
「事務企画が来たとき、きみからロビーのやり方を説明してやってくれないか。入り口での声かけから、CDとATMの案内、相談机での書類の作り方まで。実際にやっていた本人の言葉で話してもらったほうが、向こうにも伝わりやすい」
「僕が、ですか」
思わず聞き返すと、隣に立っていた次長が口をはさんだ。
「きみの案で動かしてきたんだから、きみの口から説明したほうが筋だろう。もちろん、私もそばにいる。支店長も一緒だ」
「むずかしく考えなくていいよ」
支店長が、少しだけ笑って続ける。
「立派な発表をしろと言っているわけではない。きみが見てきたロビーの様子と、うまくいったところ、うまくいかなかったところを、そのまま話してくれればいい」
「……分かりました。やってみます」
返事をしながら、政雄は自分の手のひらに、じんわりと汗がにじんでくるのを感じていた。
「視察は、来月の最初のゴトウビの翌日だ」
支店長は、机の上のカレンダーを軽く指でたたいた。
「本番を見たうえで話を聞きたい、ということらしい。だから、次のゴトウビも、これまでどおりのやり方でやってみてくれ」
「はい」
「OGの件も含めて、きみのメモが一つのきっかけになっている。自信を持っていい」
そう言われて、政雄は小さく頭を下げた。
支店長室を出て事務室に戻る途中、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
(事務企画課か……)
いつかはとは思っていた部署だが、急に自分のすぐ近くまで降りてきたような、不思議な感覚だった。




