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第51話 バブル前夜 女性の社会進出と好景気

週明けの午前、営業課の奥にある小さな打ち合わせスペースで、政雄はファイルを二冊並べていた。

テーブルの向かい側には、営業課の係長が座っている。


「それで、例の新規案件というのは、これか」


「はい」


政雄は、上に置いたほうのファイルを指で押さえた。


「駅から徒歩三分のテナントビル四階・五階を一括で借りて、カラオケ用の小部屋を作る計画です。部屋数は二十室程度。内装工事と機械のリースを含めた設備資金のご相談になります」


係長は、表紙をめくった。


「カラオケボックス、か」


「まだその言い方が一般的かどうかは分かりませんが、業態としてはそうなります」


「うちの支店長の耳に入れると、『風営法は大丈夫なのか』とか『近所の目は』とか、いろいろ言われそうなやつだな」


軽く冗談めかした口ぶりだが、視線は真面目だ。


「まずは数字を見てください」


政雄は、事業計画のページを開いた。


「一フロア六十坪強を、八〜十室に区切ります。二フロアで二十室程度。夜の一時間単価を二千円台前半、昼は千円台に設定しています」


部屋数と単価を示しながら、横に書かれた計算をたどる。


「一室あたり、一晩四時間から五時間使ってもらえれば、このくらいの売上になります。稼働率七割を前提にすると、月次でこうです」


「ふうん」


係長は、売上と費用の表を目で追った。


「家賃、人件費、光熱費、機械のリース料、それと返済予定額がここか」


「はい。既存店の一部を閉めて人を回す前提で、人件費はやや多めに置いています。家賃は、ビルオーナーとの条件どおり。内装工事費は見積書どおりです」


「……ギリギリだな」


係長が、返済後の残りの欄を指で押さえた。


「稼働率が落ちたら、すぐにきつくなる」


「そこは、そのとおりです」


政雄は、うなずいた。


「ですから、借入金額は、ここに書いてある満額ではなく、少し絞る前提で考えています。自己資金と保証金で出せる分を最大限使って、足りないところだけをお貸しする形にしたい」


「担保と保証人は」


「こちらのファイルです」


もう一冊のファイルを開く。


「実家の土地と建物の持分が少しあります。郊外の住宅地ですが、評価額としてはこのくらい。全部を押さえられるわけではありませんが、本人の持分については根抵当で入れてもいいと言っています」


登記簿謄本のコピーと、政雄が作ったメモを示す。


「それから、弟さんが連帯保証人になる意向です。今は別の仕事をしながら、既存店も手伝っている人です」


「なるほどな」


係長は椅子にもたれ、しばらく黙って天井を見上げた。


「正直に言うとだな。業態としては、俺はまだよう分からん」


「そうですよね」


「ただ、担保と保証の形さえきちんと押さえておけば、銀行としては、最悪のケースでも致命傷にはならない。そこまでは分かる」


係長は、もう一度事業計画の数字に目を戻した。


「問題は、そこまでして、うちが乗る意味があるかどうか、だ」


「他行の動きについては、こちらに」


政雄は、メモを一枚取り出した。


「駅の反対側の都銀支店は、『業態がはっきりしない』『風営法との関係もある』ということで、現時点では見送り。同じエリアの地銀も、『様子を見ましょう』という判断です」


「要するに、みんな怖がってるわけだ」


「はい」


「で、お前はどうなんだ。正直なところ、これはやめておいたほうがいいと思うか、それとも──」


「──枠を決めて、お付き合いしたほうがいいと思います」


自分の声が、少しだけはっきり出たのが分かった。

係長が、意外そうに目を細める。


「珍しいな。お前がそこまで言い切るのは」


「普段は、無理のある計画は削る側だと、自分でも分かっています」


「パン屋のときもな」


係長の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「だからこそだ。どうしてここは前向きなんだ」


政雄は、一拍置いてから答えた。


「テナントビルの場所と、部屋数と、投資額を見て、この条件なら、十分に返せる可能性があると思いました。稼働率が予想より低ければ、そのときは追加で手を打つ必要がありますが、それでも、最初の一店舗としては現実的な線だと思います」


そこで言葉を切り、もう一つの理由を付け加える。


「それと……。地価は、これからしばらく上がり続けるはずです」


「ほう?」


係長の視線が、もう一度鋭くなった。


「駅前の再開発の話も出ています。実家の土地も、今の評価より下がる時代ではないと見ています」


「担保が目減りする心配は、当面は小さい、と」


「はい。最悪、事業が思ったほど伸びなかったとしても、担保と保証で、銀行として致命的な損にはなりにくいと思います」


係長は、指先で机をとんとんと叩いた。


「『最悪でも致命傷は避けられる』ってのは、上に話すときにはそこまで強く言い切れんが……。考え方としては分かる」


「支店としては、どこまでリスクを取るか、だと思います」


「そうだな」


係長は、深く息を吐いた。


「よし。まずは課内で一度、数字の確認をしよう。そのうえで、支店長に上げる。お前も同席しろ。自分の口で説明したほうが早い」


「はい」


ファイルの背表紙越しに、紙の重さが伝わってくる。


(貸さないで済ませるのは簡単だ)


(でも、それでこの人がノンバンクに行くなら、結局どこかで誰かが無理をすることになる)


そう思いながら、政雄はファイルを胸の前で軽く抱え直した。


      *


その日の夕方、営業課の奥の小会議室に、四人分の湯飲みが並んだ。

テーブルの向こう側には支店長、その隣に営業課長が座る。


手前側に、係長と政雄。

テーブルの中央には、クリアファイルが二冊重ねて置いてある。


「では、山本くん。簡単に説明してくれるかな」


支店長が、湯飲みを手に取りながら言った。


「はい」


政雄は、表紙をめくり、事業計画の一ページ目を支店長のほうへ向けた。


「駅から徒歩三分のテナントビル四階・五階を一括で借りて、カラオケ用の小部屋を二十室程作る計画です。内装工事と機械のリースを含めた設備資金について、相談を受けています」


「カラオケボックス、というやつかな」


「はい。今はまだ珍しい形だと思いますが、個室を時間貸しする業態です」


支店長は、フロア図を一通り見てから、視線を上げた。


「風営法との関係や、近隣の評判は大丈夫そうかな」


「営業形態については、今の段階では『飲食店営業+遊興』の枠で許可を取る想定です。お酒は出しますが、接客のつく店ではなく、あくまで『部屋を貸す』形です」


政雄は、事前に佐野から聞いた内容をかいつまんで説明した。


「騒音については、防音工事を前提にしています。ビルオーナー側も、上の階は事務所ではなく倉庫用途が多いので、そこは承知したうえで話を進めているとのことです」


「ふむ」


支店長は、曖昧な声を出した。


「業態としては、正直、私はあまり馴染みがないな。君たちはどうだ」


横に座る営業課長を見る。


「カラオケそのものは、スナックなどでよく使われていますが、部屋をたくさん並べる形は、まだこちらでは聞きませんね」


営業課長が答えた。


「郊外のほうでは、箱を置いているところがある、と聞いたことはありますが」


「そうか」


支店長は、もう一度資料に目を落とした。


「数字のほうは、どう見ている」


「そこは、私から説明します」


係長が、軽く手を挙げた。


「一フロア六十坪を八~十室に区切り、二フロアで二十室前後。夜の一時間単価を二千円台前半、昼は千円台。稼働率七割で売上を立てています」


係長は、売上と費用の表を指で追いながら、支店長に向けて話を続けた。


「家賃、人件費、光熱費、機械のリース、それと返済額を引いたうえで、月々の残りは、正直に言えば厚くはありません。ただ、借入金額を計画通り満額ではなく、こちらで抑える前提であれば、十分に返済可能な範囲だと見ています」


「抑える前提、というのは」


「自己資金と保証金で出せる部分を最大限使ってもらい、銀行からの借入は、内装費用の一部と、開業当初の運転資金に絞る形です」


「なるほど」


支店長は、返済後の残りの欄に目を走らせた。


「担保と保証は」


「それについては、山本から」


「はい」


政雄は、もう一冊のファイルを開いた。


「実家の土地と建物の持分が少しあります。郊外の住宅地ですが、現時点の評価額としては、このくらいです」


自分で作ったメモを添えて、登記簿のコピーに指を置く。


「全部を入れていただくわけにはいきませんが、ご本人の持分については、根抵当の設定に応じる意向です。それと、弟さんが連帯保証人になる予定です。現在は別の仕事をしながら、既存店の運営も手伝っておられます」


「ふむ」


支店長は、あごに手を当てた。


「担保としては決して厚くはないが、『全くない』というわけでもない、というところか」


「はい」


政雄は、うなずいた。


「加えて申し上げますと、駅前の再開発の話も出ているエリアですので、当面、地価が大きく下がる可能性は低いと見ています」


「地価の話か」


支店長の目が、少しだけ細くなった。


「この数年の動きを見ていると、駅前から順に、じわじわ上がってきています。ビルオーナー側も、今の条件以上に値下げするつもりはないようですし、郊外の住宅地についても、少なくとも『半値になる』ような局面ではありません」


政雄は、一度言葉を切ってから続けた。


「もちろん、将来のことを言い切ることはできません。ただ、現時点の担保評価と、これから数年の地価の動きを考えると、『担保が目減りして、貸出金が丸ごと焦げつく』ようなリスクは、かなり小さいと考えています」


「つまり、最悪の場合でも、銀行としては致命傷にはなりにくい、というわけだな」


支店長が、ゆっくりと言った。


「はい」


「ふうん」


支店長は、しばらく黙って資料をめくった。

事業計画の売上の欄、費用の欄、担保と保証のページ。

それから、閉じてテーブルの上に置いた。


「業態が新しいぶん、世間の目や風営法の扱いは、正直、私にも不安がある」


そう前置きしてから、支店長は続けた。


「ただ、数字の組み立て方と、担保の考え方については、筋は通っていると思う。無理な金額で押し込もうとしている話ではないな」


 営業課長が、横で小さくうなずいた。


「本部に上げるときには、『新業態の試験的な取り組み』として、金額を抑えめにしておいたほうがよいでしょうね」


「そうだな」


支店長は、ふたたび資料に手を置いた。


「山本くん」


「はい」


「君自身は、どう思っている。さっき係長からも聞いたが、改めて君の口から聞かせてほしい」


問いかけの目が、まっすぐこちらに向く。


「普段の君であれば、無理のある計画にはブレーキをかけるほうだと、私は見ている。それでも今回は、『枠を決めて貸したほうがいい』と」


「はい」


政雄は、一度息を整えてから、言葉を選んだ。


「背景から申し上げると、今年の春から男女雇用機会均等法が施行されて、女性の働き方が少しずつ変わり始めていると思います。今までのように、『会社帰りは男性がスナックで飲んで歌う』という形だけではなくなっていくはずです」


支店長が、わずかに眉を動かした。


「女性のほうも、仕事帰りに同僚同士で寄れる場所や、休日に友達と気軽に行ける場所を求めるようになる。今のスナックのカラオケは、正直に言えば、若い女性には入りづらいところが多いと思います」


「ふむ」


「一方で、景気はよく、学生や若い社会人にも、少し余裕が出てきています。そのなかで、アミューズメント施設やファミリーレストランのような、『家族やグループで使える店』が郊外で増え始めています」


政雄は、事業計画書のフロア図を軽く指でたたいた。


「カラオケボックスも、その流れの一つとして広がっていくと考えています。男性だけでなく、女性や学生、家族連れでも使える、『歌うための部屋』としてです」


支店長は黙って聞いている。


「もちろん、新しい業態なので、不確実性はあります。ただ、今回の案件については、場所と投資額、部屋数を考えると、数字の上では十分に返済可能な線に収まっています。担保と保証も、決して厚くはありませんが、全くないわけでもない」


そこで一度区切り、言い方に少し気をつけながら続けた。


「大きな駅前の再開発や、銀座のような一等地の案件は、本部が中心になって動かれていると思います。営業店としては、そうした『本部案件』とは別に、時代の変化に合わせた新しい商売に、試験的に投資して実績を作る必要があるのではないかと考えました」


支店長の視線が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。


「この規模であれば、金額を抑えれば、支店の判断で動ける範囲です。うまくいけば、『新しい生活スタイルに合った業態に、早い段階で関わった』という実績になりますし、万一思ったほど伸びなかったとしても、担保と保証で、銀行として致命的な損にはなりにくいと見ています」


「つまり」


支店長が、小さくまとめた。


「時代の流れの中で出てきた新業態に、支店として現実的な範囲で乗っておきたい、ということだな」


「はい。生意気な言い方かもしれませんが……。本部の大口案件だけでは拾いきれない部分で、支店としての実績を作る一つの機会だと思っています」


言い終えてから、政雄は一瞬だけ、支店長の表情をうかがった。


支店長は、ふう、と小さく息を吐いた。


「生意気とは思わんよ」


それから、少しだけ口元をゆるめる。


「私だって、せっかく駅前の支店を預かっているんだ。全部を『本部の案件だから』で済ませるのは、正直、つまらないと思っている」


営業課長が横で笑いをこらえた。


「数字と担保の筋が通っているなら、『試しにやってみる』案件が一つ二つあってもいい。……そういう判断をしたことが、後から支店の実績として残るならなおさらだな」


「ありがとうございます」


政雄は、深く頭を下げた。


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