第50話 駅前再開発とカラオケBOX案件
その日の朝礼は、いつもより少し長引いた。
ロビーに全員が並び、支店長が前に立つ。前置きもそこそこに、すぐ本題に入った。
「では、連絡事項に入る前に、話があります」
支店長は、手元のメモを一度だけ見下ろしてから顔を上げた。
「当店の最寄り駅前で、再開発の話が出ています。まだ正式な計画ではありませんが、地元の商店街や不動産会社、それから役所のほうで、準備会のようなものが動き始めたそうです」
ざわ、と列の端がわずかに揺れた。
ロビー係の女子行員が、隣の窓口担当に目配せをする。
営業課のほうでも、先輩たちが小さく顔を見合わせた。
「詳しい資料は、これから本部を通じて入ってきますが。現時点では、駅前の古いビルと商店街の一部を、まとめて建て替える構想があるということです」
支店長は、少し声を張って続けた。
「当然、当店にも無関係ではありません。テナントとして入られるお客さまもいれば、組合や事業者としてお付き合いする先も出てくるでしょう。準備の段階から、情報をしっかり集めてください」
営業課の列の中で、係長が小さくうなずいた。
政雄は、その隣で黙って話を聞いていた。
(ついに、こういう話が来たか)
前の人生では、新聞や雑誌の中でだけ見ていた「再開発」という言葉が、今は自分の職場の話として出ている。
駅前の一等地をまとめて建て替える計画。
大手のデベロッパーと銀行が組んで、大きな金を動かしていく時代。
支店長は、一度言葉を切ってからまとめに入った。
「今はまだ、噂の段階と言ってよい状況です。ただ、だからと言って聞き流してよい話ではありません。それぞれの担当先で、それらしい話や資料が出たら、こまめに報告してください」
そう締めくくると、支店長は手帳を閉じた。
「以上を踏まえまして、今日もそれぞれの持ち場でよろしくお願いします」
「はい」
全員で礼をして、列がばらける。
営業課のデスクに戻りながら、先輩がぽつりと言った。
「駅前の再開発ね。本部のほうは、きっと盛り上がってるだろうな」
「またでかい話が動きそうですね」
別の先輩が笑う。
「まあ、俺たちは足元の商店街をちゃんと見ておくしかないけどさ」
政雄は、自分の席に座りながら、さっき支店長が言った、
「それぞれの担当先で、それらしいお話が出たら」
という言葉を思い返していた。
(駅前の再開発と、担当している店たち)
前の人生では、遠くの出来事として眺めていたことが、今は自分の顧客名簿と結びつき始めている。
この先、どこからどんな話が転がり込んでくるのか。
*
そのスナックには、月に一度は顔を出すことにしていた。
返済状況の確認と、帳簿の簡単なチェック。
ついでに、新しい定期預金や積立のパンフレットを一通り置いてくる。
開店前の店内は、まだ照明も半分しかついておらず、カウンターの上にはグラスが伏せて並んでいるだけだった。
「いらっしゃい。山本さん、今日も時間きっちりね」
カウンターの中から、ママが笑って手を振った。
年齢は四十代の半ばくらい。
派手な化粧ではないが、客相手の笑顔が板についている。
「お邪魔します。今月もお店のほう、数字を見せていただけますか」
「はいはい。座ってて。今、持ってくるから」
政雄は、カウンターの端の席に腰を下ろし、鞄からノートと電卓を取り出した。
ママが、小さなバインダーを抱えて戻ってくる。
「売上の集計は、いつもと同じように書いておいたわよ」
「ありがとうございます」
ざっと数字を追う。
曜日ごとの売上の波、ボトルキープの動き、仕入れの支出。
派手に伸びているわけではないが、落ち込みもない。
返済計画の範囲の中で、きちんと回っている。
「このペースなら、当面は問題なさそうですね」
「そう? じゃあ、もうちょっと頑張れるかな」
ママは、ほっとしたように笑った。
「ねえ、山本さん」
「はい?」
「駅前の再開発の話、聞いてる?」
「朝礼で、少しだけ」
「やっぱり。うちの常連さんの間でも、ちょこちょこ話が出てるのよ。あそこのビルがなくなるとか、こっち側まで巻き込まれるとか」
ママは、カウンター越しに身を乗り出した。
「でね、その再開発とはちょっと別なんだけど……。うちのお客さんの一人が、駅の近くで新しい店をやりたいって言ってるの」
「新しい店、ですか」
「カラオケ用の小さな部屋をいくつも並べて、時間で貸す商売、って言ってたわ。ボックス? って言うのかしら。スナックじゃなくて、個室をたくさん作るんですって」
政雄は、手元のペンを止めた。
前の人生で、何度も通ったカラオケボックスの光景が、頭の中に浮かぶ。
狭い部屋にソファとテーブルとモニター。
壁に埋め込まれたスピーカーと、テーブルの上のリモコン。
(この時代だと、まだ珍しいはずだ)
「その方は、どんなお仕事をされているんですか」
「今は、小さな飲食店をいくつかやってる人よ。駅からちょっと離れた通りで。前はトラックの運転手だったって言ってたかな」
ママは、指折りながら思い出す。
「知り合いの不動産屋から、いい場所が空きそうだって話が来てるみたい。問題は、お金よねえ」
「資金調達、ですね」
「そう。うちにも相談されたのよ。『銀行に顔が利くママさん、どこか紹介してくれない?』って」
ママは、冗談めかして肩をすくめた。
「他の銀行さんにも話はしたみたいなんだけど、『ちょっと分が悪い』とか『今は様子を見たほうがいい』とか、あんまりいい顔はされなかったって」
「そうでしたか」
「まあ、風俗っぽいって言う人もいるし、一時の流行ですぐ冷めるんじゃないかって言われたって」
(他の銀行は、渋っている)
(でも、前の人生を思えば、カラオケボックスはここから先、一気に増えていくはずだ)
「その方の、お店か事務所があれば、そちらに伺います」
「本当? じゃあ、先方に聞いてみるわ。『銀行さんが話を聞いてくれる』って」
「正式なご相談という形でしたら、資料も一緒にご用意いただいたほうが助かります」
「どんなもの?」
「事業計画と、内装工事のお見積り。それから、今お持ちの自己資金と、もしあれば担保にできる不動産や保証人の候補についても」
「分かった。それも伝えておく」
ママはカウンターの端に置いたメモ用紙に、政雄の言葉を走り書きした。
「日時が決まったら、ここに電話していい?」
「ええ。支店のほうにご連絡いただければ、調整します」
そう答えてから、政雄は手帳を開き、来週以降の空いている時間を頭の中で探り始めた。
*
翌週の午後、政雄は駅から少し離れた路地を歩いていた。
スナックのママから、電話で日時と場所を聞いてある。
指定されたのは、駅から十分ほど歩いた先にある小さな飲食店だった。
表の看板には「佐野食堂」とある。昼は定食屋、夜は軽く飲める店として使っているのだという。
ドアを開けると、店内には客の姿はなかった。
昼の営業を終えたあとの、仕込みの時間帯だ。
「どうも。双葉銀行の山本さんですね」
カウンターの奥から、白いシャツにエプロン姿の男が出てきた。
「佐野商会の佐野です。わざわざありがとうございます」
「お忙しいところ、時間を取っていただきありがとうございます」
軽く頭を下げてから、テーブル席に向かい合って座る。
佐野さんは、レジ横の棚から紙袋を持ってきた。
「大したものじゃないですが、言われたとおりにそろえてみました」
紙袋から、クリアファイルが二つ出てきた。
「こちらが事業計画と内装工事の見積書。それと、今持っている自己資金や担保になりそうな不動産の資料です」
「拝見します」
政雄は、ファイルを一つずつ開いた。
一冊目には、簡単な事業計画書が挟まっている。
一ページ目に、駅近くのテナントビルの写真。
四階と五階が「空き予定」と赤字で囲まれている。
「このビルの四階と五階が、近いうちに空く予定です。オーナーさんとは、家賃と保証金について話を始めているところでして」
「テナント契約の条件は、こちらですね」
次のページに、不動産会社が作成した条件書のコピーがあった。
四階・五階各四十坪強。保証金六カ月分。共益費あり。
「保証金については、今やっている店の利益と、貯金を合わせれば、何とか用意できそうです」
佐野さんは、二枚目のメモを指さした。
現在の店舗の数と場所、年間の売上と利益。
それらが記された帳簿と、貯金通帳。
「自己資金としては、このくらいは出せます。全部を突っ込むわけにはいきませんが、保証金と、内装費用の一部までは何とか」
「分かりました」
政雄は、数字を見ながらメモに写した。
次に、内装工事の見積書に目を通す。
防音壁の設置、各部屋のドアの新設、床と壁の仕上げ、照明と配線、空調の増設。
四階・五階合わせて十五室前後の小部屋を作る前提で、合計の見積額が出ている。
「内装工事については、この業者さんと」
「ええ。今やっている店の改装でもお世話になっている人でして。ざっくりですが、部屋の数と広さを伝えて、これくらいと出してもらいました」
「カラオケ機器のほうは、どうお考えですか」
「一括で買うのは難しいので、リース会社の話を聞いているところです。初期の導入費用を抑えて、月々のリース料で払っていく形ですね」
別の紙には、機器一式の概算と、リースを利用した場合の月額が書かれていた。
「それから、担保になりそうなものがこれです」
二冊目のファイルの表紙には、不動産の登記事項証明書のコピーが挟まっている。
「実家の土地と建物の持分が、少しあります。兄弟で分けているので全部というわけにはいきませんが、自分の持ち分については、担保に出すつもりでいます」
政雄は、登記簿の地番と持分割合を確認した。
郊外の住宅地。土地と古い木造家屋。
評価額は高くはないが、「全く何もない」というわけでもない。
「連帯保証人については、どうお考えですか」
「弟が一人いまして。今は別の仕事をしていますが、この店も手伝ってもらっています。本人にも話はしてあって、保証人になると言ってくれています」
「分かりました」
政雄は、保証人予定者の名前と職業をメモに加えた。
「では、事業のほうですが」
事業計画書のページをめくる。
一フロアあたり七室か八室。それを二フロアで十五室前後。
部屋ごとの一時間単価。
昼・夜それぞれの稼働率を仮に置いた売上予測。
そこから、家賃・人件費・光熱費・リース料・返済額を引いた、月ごとの残り。
「この数字は、少し強めに見積もっていますか。それとも控えめに見ておられますか」
「最初の一年は、ここまで埋まらないかもしれません。でも、三年目くらいには、このくらいの稼働率まで持っていきたい、というイメージで書きました」
「なるほど」
政雄は、ペンでいくつかの数字に印を付けた。
部屋数と一時間単価を固定し、稼働率だけを変えた場合の売上。
家賃や人件費に多少の上振れがあった場合の残り。
「既存の店のほうが、今より少し落ちる可能性も見ておいたほうがよいですね。人をこちらに回すことになりますから」
「そうですね。既存の店の一つは、いずれ閉めることも考えています。人も資金も分散しすぎると、どれも中途半端になるので」
「そのあたりの整理も含めて、こちらで試算をやり直してみます」
政雄は、ファイルを丁寧に閉じた。
「他の銀行さんからは、『担保が弱い』『業態が新しすぎる』というご意見が多かったと伺いました」
「正直なところ、『よく分からないからやめておいたほうがいい』という感じでしたね」
佐野さんは、苦笑いを浮かべた。
「自分も、うまくいくと決めつけているわけじゃありません。ただ、今のままスナックや食堂を続けるだけだと、この先じりじりと下がっていく気がしていて」
「新しい形の店を、一つ持っておきたいと」
「はい。駅前の一番いい場所じゃなくてもいいので、通いやすいところに『部屋がたくさんある店』を作りたいんです。最初に始めるところが強くなる、っていうのは、どの商売でも同じでしょう?」
前の人生で見た光景が、頭の中で重なった。
会社帰りのサラリーマンが、二次会でカラオケボックスに流れていく。
学生たちが、休日の午後を歌って過ごす。
そういう風景が、当たり前になるのは、もう少し後の時代。
「山本さん」
佐野が、少し真面目な顔つきになった。
「無理を承知でお願いしているのは分かっています。もし、銀行としてどうしても難しいということであれば、それはそれで仕方がないと思っています。ただ、そのときは、はっきりそう言ってください。変に期待だけ持たせると、こっちも動き方を間違えますから」
「承知しました」
政雄は、うなずいた。
「この場でお返事はできませんが、いただいた資料をもとに、支店の中で検討します。そのうえで、どの程度までお手伝いできるかをお伝えします」
「お願いします」
佐野さんが深く頭を下げた。
テーブルの上のファイルを鞄にしまいながら、政雄は頭の中で数字をもう一度組み立てる。
部屋数、単価、稼働率。
家賃、内装費、リース料。
そして、返済可能なライン。
(普段なら、もっと慎重に構えるところだ)
それでも、カラオケボックスという業態については、前の人生から知っている未来がある。
(ここを全部切り捨てれば、この人はノンバンクか、もっと条件の悪いところに行くだろう)
(それなら、最初から現実的な枠を一緒に考えたほうが、まだましだ)
「検討が終わりましたら、改めてご連絡します」
「はい。お手数ですが、よろしくお願いします」
店を出ると、午後の日差しが少し眩しかった。
駅に向かう道を歩きながら、政雄は鞄の中のファイルの重さを意識した。
これは、ただの一件の融資相談ではない。
駅前の再開発が動き出そうとしているこのタイミングで、自分がどんな判断をするかを試されている。
そんな気がしていた。
*
その週の終わり、政雄が家に帰ると、ちゃぶ台の上にはもう夕飯のおかずが並んでいた。
父はテレビを見ながら、湯飲みを手にしている。
母は台所から味噌汁の鍋を運んでくるところだった。
姉は、いつもより少しきちんとした服を着て、ちゃぶ台の端に座っていた。
「おかえり」
「ただいま」
鞄を部屋の隅に置くと、母が振り向いた。
「ちょうどよかったわ。今日は、先にみんなでご飯にしましょう」
「何かあったの」
「まあ、座ってから聞きなさいよ」
ちゃぶ台のまわりに三人が座る。
父が、湯飲みを置いて口を開いた。
「幸から、話があるそうだ」
姉は一度だけ息を吸い、手元の箸を握り直した。
「この前から話してた、田村さんのことなんだけど」
田村という名の、市役所勤めの次男だと、前に聞いている。
「何度か会って、いろいろ話してみて……。結婚を前提に、お付き合いすることになりました」
母の手が、味噌汁のお椀を置いたところで止まった。
「そうなの?」
「うん」
姉は、少し照れたように笑った。
「仕事のこととか、お互いの家のこととか、一通り話はしてる。向こうのご両親にも、そのうち挨拶に行くつもり」
「相手の方は、何とおっしゃっている」
父が、湯飲みをもう一度口に運んでからたずねた。
「ちゃんとした形にしたいから、焦らずに進めましょうって。時期とか細かいことは、これから決めていこうって話になってる」
母が、ようやく表情を緩めた。
「それなら、ちょっと安心ねえ」
味噌汁のお椀を姉の前に置き、次に父の前にも置く。
「田村さんは、地元の人なんだよね」
「うん、地元出身で仕事も当分は異動はなさそうだって言ってた」
「そうか」
父は短くうなずいた。
「仕事をきちんとやっている人なら、こちらとしてもいい話だ」
「ありがとうございます」
姉は、姿勢を正して頭を下げた。
「向こうのご両親とも話を進めて、時期とか、式のこととか決まったら、また相談させて」
「ああ、そのときは改めてだな」
父の声は、いつもよりわずかに柔らかかった。
母が「さあ、冷めないうちに食べちゃいなさい」と言い、箸を配る。
姉は「いただきます」と小さくつぶやいて、味噌汁を一口すすった。
照れながら食事を始める姉の横顔は、いつもより少しだけ輝いて見えた。




