第56話 ゴトウビの山場と反省
十一時台の前半が、この日の山場だった。
ロビーの入口から奥の窓口まで、人の列は相変わらず途切れない。
立っている客の輪が広がり、椅子の前の通路まで人で埋まりかけていた。
(ここで崩れると、午後まで尾を引くな)
政雄は、「お手続きのご相談」の札が出ている机の前に立ち、入口と窓口のあいだを見渡した。
ロビーの隅には、CDが二台とATMが一台並んでいる。
どれも、ようやく短い列ができ始めていた。
「お引き出しのお客様、キャッシュカードはお持ちでしょうか」
入口近くの客に声をかける。
うなずいた人に向けて、政雄は少し声を張った。
「カードでのお引き出しでしたら、そちらのCDのほうが早くお済みになります。通帳でのお引き出しやご入金のあるお客様は、こちらで順番に承ります」
何人かが列を離れ、CDのほうへ向かっていく。
その背中を確認してから、政雄はすぐに次の客へと目を向けた。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
列の途中にいる年配の男性に声をかける。
「この定期を、半分だけ崩したいんだがね」
差し出された通帳の定期預金の欄をざっと見る。
「一部解約ですね。こちらの用紙に必要事項をご記入いただいてから、窓口へお出しいただきます。金額のところだけ、こちらで一緒に確認してよろしければ」
「そうしてもらえると助かるよ」
「では、こちらの記載台で」
記載台に案内し、金額の欄を指さしてから、すぐに「お手続きのご相談」の机へ戻る。
「お待たせしました。本日はどのようなご用件でしょうか」
「口座の名義を、こっちの名字に変えたいんだけど」
若い女性が、通帳と印鑑、戸籍の写しらしい封筒を差し出す。
「ご結婚でお名前が変わられたのですね。名義変更のお手続きになります。少しお時間をいただきますので、こちらの用紙にご記入いただいてから窓口へお回しします。書き方はご一緒に確認しますので、こちらにお掛けください」
椅子に腰を下ろしてもらい、申込書を渡す。
その横を、茶封筒を握った作業着姿の男性が足早に通り過ぎた。
「失礼いたします。お振り込みでお急ぎでしょうか」
「ああ。一件だけなんだけど、金額が大きくてね。間違えるとまずいから、窓口で頼みたいんだ」
「かしこまりました。では、こちらの振込用紙にご記入いただいてから、預金窓口へお出しいただきます。口座番号と金額はご一緒に確認しますので、こちらの記載台でよろしいでしょうか」
「頼む」
記載台の前に並んで立ち、男性の手元を見ながら数字を読み上げる。
「口座番号を、もう一度だけ確認させていただきますね。こちらの番号でお間違いないでしょうか」
「ああ、大丈夫だ」
「ありがとうございます。それでは、この用紙をお持ちになって、あちらの『お預金』の札の出ている窓口へお並びください」
男性が小さく礼をして列に戻っていく。
(入口、相談机、CD・ATM、窓口前。どこか一か所でも止まると、全部が重くなる)
政雄は、机の前に残っている客の人数を数え、機械の前の様子を横目でうかがった。
ATMの前では、通帳を持った中年の女性が、画面を見つめたまま動かなくなっている。
事務課の女性が一人、あわててそちらへ向かった。
「ご入金と通帳記帳のお客様は、こちらのATMでもお手続きいただけます」
政雄も声を張り、相談机に向かいながら、機械の列に目を配る。
CDとATMに人が付き始めると、今度はそこに新しい小さな列ができる。
ロビー中央の人のかたまりは、少し形を変えただけで、なかなか減らない。
(きょうは、これ以上きれいにはさばけないかもしれないな)
そう思いながらも、政雄は入口の列の先頭に歩み寄る。
「お待たせしております。本日はどのようなご用件でしょうか」
「通帳の記帳だけなんだが」
「かしこまりました。通帳をお預かりして、記帳が終わりしだいロビーでお返ししますので、空いているお席か、そちらの壁際でお待ちいただけますか」
通帳を預かり、事務課窓口へ回す。
戻る途中で、さきほどの女性に記帳済みの通帳を手渡す。
「お待たせいたしました。記帳はすべて終わっております」
「あら、早かったわね」
「通帳だけのお客様は、先にこちらでお返ししています」
昼近くなっても、ロビーのざわめきは静まる気配を見せなかった。
それでも、入口から入ってくる人の波は、十一時台の前半に比べると、わずかに細くなりつつあった。
政雄は、机の上に置いた伝票の山を一度だけ整え、また入口のほうへと足を向けた。
*
その日の営業が終わるころには、外はすっかり暗くなっていた。
シャッターを下ろし、ロビーの椅子を元の位置に戻す。
CDとATMの残高確認を済ませ、伝票の束を事務室に運び込むころには、支店の中の人影もだいぶ少なくなっていた。
「山本君、ちょっと時間いいかな」
事務室の入口で、次長が声をかけてきた。
「はい」
「支店長と事務課長とで、きょうのゴトウビの様子を少しだけ振り返っておきたいそうだ。応接のほうへ来てくれる?」
「分かりました」
政雄はペンとメモ帳を手に取り、応接スペースへ向かった。
小さなテーブルをはさんで、すでに支店長と事務課長が座っている。
次長が政雄の後ろから入ってきて、空いている椅子に腰を下ろした。
「きょうは一日、お疲れさまでした」
支店長が穏やかに言った。
「ありがとうございます」
「大した会議ではないからね。きょう初めて試したやり方の、良かったところと良くなかったところを、簡単に共有しておこうと思って」
支店長がそう前置きしてから、事務課長のほうを見た。
「では、事務のほうから」
「はい」
事務課長は、手元のメモを一度見てから口を開いた。
「きょうのロビーの流れなんですが、行員から出ていた声を少しお伝えします」
支店長と次長が軽くうなずく。
「まず、CDとATMへのご案内ですね。入口でカードの有無を聞いて、CDとATMに振り分けてもらったことで、『どっちの機械を使えばいいのか分からない』というお客様がだいぶ減ったようです。CDとATMの違いが分からない方はまだ多いので、実際にそばで使い方まで手伝うのは、いいやり方だと思いました」
そこで一度区切って、続ける。
「きょうカードをお持ちでなかったお客様も、次にお引き出しだけならカードを持って来てくださるかもしれません。入り口でまず振り分けることで、CDやATMで済むお客様は窓口を使わなくなりますので、その分、窓口の負担も軽くなります」
次長が小さく「そうだね」と相づちを打った。
「それから、『お手続きのご相談』の机です。行員と確認しながら書類を作りたいお客様が、これまでは窓口で時間を取ってしまっていたのが、事前にフロアである程度まで仕上げられたので、窓口の流れはだいぶスムーズになった、という声が多かったです」
事務課長は、少しだけ表情を引き締める。
「ただ、この流れをお客様に浸透させるには、きょうの人数ではフロアの人員が足りませんでした。どうしても案内が回りきらずに、CDやATMを使える方がそのまま窓口に並んでしまったり、相談の机を素通りしてしまったりという『漏れ』や、行ったり来たりの『無駄』も、まだかなり残っていたと思います」
そこまで言ってから、支店長のほうを見た。
「ですので、次に同じ形でやるなら、フロアにもう一人は立てるようにしたい、というのが事務の側の感触です」
「なるほどね」
支店長がゆっくりとうなずいた。
「次長のほうからは、どうかな」
「はい」
次長は腕を組んだまま、天井を一度見上げてから口を開いた。
「きょうは、窓口の中の処理も、いつもよりは落ち着いていたと思います。書類の不備で手続きが止まる件数が、目に見えて減っていました。フロアである程度まで書いてもらってから回してくれたおかげですね」
それから、政雄のほうをちらりと見た。
「もちろん、待ち時間がゼロになったわけではないし、ロビーが空くこともなかった。お客様のほうも、慣れないやり方に戸惑われたところはあったと思います。ただ、あの込み具合で、これだけクレームが少なかったのは、きょうのやり方の効果だろうと感じました」
支店長が、軽く笑みを浮かべた。
「きょうのロビーは、外から見ていても、いつものゴトウビよりは落ち着いていたように見えたよ。待っているお客様の表情もね」
そう言ってから、今度は政雄に視線を向ける。
「山本君、やってみた本人としては、どうだったかな」
「そうですね……」
政雄は少し考えながら言葉を探した。
「入り口でお話をうかがっていると、CDとATMの違いが分からないお客様が、想像していたよりずっと多いと感じました。きょうはこちらからお声がけして、そばで操作もお手伝いしましたが、あのやり方なら、少しずつ慣れていただけるかなと」
「ふむ」
「それと、相談の机で書類を一緒に作るのは、窓口側にもお客様側にも、悪くないように思いました。ただ、事務課長がおっしゃったように、一人だけだと、どうしても目が届かないところが出てしまいます。きょうは、案内が回りきらなくて、『こちらをご利用ください』とお願いできなかったお客様も多かったので、そのあたりはまだ課題だと思います」
「正直でよろしい」
支店長が、少しだけ口元を緩めた。
「きょうのやり方が、百点満点だったとは私も思わない。ただ、あの混み方の中で、工夫しようとしたこと自体は評価していいと思っている」
そう言ってから、政雄を正面から見た。
「山本君の案で、きょうのロビーはいつもと違う動きになった。事務のほうからも、悪くないという声が多いようだ。次のゴトウビまでに、きょうのやり方と気づいた点を、簡単でいいからメモにまとめておいてくれないか」
「分かりました」
「難しい報告書はいらないよ。『ここはうまくいった』『ここはうまくいかなかった』『次はここを変えてみたい』、その三つくらいで十分だ」
「はい。やってみます」
返事をしながら、政雄は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。
派手にうまくいったわけでもない。ロビーは一日中混んでいたし、途中で何度も「これは失敗かもしれない」と思った場面もあった。
それでも、「次もやってみろ」と言われたことが、今は何よりの収穫だった。
短い打ち合わせが終わり、応接スペースを出る。
事務室には、まだ数人の行員が残っていた。
誰もが疲れた顔をしながらも、どこかほっとしたように片づけを進めている。
(きょう一日で分かったことを、忘れないうちに書き出しておくか)
そう心の中でつぶやきながら、政雄は自分の机の引き出しから、メモ用紙の束を一枚引き抜いた。
*
ボールペンを手に取り、政雄はメモ用紙の上に三つ、小さく項目を書き出した。
うまくいった点。
うまくいかなかった点。
次に変えたい点。
それから、一つずつ埋めていく。
まずは、うまくいった点。
入り口で用件をうかがい、CDとATM、それから窓口に振り分けるやり方は、ほぼ狙いどおりの方向で効果があった。
CDとATMの違いが分からないお客様も多かったが、こちらから声をかけてそばで操作を手伝うことで、「とりあえず窓口に並んでしまう」人をかなり減らすことができた。
「お手続きのご相談」の机で、行員と一緒に書類を作ってから窓口へ回す流れも、思っていた以上に機能した。
窓口で一から説明しながら書いていたときより、後ろの列の進み方が滑らかになっていたのは、自分の目にもはっきり分かった。
次に、うまくいかなかった点。
思っていた以上に、「出金だけ」で来店するお客様が多かった。
給料日や売上金の引き出しで、通帳と印鑑だけを持ってこられる方が、こんなにいるとは正直思っていなかった。
同じように、通帳記帳を希望するお客様の多さも、読み違えていた。
前の世界で、キャッシュレスやスマホで残高照会が当たり前になっていた記憶に引きずられて、「ここまで通帳にこだわる人は多くないだろう」と、どこかで思い込んでいたところがある。
結果として、CDとATMをもっと使ってもらえるという見込みほどには、窓口の負担を減らしきれなかった。
フロアに立つ人間も足りず、案内が回りきらなかったことで、せっかくの仕組みが「漏れ」と「無駄」を抱えたまま動いていた。
最後に、次に変えたい点。
ゴトウビだけでもいいから、フロアの人員を増やしたい。
入り口と相談机と機械の前を、一人で見ようとするのは、やはり無理があった。もう一人ロビーに立てれば、案内の漏れをかなり減らせるはずだ。
それから、記帳を優先する窓口を、ゴトウビの日だけでも増やせないか。
あるいは、フロアの相談窓口の近くに、通帳記帳専用の小型機を置けないかどうか。通帳の記帳だけで帰れるお客様を、もっと早くさばければ、ロビー全体の滞留も小さくできる。
ざっと書き終えてから、政雄はメモを読み返した。
(このくらいなら、支店長にも出せるかな)
乱暴になりかけた字を少し整え、メモ用紙を二つに折って手帳にはさみ込んだ。




