第53話 動き出したカラオケBOX
八月の頭、佐野さんのカラオケボックスの融資契約は、予定どおり支店の応接室で行われた。
借入契約書と根抵当権設定契約書に、借り手と銀行の印が次々と押されていく。
あとは、約束どおりに返してもらえるかどうかだけだ。
カラオケの案件が一段落したころ、営業フロア全体は、目に見えて浮き足立っていた。
円高不況だ景気の腰折れだと新聞は書いているのに、駅前の現場はその逆を行っている。
古いビルが次々に建て替えられ、地下には新しい飲食店が入り、上にはオフィスやマンションが乗る。
土地の値段は、気づけばじわじわと上がり続けていた。
窓口の向こう側には、いつも誰かが相談に来ている。
住宅ローン、マンション購入資金、投資用ワンルーム、テナントの保証金。
日本銀行が公定歩合を戦後最低水準まで下げたことで、市場の金利も落ち着き、銀行の貸出姿勢は目に見えて積極的になっていた。
支店としても、「せっかくの内需拡大の流れに乗り遅れるな」という空気がある。
その空気は、営業フロアのあちこちに、目に見えない熱気として漂っていた。
「今月も、これで目標クリアだな」
隣の机で、先輩の営業が満足そうにハンコをしまった。
手元の案件表には、住宅ローンや不動産担保の事業資金がびっしりと並んでいる。
「駅前のあのビル、また一棟いったのか」
「そうそう。テナントもすぐ埋まるって話だしな。担保もがっちりだ」
「そりゃあ、土地さえ押さえときゃ、何とかなるだろ」
冗談まじりの声が、フロアのあちこちから聞こえてくる。
土地関連融資は、すでに銀行全体としても大きく伸びていた。
都心部の地価が上がり続けるなかで、「不動産担保さえあれば、そうそう焦げ付かない」という空気が、どこかにある。
もちろん、誰も口には出さない。
それでも、「今のうちに貸しておけ」という無言の圧力のようなものは、確かにあった。
(正直、危ないな)
他人の机の上を横目で見ながら、政雄は心の中でつぶやいた。
返済の原資が、事業のキャッシュフローではなく、地価の上昇や転売益に依存している案件。
借り手の手元資金が薄く、自己資本よりも借入が膨らんでいる案件。
担保評価だけを頼りに、実質的には「地面に貸している」ような案件。
どれも、書類の上では筋が通っている。
過去の数値だけを見れば、格好の「稼ぎ頭」だ。
しかし、前の人生でバブル崩壊後のニュースをいくつも見てきた政雄には、別の景色が見えた。
(五年先を考えたときに、このまま増やしていい案件かどうか)
自分の担当分については、そこだけは崩さないと決めていた。
通常の事業資金や設備資金、住宅ローンについては、基本的に堅めのラインを守る。
返済原資が読めない話には、筋の通るところまで条件を絞り込むか、それでも無理なら断る。
一方で、前世の記憶の中で「これから伸びる」と分かっている分野については、話があれば積極的に聞きに行った。
コンピュータ関連、通信機器、ソフトウェア、郊外型のチェーン店、新しい形のレジャー施設。
まだ世間では「得体の知れない新しい商売」として見られているものほど、政雄にとっては、むしろ目が離せない対象だった。
(全部に乗るつもりはない)
(ただ、時代の流れとして本当に変わっていくところには、できるだけ早いうちから関わっておきたい)
そんなふうに動いているうちに、支店の中で、ある種の「噂」が自然と立ち始めた。
都銀としては、正直、あまり前例のない種類の相談が、少しずつ政雄のもとに集まっていく。
どれも、将来性はありそうだが、うかつに「いいですね」とは言えないものばかりだ。
帳簿上は黒字でも、資金繰りが綱渡りのもの。
アイデアだけは立派だが、具体的な数字がついてこないもの。
設備投資に偏り過ぎて、人件費や宣伝費の見積もりが甘いもの。
(ここを間違えると、貸したあとで苦しくなる)
政雄は、一件一件、前世の記憶と目の前の数字を照らし合わせながら、慎重に仕分けていった。
*
政雄の机の上に、少しずつ「変わり種」の案件が増え始めたのは、そのころからだった。
「山本、この話、ちょっと見てみてくれないか」
ある日、年次の離れた先輩が、資料の束を持ってきた。
「ボウリング場の改装なんだけどな。テナント料の話も絡んでて、少しややこしい」
「ボウリング場、ですか」
受け取った決算書には、レーン数の多い郊外型の施設の数字が並んでいた。
売上は、ここ数年でじわじわと落ち込んでいる。
それでも、まだ赤字というほどではない。
「レーンをいくつか潰して、その半分をゲームコーナーにしたいらしい。あとは軽食とドリンクを出せるスペースも作って、家族連れを増やしたいってさ」
資料の中の計画書には、古いボウリング場の片側を仕切り直し、ビデオゲームやクレーンゲームを並べた図面が描かれていた。
飲食スペースでは、簡単なフードメニューとソフトドリンク、ビールを出すつもりだという。
(ボウリング場+ゲームセンター+軽食)
前の人生で、何度か見かけた形だ。
ボウリング人口が頭打ちになったあと、ゲームやファミリー向けの飲食で延命を図る施設は、決して少なくなかった。
ただ、それで長く続けられたところは、そう多くない。
(地代と減価償却をどこまで落とせるか)
(ゲーム機の入れ替えと飲食の原価を見誤ると、一気に苦しくなる)
政雄は、数字を追いながら、メモ帳の端にいくつかの注意点を書き込んでいった。
「すぐにどうこう、という話ではないと思います。改装の規模を少し絞って、ゲームの割合を抑えた形で、もう一度計画を出してもらえませんか」
「やっぱりそう思うか」
先輩は、頭をかいた。
「上からは、『時代の流れに乗れ』って言われるんだけどな」
「乗るにしても、足元が抜けないようにしないといけませんから」
別の日には、別の先輩が、年季の入った帳簿を持ってきた。
「こっちは銭湯の話だ」
「銭湯……」
「親父さんがやってた風呂屋を引き継いだんだけど、このままだとじり貧だから、何とかしたいってさ」
資料の写真には、煙突のついた昔ながらの銭湯が写っていた。
ただ、持ち主の計画書には、その上に少し変わったイメージが付け足されている。
「休憩室を広げて、飲食ができるようにしたいらしい。それと、普通の湯船だけじゃなくて、薬草風呂とか電気風呂とか、いくつか変わった風呂を増やすってさ」
(……スーパー銭湯の原型みたいな話か)
前の人生では、郊外に大型のスーパー銭湯がいくつもでき、休日の家族連れでにぎわっていた。
今の時点では、まだそうした業態は一般的ではない。
だからこそ、うまく形にできれば、先行者になれる可能性もある。
ただ、飲食の衛生や人件費、浴槽の入れ替えにかかるコストを見誤れば、一気に重荷になる。
「お客様のエリアは、住宅街の真ん中ですよね」
「そうだな」
「駐車場は、今のままだと足りないと思います。飲食を増やすなら、車で来るお客さんが確実に増えますから」
「たしかに」
「それと、風呂を増やすと、水道光熱費が一気に上がります。追加でどれくらいかかるかを、もう少し細かく出してもらわないと、返済のメドが立てづらいです」
「やっぱり、そう簡単じゃないか」
「でも、発想自体は悪くないと思います」
政雄は正直に言った。
「ただ、やるなら中途半端に一つ二つ追加するより、しっかり『ここに行けば一日いられる』くらいまで作り込んだほうがいい。そこまで腹をくくれるかどうか、もう一度聞いていただけますか」
「分かった」
先輩は、少しだけうれしそうに笑った。
「お前、そういう話になると、急に目が変わるな」
さらに別の日には、まだ若い個人事業主の相談も持ち込まれた。
「パソコンの周辺機器を扱う店をやりたいんです」
そう言ってきたのは、地元の電器店で働いているという三十代前半の男性だった。
資料には、当時まだ新しかったパソコン本体とプリンタ、ディスプレイ、周辺機器の写真が並んでいる。
「今は家電量販店の片隅に置いてあるだけですけど、そのうちパソコンだけで一軒分の店が成り立つくらいになると思うんです」
(それは、そのとおりだ)
前の人生で見てきた光景が、頭の中でよみがえる。
秋葉原や地方都市の電気街に並ぶ、パソコンショップの看板。
周辺機器やソフトを求めて、学生や若い会社員が行き来する通り。
(ただ、今の時点でどこまで先行しても、客のほうが追いついてこない可能性もある)
「最初は、既存の電器店の一角から始めるおつもりですか」
「はい。オーナーとは話がついてます。ただ、在庫をそろえるのに、ある程度まとまった資金が必要で」
「なるほど」
政雄は、売上計画のページをめくりながら、頭の中で線を引いた。
「この分野は、今後十年くらいの伸びを考えれば、悪くないと思います。ただ、最初から周辺機器だけに絞ると、客数が読みにくい。パソコン教室や、簡単なサポートサービスを一緒にやる余地はありませんか」
「教室、ですか」
「はい。最初は『機械を買ったはいいが、使い方が分からない』というお客様も多いはずです。そういう人たちが通える場所があれば、店としても固定の売上が立ちますし、次の買い替えのときにまた来てくれます」
「……なるほど」
男性は、真剣な表情でうなずいた。
「そのあたりも含めて、もう一度計画を練り直してみます」
最後に、少し毛色の違う相談もあった。
「会社を辞めて、コンサルティングの会社を始めたいんです」
元サラリーマンの四十代半ばの男性は、自分の経歴を一枚の紙にまとめてきていた。
有名企業での企画経験、海外赴任の実績、人脈。
経歴だけ見れば、確かに立派だ。
「仕事内容としては、中小企業の経営改善や、新規事業の企画支援を考えています」
「お客様は、どうやって集めるおつもりですか」
「……そこは、まだこれからで」
男性は、少しだけ視線をそらした。
「前の会社のツテもありますし、名刺を頼りに一軒ずつ回っていけば、何とか……」
(危ないな)
政雄は、心の中でこれでは失敗すると判断した。
相談そのものを否定するわけではない。
ただ、「コンサルティング」という看板だけで仕事が途切れず続くほど、世の中は甘くないことも知っている。
(一発当たれば大きいが、そのあとが続かないことが多い)
(一回きりのスポットの仕事ばかりでは、安定した返済原資にならない)
「失礼ですが」
政雄は、言葉を選びながら口を開いた。
「三年分くらいの売上と費用の見通しを、もう少し具体的な形で作っていただけますか。『誰に』『どんなメニューを』『いくらで』『年間何件』というところまで落としていただきたいんです」
「そこまで、ですか」
「はい。コンサルティングのような仕事は、内容と集客力で決まります。そこがあいまいなままだと、どうしても一発屋になりがちです」
男性は、しばらく黙り込み、それから小さくうなずいた。
「分かりました。もう一度、自分でも詰めてみます」
そう言って席を立つ背中を見送りながら、政雄は胸の中で、いくつかの目印を立てていった。
(簡単には乗れない話だけど、完全に切り捨てるのも違う)
(時代の端っこで、何かが変わり始めている)
好景気の波に乗って、支店全体の数字は順調に伸びている。
その中で、少し先の形を探るような案件が、静自分のところに集まりつつあった。
*
九月に入ると、駅前のビルの出入口に、内装業者のトラックが止まるようになった。
エレベーターの横には、「四・五階テナント工事中」の貼り紙が出ている。
昼間は、四階と五階の窓に養生シートがかかって、中の様子は分からない。
仕事で近くまで来たとき、政雄はエレベーターホールの前まで足を運んだ。
四階のボタンの横には、仮の紙札で店名が貼られている。
扉が開くと、奥から金槌と電動工具の音が響いた。
シートの向こうは、まだ骨組みと配線だけの空間だ。
(図面で見ていた箱が、ようやく本当の箱になる)
十月の終わりごろには、四階と五階の窓ごしに、貼り終えた壁紙と取り付け途中の照明が見え始めた。
ビルの入口横にあるテナント案内板には、「四・五階 カラオケボックス(開店準備中)」の小さな札が増えている。
十一月の中旬、帰りに駅前を歩いていると、そのビルの側面に新しいネオン看板が灯っていた。
白地に太い文字で、カラオケボックスの店名が浮かんでいる。
(間に合ったか)
年末の繁忙期を前に、ぎりぎりのタイミングだ。
オープン初日の夜、四階行きのエレベーター前には、会社帰りらしいグループが何組か立っていた。
売上までは分からない。
ただ、「誰も来ないまま」ではないことに、政雄は少しだけほっとした。
*
カラオケのネオンが灯り始めたころ、家のほうでも話が進んだ。
姉の結婚が、来年の春に正式に決まった。
姉の仕事の都合で、学校が春休みの時期に式を挙げる。式と新婚旅行をまとめて休めるのが、その期間しかなかった。
すでに公団の中階層向け団地への応募も、田村さんがしていた。
場所は、自宅から車で二十分ほどのところだ。
結果の封筒を持って、田村さんが仕事帰りに立ち寄り、姉に中身を見せた。
「当たった」
姉がそう言って顔を上げる。
紙には、入居予定の棟と階数が印字されていた。
母は、それを見て小さく笑った。
「近くてよかったね」
それからの姉は、忙しそうで、どこか楽しそうだった。
年内に先に引っ越す田村さんを手伝いに、よく団地まで通っている。
カーテンを見に行き、家具の配置を考え、台所まわりの収納を一緒に見て回る。
夕飯の席で、その日のことを少し話す姉の顔は、前よりよく笑っていた。
(来春には、姉はこの家から出ていく)
そのことを、はっきり意識した。
思い返せば、この世界に転移して最初に出会った人が、十三歳の見知らぬ姉だった。
あの日、食後のスイカをうれしそうに頬張る横顔を見て、「孫みたいでかわいい」と思った。
あれから十五年たって、その姉が結婚して出ていく。
姉には幸せになってもらいたいと思っている。




