第55話 家族の時間と新たな試み
十二月の半ば、家に帰ると、台所の音がいつもより少なかった。
「ただいま」
声をかけると、居間のほうから母の返事がした。
「おかえり」
ちゃぶ台の前に座った母は、左の膝に包帯を巻いていた。腰のあたりにも、サポーターがのぞいている。
「どうしたの、それ」
「たいしたことないのよ」
母はそう言って立ち上がろうとしたが、顔が少しゆがんだ。
「ごはん、いまから用意するから」
「いいよ。座ってて」
政雄はあわてて止めた。
「何があったの」
「乳酸菌飲料の配達でね」
観念したように、母は笑った。
「いつもの角で、段差に乗り上げちゃって。自転車ごとガタンといって、そのまま転んだのよ。左の膝と、こっちの腰を打ってね」
「骨は」
「折れてはいないって。お医者さんには、しばらく安静にしなさいって言われたわ。だから配達は、年内はお休みすることにしたの」
母はあっさりと言ったが、立ち上がろうとするたびに、動きはぎこちない。
「だから、ごはんぐらいは」
「今日は俺がやるよ。残り物もあるし」
「ありがとう」
母は座り直しながら、少しだけ肩の力を抜いた。
「来年、もう五十なのよ。自転車で走り回るのも、そろそろ考えないといけないかもね」
「無理はしないで」
政雄は台所で鍋を火にかけながら答えた。
母がこの仕事を始めたころは、まだ四十になる前だった。
炎天下も冬の風の日も、乳酸菌飲料を積んだ自転車で坂を上り下りしていた後ろ姿が、ふっと頭に浮ぶ。
(この先、ずっと続ける仕事ではないよな)
そう思いながらも、口には出さなかった。
母の膝は、年末にはなんとか普段どおり歩けるくらいまで回復したが、配達のほうは「年明けから様子を見て」と先送りにしたようだった。
やがて、あっという間に大晦日になった。
夜、いつものように家族四人でちゃぶ台を囲む。流しには、ゆで上がったそばの湯気が立ちのぼっている。例年どおり、馴染みの蕎麦屋に頼んだ年越しそば。
政雄は流しの前で、丼にそばをよそい、温かいつゆを注いでエビ天と刻んだネギをのせる。四つ分そろったところで、丼を一つずつちゃぶ台に運んだ。
「伸びないうちに、いただきましょう」
母が穏やかに言い、箸を取る。
四人で手を合わせた。
「いただきます」
つゆの匂いも、エビ天の衣の感じも、去年と同じだった。
テレビからは年末特番の笑い声が聞こえ、窓ガラスの外は静かに冷えている。
「こうやって家族四人で年越しそば食べるのも、今年が最後ね」
そばをすすりながら、姉がぽつりと言った。
「何よ、いきなり」
母が笑いながら顔を上げる。
「来年は、幸が田村さんに作ってあげるんでしょ。今のうちに、政雄に作り方でも教わっておいたら?」
「えー、政雄に聞かなくても、これくらいなら私だってできるわよ」
姉が少し照れたように言うと、母は「それなら安心ね」と笑った。
「幸」
そこで父が、短く口を開いた。
「嫁いだら、そこでよい家庭を作りなさい」
姉は箸を持ったまま、父のほうを見た。
「うん」
「それだけでいい」
父はそれ以上は言わず、そばをひとすすりした。
母が、ふうっと小さく息をついた。
「どこで食べるにしても、元気で年を越せれば、それが一番よ」
そう言って、そばをひと口すすった。
湯気の向こうで、三人の顔が少しゆがんで見えた。
年が明けて、元日の朝は、いつものように母の雑煮だった。
「正月のお雑煮は、私が作らないとね」
母はそう言って台所に立った。鍋から立つだしの匂いも、餅を焼く音も、何年も変わらない。
雑煮で腹ごしらえをしてから、家族四人で近所の神社へ初もうでに出かけた。
いつもの石段を上がり、拝殿の前で順番を待つ。鈴の紐を引く音と、柏手の音が、冷たい空気の中に途切れ途切れに響いていた。
「今年も、みんな元気でいられますように、ってお願しなさいよ」
母の言葉に、姉が「はいはい」と笑う。
四人並んで頭を下げながら、政雄は横に立つ三人の気配をなんとなく意識した。
(家族四人での初もうでも今年までなのだろう)
強く寂しいわけではない。
ただ、転生してから毎年してきたことが、変わるのだと実感しただけだった。
*
神社から家に戻ると、家の中はいつもの正月の静けさに戻っていた。
昼を過ぎると、それぞれの時間になる。母は台所で片づけをし、父はこたつで目を閉じ、姉は自分の部屋に引っ込んだ。
俺も、自分の部屋に戻る。
机の前の椅子に座り、足元に電気ストーブを置く。綿入れ丹前を着込んで、一人になった。
(さてと)
元日の午後は、ここ数年、軽く頭の中を整理する時間にしている。
(まず、銀行の仕事)
営業そのものは嫌いではない。外を回って人と話し、お客様に無理のない範囲を提案して融資する。それはそれでやりがいがある。
ただ、自分の興味を引くのは、支店の仕事の流れをどう変えたら楽になるかとか、窓口の混み方をどうすればましにできるか、といったことを考えることだ。
(やっぱり、企画寄りのほうが性格には合っているんだろうな)
本部の事務企画部に行けるかどうかは、まだ先の話だ。
ただ、現場で見えた「ここをこうすれば回りやすい」というところを形にしていく、そういう仕事がしたいとは思っている。
その一歩目として、この年末には窓口の回し方の案を出した。
次のゴトウビには、その対策を試すことになっている。
(ああいうことを、少しずつ増やしていけばいいか)
(それと、配達のほう)
この世界に来てから、なぜか「運ぶ仕事」と縁がある。蕎麦屋の出前、大学の飲料配達、弁当の配達。
前の世界で見た、アマゾンとかウーバーとか、そんな名前がはっきり残っている。店を構えず、ネットで注文と決済をして、コンピューターで在庫も配達も管理していたはずだ。
(情報通信と物流、今は別々のものが融合した新しい産業になる)
無店舗通信販売が一般化する。この世界でも、そこへ向かうことは間違いないだろう。
(だから事務企画部で、情報通信インフラやその運用を学んでおきたい)
銀行はお金だけでなく、情報もやり取りする仕事だ。そこで使われる通信の仕組みや、オンラインの運用に触れておくことは、きっと後で効いてくる。
(老後のお金の心配は、前の世界で十分味わったからな)
年金と貯金を見比べて、この先大丈夫かと不安だった記憶がある。もう一度そうなりたくないし、一緒に年を取ってくれる相手も見つけたい。
わざわざ誰かに話すつもりはないけれど。頭の片隅には置いておこう。
事務企画に行くこと、配達や物流にどう関わるか、老後のお金や結婚のこと。どれも今年いきなり答えを出す話ではない。
まずは、今の支店での仕事をしっかりやる。
そのうえで、混む日の窓口の回し方を考えたり、「こうしたほうが流れがいい」という案を一つ二つでも実際に試してみる。
(ゴトウビの対策は、その最初の一歩だな)
*
正月休みが明けて、最初のゴトウビがやって来た。
朝の支店ロビーは、開店前からいつもより人が多い。ガラスの向こうに見える通りにも、スーツ姿や作業着の人が、ちらほらと銀行のほうを気にしながら歩いている。
定刻ちょうどに自動ドアが開くと、待っていた数人が一度に中へ入ってきた。
「いらっしゃいませ」
受付の女性たちの声が重なる。
最初のうちは、まだ流れも落ち着いていた。預金の入出金や振り込みが中心で、窓口の前にも、ロビーの椅子にも、まだ余裕がある。
(ここからだな)
九時半を過ぎたころから、少しずつ様子が変わり始めた。
入口から入ってくる人の数が目に見えて増える。通りのほうをのぞくと、信号が青になるたびに、塊になってこちらへ向かってくるのが分かる。
受付前のスペースに、自然と列ができる。振り込み用紙を手にした客が並び、その後ろに、封筒を持った人たちがつづく。ロビーの椅子も、いつの間にかほとんど埋まっていた。
(毎度の光景だ)
通帳を握りしめて順番を待つ人たち。窓口の上の「お預金」「お振込」の札を交互に見上げながら、どの列に並ぶか迷っている年配客。近くの椅子で、じっと子どもの手を握っている母親。
ただ、今日は「いつもどおり」では終わらせないつもりだ。
窓口の中では、事務課の先輩たちが、いつもより早いペースで処理を進めていた。外回りの担当も、午前中だけは窓口応援に入っている。
「山本君、そろそろお願い」
事務課の窓口から顔を出した先輩が、小さく手招きした。
「はい」
政雄は立ち上がって、入口のほうへ向かった。
ロビーの中央には、パーテーションで仕切られた「お手続きのご相談」とだけ書かれた簡易の机と椅子が一脚、用意されている。
(ここで、まず振り分ける)
預金や振り込みだけの人、両替の人、融資や相談の人。
いったんそこで用件を聞き、窓口に出す前に必要な書類をそろえてもらう。手続きが多い人は、案内役が横について一緒に整理する。
支店長も次長も、今日は朝からロビーに立っていた。
少し離れたところで、客の流れと窓口の動きを黙って見ている。
「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか」
政雄は、列の先頭に近い男性に声をかけた。
「あ、ええと、振り込みを三件と、あと現金を少しおろしたいんですけど」
「かしこまりました。振り込みは用紙にご記入済みでしょうか」
「いえ、まだで」
「では、こちらの記載台でご記入をお願いできますか。書き方がご不明でしたら、お手伝いします」
男性を記載台へ案内し、必要な欄を示す。
そのあいだに、次の人に声をかける。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「年金の受け取りの確認なんだけどねえ」
「では、通帳とご印鑑をお預かりしてもよろしいでしょうか。こちらでお調べしてお返しいたします」
通帳を受け取り、窓口のほうへ回す。
窓口の列に並び直してもらわずに済む用事は、できるだけその場で切り分けていく。
(入口のところで、どれだけほぐせるかだな)
ロビーの奥では、受付の女性が、新しく来た客に「お預金でしたら、こちらの列へ」「お振込はこちらへ」と声をかけている。
政雄は、そのもう一歩手前に、小さな「振り分け口」を作るつもりで動いていた。
九時四十五分を過ぎるころには、入口からの列はドアのほうまで伸びていた。
それでも、窓口ごとの列の進み方は、いつもよりいくらか早い。
「山本さん、こっちは通帳記入だけだから、ロビーでお返ししてください」
「はい」
窓口から渡された通帳を持って、椅子に座っている年配の女性に声をかける。
「お待たせいたしました。記帳はすべて終わっております。こちらで大丈夫です」
「あら、もういいの?」
「はい。今日は混み合っておりますので、通帳だけのお客様は、先にこちらでお返ししています」
女性がほっとしたように通帳を受け取る。
こうした細かい受け渡しをロビーで済ませることで、窓口の前から人を少しずつ減らしていく。
(あとは、どこが次の問題点になるかだな)
入口の列、受付の前、ロビーの椅子、各窓口の前。
人の流れを一通り目で追いながら、山本は自分なりに「次の問題点」の当たりをつけていった。
ゴトウビの午前中は、まだ始まったばかりだった。
*
十時を回るころには、ロビーの空気が少し重くなってきた。
入口から入ってくる人のペースが落ちない。通りの向こうからこちらを見て、少し迷ってからドアに向かってくる姿が、何度も繰り返される。
ロビー中央の椅子はほとんど埋まり、立って待つ客の輪がじわじわ広がっていった。
(そろそろ山場だな)
政雄は「お手続きのご相談」の札が出ている机の前に立ち、入口の列と窓口の前を交互に見た。
ロビーの隅には、現金自動支払機が二台並んでいる。その横に、預払い両用機が一台。
どれも空いている。待っているのは、ほとんどが窓口の前だった。
「お引き出しだけのお客様は、こちらの機械もご利用いただけます」
政雄は声を少し張って、入口近くの客に向けて案内した。
「現金のお引き出しだけでしたら、あちらの二台が早くお済みになります」
指さした先のCDに、数人が「そうか」という顔をして向かっていく。
それでも、まだロビーの真ん中には人のかたまりが残っていた。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
列の途中にいる中年の男性に声をかける。
「売上の入金なんだけどね。それと、この通帳の記帳もしておきたい」
「ご入金と記帳でしたら、こちらの預払機で一度にできます。操作がお分かりになりにくければ、ご一緒しますが」
「ああ、一緒に見てもらえるなら」
「では、こちらへどうぞ」
政雄は男性を機械の前まで案内し、画面の前に立ってボタンの位置を示した。
「まず、この預け入れのボタンを押していただいて、通帳をこちらに──そうです」
隣のCDの前では、別の客が戸惑って立っている。
事務課の女性が一人、そちらに回って操作を手伝っていた。
ロビー中央に戻ると、「お手続きのご相談」の机の前にも、短い列ができていた。
「おまたせしました。本日はどのようなご用件でしょうか」
「この口座から、この口座へお金を移したいんだけど」
年配の女性が、通帳を二冊差し出す。
「お振り替えですね。こちらで伝票をご記入いただいてから、窓口へお出しいただきます。ご記入はご一緒に進めますので、こちらにお掛けください」
椅子に座ってもらい、振替伝票を渡す。
その横を、封筒を持った作業着姿の男性が足早に通り過ぎた。
「すみません、お振り込みでしょうか」
「ああ、そう。三件あるんだけど、急いでてね」
「かしこまりました。まだ用紙にお書きになっていなければ、こちらの記載台で記入していただくと、窓口でのお時間が短くなります。よろしければ、口座番号と金額をうかがいながらご一緒に書きますが」
「じゃあ、頼むよ」
記載台の前に立ち、男性と並んで用紙を埋めていく。そのあいだも、入口のドアが開く音が途切れなかった。
(少しずつほぐせてはいるけど、それでも追いつかないな)
十一時近くになると、ロビーの入口から出口まで、人の列がほとんど途切れなくつながった。
窓口の中では、事務課の面々が、書類の束をさばきながら顔だけこちらに向ける。
支店長と次長は、少し離れた場所から全体の動きを見ていた。
「売上の入金とお引き出しのお客様、もしよろしければ、こちらの機械をご利用ください。通帳の記帳も一緒にできます」
政雄は、ATMのほうを示しながら、もう一度声を張った。
それを聞いて、二、三人が列を離れて機械の前に移動する。
機械の前に人が立つようになると、今度はそこが新しい小さな列になった。
(ここも、誰かが張り付かないと詰まるな)
政雄は一歩だけ位置を変え、「相談机」と「機械の列」の両方を視界に入る場所に立った。
相談机の前で用紙を渡しながら、横目で機械の画面をちらりと見る。
操作に迷っている客がいれば、途中で声をかけに行く。
ロビーのざわめきは、完全に消えることはない。
それでも、十一時を少し過ぎたころから、入口の列はわずかに短くなり始めた。
(なんとか、午前中はこのまま持たせるしかないか)
政雄は額の汗を指先で拭いながら、入口と窓口の間で足を止めないように動き続けた。




