第49話 春の人事異動(営業職)
異動になった先の支店は、行員三十人足らずの中規模店だった。
支店長と次長、その下に課長クラスが数人いて、あとは営業と事務がごちゃっと詰まっている。
政雄の辞令は「営業課」。
とはいえ、いきなり大口の融資営業というわけではなく、店内の個人向け窓口と、近隣の商店街への簡単な外回りを行き来する“つなぎ役”のような立場だった。
(営業、か……)
辞令の紙を折りたたみながら、政雄は前世のことを思い出していた。
前の人生で、銀行員が「倍返しだ!」と叫ぶドラマを見たことがある。
貸し倒れと責任の押しつけ合い、上からの無茶なノルマ、貸しはがしや貸し渋り。
あれは少し誇張されてはいたが、ニュースや本で見た現実とも、そう遠くない世界だった。
(本音を言えば、客先と直接やり合う営業は、できれば避けたかった)
無理な融資を押しつけたり、後になってから貸しはがしに回ったり。
そんな場面に、できるだけ近づきたくはない。
(とはいえ、ここを通らずに事務企画に行くのも、現実的じゃないよな)
銀行の中で、支店の空気とお客さんの顔を知らないまま、本部で事務やシステムをいじるのは危うい。
それは、前世の会社員経験からもよく分かっていた。
(営業そのものから逃げる気はない。ただ、危ない橋にはできるだけ足をかけない)
無理な話の気配を感じたら、早めに距離を取る。
そのためにも、「どこが危ないのか」を見分けられるようになるところから始めるしかない。
支店の窓口の向こうで、今日もお客さんが順番を待っている。
*
営業課での最初の一週間は、店の中の仕事を覚えるところから始まった。
窓口の後ろで書類を受け取り、簡単な入力を手伝い、先輩が作る資料のコピーを取り、ロビーでお客さんを案内する。
為替の後方にいたころと比べると、お客さんの顔がよく見える位置だ。
それでも、まだ「営業」というほどのことはしていない。
「そろそろ、外にも出てもらおうか」
二週目に入ったある朝、営業課の係長がそう言った。
「今日は先輩と一緒に、近くの商店街を一回りしてきなさい。まずは顔と道を覚えるところからでいいから」
「分かりました」
指定された先輩は、三十代半ばくらいの営業担当だった。
どこにでもいそうな、少し日に焼けた顔。
スーツの上着のポケットには、何本ものボールペンと小さなメモ帳が差し込まれている。
「じゃあ行こうか。歩きながらざっと説明するから、分からないことがあったらその場で聞いて」
「よろしくお願いします」
双葉銀行の支店を出ると、すぐ先に小さな交差点があり、その先に商店街のアーケードが見えた。
八百屋、魚屋、電器店、クリーニング店、小さな喫茶店。
どこにでもあるような並びだが、ここがこの支店の「お客さんの顔が見える場所」らしい。
「今日はあいさつ回りだから、名刺を出して『この春から営業課に入りました』ときちんと言えれば十分だよ。いきなり何かを売ろうとしなくていい」
先輩は歩きながらそう言って、最初の店の前で立ち止まった。
シャッターの半分開いた八百屋から、エプロン姿の店主が顔を出す。
「おはようございます。双葉銀行さん、きょうは早いね」
「おはようございます。こちら、四月からうちの営業課に入りました山本です」
先輩に促されて、一歩前に出る。
「山本と申します。これからお世話になります」
名刺を差し出すと、店主は手を拭きながら受け取ってくれた。
「おう、よろしく頼むよ。うちはそんなに大した金額じゃないけどな」
「いえ、とんでもないです。また何かありましたら、何でもご相談ください」
口にしてみると、少しだけ営業らしい言い回しだが、やっていることはただのあいさつだ。
そのあとも、いくつかの店を回った。
喫茶店ではマスターが、古い伝票バインダーをカウンターから出してきて、「毎月の集金、またこの子に来させるのかい」と笑った。
電器店では、息子らしい若い店員が「父がいつもお世話になってます」と頭を下げた。
(まずは、顔と名前を覚えてもらうところからだな)
お金を動かす話は、そのずっと先になる。
ここで変なことをすれば、後で自分にも返ってくる。
そう思うと、一つ一つのあいさつにも、自然と力が入った。
「どうだ、外回りの感じは」
アーケードを歩きながら、先輩がふいに聞いてきた。
「思っていたより、落ち着いています。お話をして、顔を覚えていただく感じで」
「最初はそれで十分だよ。変に気合いを入れて、いきなり商品を持って行こうとすると、こっちも先方も疲れるからね」
先輩は笑って、アーケードの天井を見上げた。
「ここにいる人たちとは、これから長いつき合いになる。お互いに顔と名前を覚えておけば、それだけで半分くらいは仕事がやりやすくなるんだ」
「はい」
政雄はうなずいた。
お金をめぐる仕事に、きれいごとだけでは済まない場面があることは分かっている。
だからこそ、最初の一歩は、できるだけまっとうな形で踏み出しておきたかった。
商店街の奥から、焼きたてのパンの甘い匂いが流れてきた。
その匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、政雄は次の店の看板を見上げた。
*
営業課での仕事にも、少しずつ慣れてきた。
この支店に来たばかりのころは、店内の窓口の裏で伝票をさばき、ロビーでお客さんを案内し、先輩の外回りに同行するだけで一日が終わっていた。
数か月もすると、個人向けの定期預金や公共料金の手続き、簡単な積立や国債の説明などを、一通り任されるようになっていた。
商店街の顔ぶれも、だいたい頭に入った。
いつも声の大きい八百屋の主人。
寡黙だが、帳簿はきっちり付けている電器店の親父。
午後になると常連がゆっくり集まってくる喫茶店。
朝のあいさつから始まり、集金や通帳の受け渡し、小さな相談ごと。
仕事の中身は派手ではないが、日々の積み重ねでできているのが分かる。
(ここでの経験も、いずれ事務企画に行くなら無駄にはならない)
そう思いながら、政雄は営業課の自分の机に座っていた。
*
異動からひと息ついたころ、係長から声がかかった。
「山本君、ちょっと時間あるか」
「はい」
「商店街のパン屋さん、知っているよね。あそこのご主人から、店の改装資金の相談が来ている。担当はベテランのAさんだけど、数字のほうは前の支店で慣れている山本君にも一度見てもらおうと思ってね」
パン屋は、外回りのあいさつ回りでも何度も訪れている店だった。
朝から焼きたての匂いが漂う、小さな店だ。
「分かりました。資料は……」
「ここにある。売上と損益の推移、借入の残高、今回の見積書。ざっとでいいから、違和感がないか見ておいてくれ」
係長はそう言って、ファイルを一冊、政雄の机に置いた。
売上は、ここ数年、横ばいから少し右肩下がり。
ただし、原材料費を抑えたのか、利益率はぎりぎり維持している。
今回の改装は、店を広げるというより、老朽化した設備の入れ替えと、多少のレイアウト変更が中心らしい。
(設備投資としては、ありといえばありだ)
そう思いながら、借入残高と返済計画のページをめくる。
新しい融資の希望額を足すと、月々の返済額は、今よりも一段と重くなる。
見積書と合わせて、もう一度、数字を追った。
(この金額をそのまま通すと、売上が少しでも落ち込んだときに、いっきに苦しくなるな)
もちろん、店がうまく回れば問題はない。
ただ、「うまく行けば大丈夫」という前提で組んだ計画は、前の人生でも何度か見てきた。
そのたびに、最後に割を食うのは、たいてい小さな店と、そこで働く人たちだった。
政雄は、ページの端に小さくメモを書いた。
「現状維持前提なら、この額は重い」「半分程度なら現実的か」
「どうだ、山本君」
しばらくして、係長が席に戻ってきた。
「お待たせしました。ざっくりですが、感触はつかめました」
「じゃあ、率直なところを聞かせてくれるか」
政雄は、ファイルを開き直して、ゆっくりと言葉を選んだ。
「設備の入れ替えそのものは、必要だと思います。ただ、希望されている金額をそのままお貸しすると、月々の返済がかなり重くなります。ここ数年の売上の推移を見ると、少し落ち込んだだけで、たぶん厳しくなるんじゃないかと」
「ふむ」
「もし貸すなら、金額を抑えて、返済期間も含めて、もう一度ご相談したほうがいいと思います」
係長は、しばらく黙って数字に目を落としていたが、やがて小さくうなずいた。
「俺も、だいたい同じ印象だ。Aさんはどう見ているか、あとで三人で話してみよう」
「はい」
その日の夕方、営業課の隅で、小さな打ち合わせが開かれた。
ベテランの営業担当Aは、長年のつきあいがあるせいか、最初はやや前向きだった。
「せっかくやる気になっているときに、水を差すのもなあ」
「気持ちは分かりますけど……」
係長が、そこに入った。
「だからと言って、無理を承知で貸したら、それこそ後でお互いに困ることになる。山本君の言うように、金額を抑えて、計画を一度一緒に見直してもらったほうがいい」
結局、その案件は、「希望額の半分程度」「返済期間を少し長めに」という形でまとまった。
店主は少し残念そうだったが、「無理をしない範囲で」と言われて、最後には納得してくれた。
改装は、予定より少し規模を縮めて行われたが、ほどなくして新しいオーブンが静かに稼働するようになった。
レジの横には、返済予定表がきちんとファイルされている。
「おかげさんで、なんとかやれてるよ」
そう言って笑う店主の顔を見て、政雄は胸の奥の力を、少しだけ抜いた。
(貸すこと自体が悪いわけじゃない。どこまでなら、ちゃんと返していけるかを一緒に考えるのが、こっちの役目なんだ)
そんな当たり前のことを、あらためて実感した。
*
その日の夕食も、いつも通りだった。
父は黙って茶碗を空にし、新聞を広げる。
母は台所と居間を行き来しながら、味噌汁のおかわりや明日の弁当のおかずの下ごしらえをしている。
姉は、自分の分を食べ終えると、テーブルの端で学級通信の下書きを広げていた。
政雄も部屋でスーツを脱ぎ楽な服に着替えて、湯飲みを手にした。
「そういえばねえ」
味噌汁のお椀を重ねながら、母が言った。
「この前、乳酸菌飲料を配達してるお宅で、こんな話が出たのよ」
「……何の話」
姉が顔を上げるより先に、政雄が聞き返した。
「うちがいつも配達してるおうちの奥さんね。前から、あんたが先生やってるって話は知ってて。こないだ、『うちの親戚に、市役所で働いてる息子がいるんだけど、まだ独身でねえ』って」
「市役所」
父が新聞から目をあげて、短く繰り返した。
「そうそう。地元でずっと勤めてる人で、真面目でおとなしいって言ってたわ。で、『お宅のお姉ちゃん、まだ独身なんでしょう』って」
「お母さん」
姉が小さく眉を寄せる。
「勝手に話、広げてないでしょうね」
「広げてなんかないわよ。ただ、『先生してる娘がいますけど、相手さんはどんな方ですか』って聞いただけ」
母は、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「そしたら、『市役所で十年近く働いてて、親とは別にアパートで一人暮らししてる』って。お酒もあんまり飲まないし、何より次男なんだって」
「そこまで聞いてきたんだ」
政雄は湯飲みを置いた。
「で?」
「それでね、『よかったら一度、会ってみない?』って」
母は、ちゃぶ台の端に座り直した。
「今どき、お見合いなんて古いかしらと思ったけど、変なところで知り合うよりは安心かなって。向こうも、先生ならちゃんとした人だろうって」
「……姉さんは?」
政雄が姉のほうを見た。
姉は、少しだけ息を吐いてから、湯飲みを置いた。
「あ!お茶碗片づけるね」
「話、そらしてる」
「そらしてない」
そう言って、姉は空になった茶碗を台所に持っていく。
母が後ろからついていき、小声で何か言っているのが聞こえた。
しばらくして戻ってくると、姉は少しだけ頬を赤くしていた。
「一度くらいなら、会ってもいいかな」
「ほう」
父が新聞をたたんだ。
「相手は市の職員か」
「らしいよ」
姉は、茶碗を置きながらうなずいた。
「地元の出身で、年は私より二つ上だって。お母さん、名前、何て言ってたっけ」
「田村さん。苗字しか聞いてないけどね」
母が答える。
政雄は、湯飲みの中のお茶をゆっくり回しながら、心の中で少しだけ計算した。
(地元で、市役所で、同じくらいの年)
派手さはないが、腰は据わっている。
少なくとも、バブルに踊らされてどこかで大きく転ぶような相手ではなさそうだ。
「政雄は、どう思うの」
姉が、少しだけ笑いながら聞いてきた。
「市の職員さんか」
「……悪くないんじゃない」
政雄は、正直に答えた。
「姉さんが嫌じゃなければ、だけど」
「嫌じゃなかったら、どうするの」
「どうもしないよ」
そう言ってから、言葉を足す。
「ただ、俺はいつどこに転勤になるか分からないから、姉さんが家の近くにいてくれるほうが、正直安心できる」
「それは、そうねえ」
母がすぐにうなずいた。
「市役所なら、転勤があってもそんなに遠くは行かないでしょうし」
姉は、湯飲みを指先で回しながら、小さく笑った。
「じゃあ、一度だけ、会ってみる。嫌だったら、そのときはきっぱり断るから」
「それでいい」
父が、新聞をまた広げながら短く言った。
「嫌なものは、続けても仕方ない」
「はいはい」
母が笑いながら立ち上がる。
「じゃあ、配達のときに、『一度お会いしてみたいって言ってました』って伝えておくわね」
台所に引っ込む母の背中を見送りながら、政雄は湯飲みのお茶を飲み干した。
(姉も、そろそろ二十代の終わりか)
前世では、家族の将来について、まともに向き合って考えたことなどほとんどなかった。
深く考えることなく働いて、ただ漠然と歳を取っていっただけだ。
今は、ちゃぶ台を囲んで、ゆっくり将来の話ができる。
それだけでも、このやり直しには意味があるのだと、政雄は思った。
異動先の支店名を上東支店としました。




