第52話 新たな時代への序章
数日後の午後、政雄はふたたび「佐野食堂」のテーブル席に座っていた。
前と同じように、客のいない仕込みの時間帯だ。
テーブルの上には、支店でまとめた条件を書いた書類が置かれている。
「お待たせしました」
奥の厨房から、佐野が手を拭きながら出てきた。
「今日は、条件を聞かせてもらえるってことで」
「はい。うちとして、お手伝いできる範囲がまとまりました」
政雄は、ファイルをテーブルの中央に置いた。
「まず、結論から申し上げます」
「お願いします」
「ご希望は、内装工事なども含めて一億二千万円ということでしたが、銀行からお貸しできるのは、八千万円までです」
佐野さんの指先が、ほんのわずかに動いた。
それでも、すぐに「はい」と返事が返ってくる。
「返済期間は七年。元利均等で、月々の返済は百二十万弱です。金利は、今の標準的な水準になります」
「七年で、月百二十万……」
佐野さんは、数字を口の中で繰り返した。
「担保と保証人については、以前お預かりした資料のとおりです。実家の土地と建物の持分に根抵当を設定させていただくこと。それと、弟さんに連帯保証人に入っていただくことになります」
「分かりました」
佐野さんは、書類に目を落としたまま、ゆっくりとうなずいた。
「こちらからお願いしておいて何ですが、満額というわけにはいかないだろうとは、正直思っていました」
「ご希望どおりにお出しできないのは、申し訳ありません」
「いえ」
佐野さんは、顔を上げた。
「八千まで見てもらえるなら、ありがたい話です。あとは、こっちで何とかしますよ」
「自己資金と、既存店のほうの利益で、残りを埋めるお考えですか」
「そうですね。保証金については、何とか工面がつきそうです。内装のほうは、業者ともう一回相談して、削れるところは削る」
佐野さんは、フロア図のページを開き、ペン先でいくつかの部屋をなぞった。
「当初は、二十室近く作れないかと考えていましたけど、十五室前後に抑えたほうが、今の金額には合うでしょうね」
「部屋数を絞る、ということですか」
「ええ。そのぶん一室あたりを少し広めにして、回転率を上げる方向で考えます。あと、内装は、正直、最初に考えていたほど派手にはできませんね」
苦笑いが混じった。
「好景気だ何だって言って、みんなキラキラした店を作りたがってますけど、そこは一歩引きます。必要なのは、防音と機械と、最低限の居心地のよさだけですから」
政雄は、その言葉に内心でうなずいた。
(派手な内装にお金をかけ始めたら、キリがない)
(防音と機材にきちんとお金を回すほうが、長い目で見れば正しい)
「既存店のほうは、どうされるおつもりですか」
「三軒あるうちの一つは、いずれ畳むつもりでいます。人とお金を新しい店に回さないと、中途半端になりますから」
「そうですか」
「自分としては、このカラオケの店を、ここ数年の勝負どころだと思ってますから」
佐野さんは、そう言ってから、ふっと笑った。
「でもまあ、銀行さんには、『勝負どころ』なんて言っても仕方ないですよね。数字で返せるかどうかだけですから」
「そうとも限りません」
気づくと、言葉が少し前に出ていた。
「数字で見える部分は、もちろん大事です。ただ、この業態については、時代の流れとして、広がっていく要素が多いと思っています」
「時代の流れ、ですか」
「今年の春から男女雇用機会均等法が本格的に動き始めていて、女性の働き方も少しずつ変わってきています。今までのように、『会社帰りは男性がスナックで飲んで歌う』という形だけではなくなっていくはずです」
「なるほどねえ」
「若い女性や学生でも入りやすい場所が必要になる。その意味で、『部屋をたくさん持っている店』は、これからの流れに合っていると思うんです」
言いながら、前の人生で見てきた光景が頭をよぎる。
会社帰りに、男女混ざったグループがカラオケボックスに流れていく。
休日の昼間に、学生やバンド仲間が部屋を予約して入っていく。
「ですから、うちとしても、数字の上で無理のない範囲であれば、こうした新しい業態にお付き合いしておきたいと考えました」
「銀行さんが、そこまで言ってくれるなら心強いです」
佐野さんの表情が、少しだけ明るくなった。
「ただ」
政雄は、そこで言葉を足した。
「この業態そのものは広がると思っていますが、『どの店が残るか』までは分かりません。だからこそ、できる範囲で、こちらからも考えられることはお伝えしたいと思っています」
「考えられること?」
「はい。財務の話だけではなくて、運営の面でも。生意気かもしれませんが」
「ほう、聞かせてください」
佐野さんは、身を乗り出した。
「若い人の意見ってのは、なかなか手に入りませんからね」
「ありがとうございます」
政雄は、フロア図のページをもう一度開いた。
四角く区切られた十五の箱を、頭の中で並べ替える。
(昼と夜で、使い方を変えられないか)
前世のカラオケボックスだけでなく、自分が今世でかじったバンド活動の記憶が、そこに重なった。
「例えば、なんですが」
政雄は、一つの部屋を指で示した。
「このあたりに、一つだけ、少し大きめの部屋を用意しておく、というのは、どうでしょうか」
「大きめ?」
「他よりも、少し広く取る。昼の時間帯は、そこをバンドの練習にも貸す。夜は、衝立か何かで機材を隠してしまって、普通のカラオケの大部屋として使う」
佐野さんが、目を瞬かせた。
「バンド、ねえ」
「昼間は、どうしてもアルコールが出にくい時間帯になります。客層を工夫しないと、部屋が空いてしまう時間が多くなるはずです」
政雄は、自分が学生のころに練習場所に困った事を思い出した。
「バンド向けのスタジオは、まだ数が多くありません。駅近くで、ドラムとアンプがあって、時間貸しで入れる部屋が一つでもあれば、学生や社会人バンドが昼間に使ってくれる可能性があります」
「ふむ」
「夜になったら、機材を壁際に寄せて、衝立で隠してしまえば、大人数用のカラオケ部屋として使えます。二次会や貸し切りにも使えるはずです」
佐野さんは、フロア図の一角をじっと見つめた。
「面白いですね。それは、銀行さんじゃなくて、山本さん個人のアイデア?」
「そうですね……。前に、少しだけバンドをかじっていたことがあるので、そのときの感覚も混ざってます」
「なるほど」
佐野さんは、声を立てて笑った。
「そっちのほうも、もっと早く聞いておけばよかったなあ」
「いえ、あくまで一つの案です。防音や床の強度の問題もありますし、内装業者さんと相談してみてください」
「うん。そこはこっちで詰めます」
佐野さんは、ペンを取り、「大部屋(バンド可)」と小さく書き込んだ。
「ほかには、何かありますか」
「将来の話として、もう一つだけ」
政雄は、少しだけ言い方を選んだ。
「部屋の中だけで使ってもらう、小物やカツラなんかを、有料で貸し出すこともいずれは考えられると思います」
「小物?」
「アニメみたいな髪型になれるカツラや衣装とか、派手な帽子とか、ハッピやサングラスみたいなものです。忘年会や二次会のときに、ああいうのがあると、それだけで盛り上がりますから」
「ははあ」
佐野さんは、頬をゆるめた。
「たしかに、うちの常連も、カウンターでそういうことをやりたがる人はいますね」
「衣装やカツラを付けた姿で、最後に一枚、有料で記念写真を撮る。そんなサービスも、宴会のグループには悪くないはずです」
「なるほどねえ……」
佐野さんは、腕を組んだ。
「さすがに、最初からそこまで全部は手が回らないかもしれませんけど、頭には入れておきますよ」
「はい。今すぐではなくて、軌道に乗ってきたころに、少しずつ試していく感じでいいと思います」
(将来的には、時間と飲み物をセットにした“飲み放題”みたいなパックもあり得る。今ここで言うと、さすがに飛ばしすぎか)
「新しい店なのに、考えることが山ほどですね」
そう言いながらも、佐野の声には、どこか楽しそうな色が混じっていた。
「財務の話だけでなく、こういう使い方まで一緒に考えてくれる銀行員さんは、正直あまりいませんよ」
「銀行としてお手伝いできる範囲は限られますが」
政雄は、少しだけ肩の力を抜いた。
「この案件については、できるだけのことをしたいと思っています」
カラオケボックスという業態が、この先どこまで広がるかは、前の人生で知っている。
ただ、佐野さんの店がその中で勝ち残れるかどうかは、ここから先の工夫次第だ。
(せめて、スタートの段階で、できるだけの後押しはしておきたい)
*
佐野食堂を出て、支店に戻ったころには、窓の外の光が少し傾きかけていた。
営業フロアに入る前に、政雄は係長の席に向かった。
「先方の反応はどうだった」
「八千万円、七年での返済という条件で、受ける意向です」
政雄は、さきほどのメモを差し出した。
「部屋数は、当初案より絞って十五室前後。内装は、防音と機材を優先して、派手な部分は削る方向で内装業者と再検討されるそうです」
「そうか」
係長は、メモをざっと目で追った。
「既存店の整理は」
「三軒のうち一軒は、いずれ畳んで、人とお金を新しい店に回すお考えです」
「腹は決めてるわけだな」
係長は、いったん椅子にもたれた。
「よし。じゃあ、こっちは契約の段取りに入るか」
「はい」
「担保のほうは、前に預かった登記の写しで大筋は見えてる。根抵当の設定金額は、稟議どおりでいいな」
「はい。借入限度額八千万円、極度額はそれに少し余裕を持たせる形で」
「保証人の弟さんにも、早めに一度、支店に来てもらわないといかんな」
「印鑑証明と、実印も合わせてお持ちいただくようにお伝えします」
係長は頷き、机の端に積んである書類の山から、契約関係のチェックリストを一枚抜き出した。
「じゃあ、これの佐野さんのところと、保証人のところを埋めておいてくれ。あとで課長の印をもらって、支店長にも日程の相談をする」
「分かりました」
政雄は、自分の席に戻ると、ボールペンを取り、チェックリストの空欄を一つずつ埋めていった。
借入人名、住所、借入金額、返済期間、返済方法。
根抵当の設定先、担保物件の所在地と評価額。
連帯保証人の氏名と続柄。
同じような紙を、これまでにも何枚も書いてきた。
いつもなら、ただの「事務の続き」に過ぎない。
それでも、今回は、書き込むたびに、紙の重さが少しずつ増していくような気がした。
(ここに書いた数字と名前が、一つの店の形になる)
(返済が順調に進めば、「上手くいった案件」として残る)
(つまずけば、「山本が押した案件」として、記録のどこかに残る)
頭では分かっていたことが、紙の上に並んだ文字となって、ようやくじわりと実感になってきた。
チェックリストを係長のところに持って行くと、係長はざっと目を通し、ハンコを押した。
「じゃあ、これを持って課長のところへ行け」
「はい」
営業課長の席では、すでにその日の決裁書類が何枚も積み上がっていた。
「佐野さんのカラオケの件です」
政雄がチェックリストと稟議書を揃えて差し出すと、課長は眼鏡を押し上げて、ゆっくりと目を通した。
「条件どおりで、先方も了承、か」
「はい。部屋数と内装を調整することで、八千万円の枠に収めるお考えです」
「ふうん……」
課長は、ページを戻し、稟議書の表紙に視線を落とした。
そこには、すでに係長と自分の印が並んでいる。
課長は、迷いなく判を取り、横に自分の名字を重ねた。
「支店長にもっていってくれ」
「はい、ありがとうございます」
支店長室の扉をノックすると、短い返事が返ってきた。
「失礼します。営業課の山本です」
「おう、カラオケの件だな」
支店長は、机の上の書類の一番上を空け、政雄が差し出した稟議書を受け取った。
「先方の意向はどうだ」
「八千万円、七年、元利均等での返済という条件で、受けるお考えです。部屋数は十五室前後に絞り、防音と機材を優先して、内装費を抑える方向で再検討されます」
「そうか」
支店長は、ゆっくりと稟議書をめくった。
数字、担保、保証。そのどれもが、すでに一度はこの部屋で検討されたものだ。
ページを戻して、表紙に視線が戻る。
「ここまで来たら、もう後には引けんからな」
支店長は、軽く笑ってから、判を手に取った。
「営業課としては、金額を絞ったうえで前向きに、ということだったな」
「はい」
「よし」
朱肉を含ませた印が、稟議書の右上に、はっきりと跡を残した。
「この案件は、支店として進める。契約の日程調整と、担保設定の段取りを頼む」
「かしこまりました。ありがとうございます」
部屋を下がりながら、政雄は、一度だけ稟議書の表紙を振り返った。
そこには、係長、課長、支店長の名字が、朱色の印として並んでいた。
(これでもう、この話は「山本の思いつき」じゃない)
(支店としての判断になった)
営業フロアに戻ると、係長が目で「どうだった」と聞いてきた。
「決裁いただきました。契約に進め、とのことです」
「よし」
係長は、ほっとしたように息を吐き、机の端を手でたたいた。
「じゃあ、借入契約と根抵当の設定、それから保証人関係の書類を準備しよう。佐野さんのところには、お前から電話して、契約の候補日を聞いておいてくれ」
「はい」
自分の席に戻り、受話器を取る。
佐野食堂の番号を押すと、コール音のあとで、あの落ち着いた声が出た。
「はい、佐野です」
「いつもお世話になっております。双葉銀行の山本です」
「ああ、山本さん。どうでした」
「支店の決裁が取れました。これから契約の準備に入らせていただきます。そこで、借入契約と担保設定のために、お時間を頂きたいのですが……」
いくつかの日付と時間を挙げ、佐野の都合とすり合わせていく。
店の休みの日、昼の仕込み前、保証人の弟も支店に来やすい時間帯。
それらを一つ一つ確認し、メモに書き込んだ。
「それでは、○月○日の午前十時に、借入契約と担保設定のご説明とお手続きをさせていただきます。弟さんにも、印鑑証明と実印をご用意のうえ、ご同席いただけますようお伝えください」
「分かりました。こちらでもきちんと伝えておきます」
「よろしくお願いいたします」
受話器を置き、手帳を開く。
指定した日付の欄に、「佐野様 借入契約・根抵当設定」と書き込んだ。
黒いインクが、紙の上に細い線を残す。
(ここまでは、銀行の仕事としての「約束」を形にしただけだ)
(ここから先は、この約束どおりに返せるかどうか、店のほうの勝負になる)
席に座ったまま、政雄はふと、自分のメモ帳の端に書きつけた走り書きを思い出した。
バンド可の大部屋。
カツラや小物の有料貸し出し。
コスプレ姿の有料記念写真。
そして、その下に小さく書かれた一行。
(時間と飲み物をまとめた“飲み放題”みたいなパック料金)
そこまでいくと、さすがに今はまだやり過ぎかもしれない。
そう思って、佐野には口には出さなかった。
それでも、いつかどこかで、そういう形の店が出てくることだけは分かっている。
(カラオケボックスという箱そのものは、きっと残る)
(問題は、その中で、誰の店が残るかだ)
その一つに、自分が最初に関わったこの店が入るかどうか。
銀行員としては、そこまで踏み込んで願い事をする立場ではない。
それでも、心のどこかで「うまくいってほしい」と思ってしまう自分がいた。
「おい、山本」
係長の声が、考え事を中断させた。
「書類の準備ができたら、控えもちゃんと取っておけよ。あとで数字を追うときに、最初の条件がどうだったか分からなくなるからな」
「はい。控えは別ファイルでまとめておきます」
「そうだ。それと」
係長は、少しだけいたずらっぽい目つきになった。
「バンドも入れる大部屋の話、あれはどこまで本気だ」
「昼の空き時間を埋めるには、一つのやり方だと思います」
「お前、本当に銀行員なのか、って言いたくなるな」
係長は、肩をすくめた。
「まあいい。どうせやるなら、そこまで考えるのも悪くないかもな」
「ありがとうございます」
ファイルの背表紙を指先でなぞりながら、政雄は小さく息を吐いた。
(貸した以上は、数字で答えを出すしかない)
(そのうえで、できる限りの工夫は、一緒に考えていく)
カラオケボックスのことを考える時間が、少しずつ「銀行の仕事」の一部になりつつあるのを感じる。
バブルという大波が近づきつつある、この大波をどう乗り切るのか政雄は思案する。




