第46話 学生時代との別れと社会人になる前に
九月に入ると、やることは一気に減った。
夏の終わりに内々定が出てから、就活のカレンダーは、しばらく白紙のままだった。
そのぶん、机の上には卒論の資料と、書きかけの原稿だけが残った。
政雄は朝から図書館に行き、昼は自宅でノートを広げ、夕方まで数字と文章を行ったり来たりしていた。
弁当配達もなく、生協のバイトもない。
大学のキャンパスは、まだ夏休みのままの静かだった。
ゼミの卒論は、弁当配達を例にして、通信と物流のつながりをたどる話にした。
注文を受けて、仕分けをして、届ける。
その流れが、これから先、どう変わっていくのか。
書くうちに、政雄の中では、前世で知っている未来と、今目の前にある仕組みが、重なっていった。
電話で受けて、紙でまとめて、手で運ぶ。
今はそれだけでも十分に回っているが、その先には、もっと別のやり方がある。
大学の図書館で調べた資料には、流通の効率化や情報処理の話がいくつも並んでいた。
政雄はそれを拾いながら、自分の弁当配達の経験を重ねていく。
配達先ごとの注文数。
届ける順番。
現金のやり取り。
少しの違いで手間が増えたり減ったりすること。
そこまで書いて、政雄は一度ペンを置いた。
ノートの上には、もう原稿の形が見えていた。
(九月のうちに、ほぼ書き切れそうだ)
残りは、言い回しを整えて、図をきれいにまとめるだけでいい。
*
九月の半ばになると、卒論のほうは、ほとんど形になっていた。
午後の図書館でひと通り作業を終えたあと、政雄はそのままジャズ研の部室へ向かった。
ドアを開けると、古いアンプのうなりと、スネアを軽くならす音が聞こえる。
部室の中には、いつもの顔ぶれがそろっていた。
ドラムの部長、ベース、ギター。
それぞれが椅子やソファに適当に腰を下ろして、何となく次の話を待っている。
「お、山本。卒論は終わったのか」
部長が、スティックを指先で回しながら言った。
「まだ“終わり”ってほどじゃないけど、だいぶ先は見えた」
「じゃあ、そろそろ文化祭の話、詰められるな」
ギターがそう言って、机の上に広げたメモを指さした。
「今年は、前みたいに適当に集めるんじゃなくて、四人でやるんだろ」
ベースがうなずく。
「今年で最後だし、有終の美ってやつだな」
政雄は、サックスケースを床に置きながら、椅子を引いた。
「今年は、何をやるつもりなんだ」
部長が、メモ帳をめくる。
「時間も長くないし、難しいのを増やすより、きれいにまとめたほうがいい」
ギターがすぐにうなずく。
「今年は、この四人でしっかり準備して臨もう」
政雄は、マウスピースをケースから取り出しながら、少しだけ口を開く。
「曲順は、最初を軽くして、最後を少しだけ締める感じがいいな」
「おっ、そういうこと言うようになったか」
部長が笑う。
ギターが譜面を引き寄せる。
「文化祭が終わったら、俺らも引退だしな」
その言葉に、部室の空気が少しだけ静かになった。
*
十月に入ってすぐ、正式な通知は、少し厚めの封筒で届いた。
差出人の欄には、あの都市銀行の本店の住所と社名が印刷されている。
居間のちゃぶ台の上で封を切ると、中から「内定通知書」と書かれた紙が一枚、滑り出た。
八月に就職課から電話で聞かされた内容と同じだが、社名入りの紙になると、重さが違って見えた。
「決まったの?」
台所から母が顔を出す。
「うん。正式に、内定だって」
短く答えると、母はほっとしたように笑った。
「よかったねえ。あとはちゃんと卒業するだけだね」
「そうだね」
返事をしながら、政雄は通知書をもう一度だけ見直した。
*
その週のうちに、政雄は大学へ行き、関係のあるところへ順番に顔を出した。
まずはゼミの教授のところだ。
「先生、お時間よろしいですか」
「お、山本君。どうだった?」
教授室の机の前で、政雄は内定通知書のコピーを差し出した。
「正式に、この銀行から内定をいただきました。推薦の件、本当にありがとうございました」
「そうか。よかったね」
教授は紙に目を通し、うなずいた。
「これでひと安心だな。あとは、卒論をきちんと仕上げて、無事に送り出すだけだ」
「はい。九月中に本体はほぼ書き終えて、あとは直しと図だけです」
「それなら大丈夫だろう」
短いやり取りだったが、胸のどこかが少し軽くなった。
そのあと、就職課と生協にも挨拶を済ませた。
*
正式な内定の報告を終えたあと、政雄は生協の奥の休憩スペースで、菊池さんと向かい合って座った。
昼のピークが過ぎて、店内は少し静かになっている。
「就職決まったよ」
「おめでとうございます、先輩」
菊池さんは、ほっとしたように笑った。
「正式に決まって、本当によかったです」
「まあ、あとは卒論と単位だけだな」
そこで一度区切ってから、政雄は言葉を選んだ。
「それで、生協と弁当配達の事だけどさ」
「はい」
「生協のバイトは、今月いっぱいでやめるんだ。十月に取りこぼしてた単位を取りきったら、大学にも、ほとんど来なくなるだろうし」
「そう、ですよね」
菊池さんは、少しだけ視線を落とした。
「先輩が、今まで来てくれたおかげで、だいぶ助かってましたけど」
「弁当配達のほうも、完全に手を引くよ。運営はもう、菊池さんに引き継いだし」
「はい。そのことなんですけど」
菊池さんは、手元のノートを開いた。
配達先ごとの名前と本数が書かれたページの端に、別の名前が小さくメモしてある。
「同郷の後輩が、一人いるんです。東北から出てきた子で」
「この前、ちらっと言ってた子か」
「はい。その子もこの仕事したいって言ってて。自分が教えれば、回せると思います」
菊池さんは、ペンでメモの名前を軽くなぞった。
「だから、先輩が完全に抜けても大丈夫です。運営も配達も、自分とその子で引き継ぎます」
「そうか。それなら安心だな」
政雄は、ポケットから鍵を取り出して、テーブルの上に置いた。
銀色の小さな鍵が一つ、軽い音を立てる。
「俺の自転車、もう使わないから、その後輩に譲ってくれないか」
「いいんですか」
「新しく買うのはもったいないし、使ってもらったほうがいいし」
政雄は肩をすくめた。
「配達用にちょうどいいように、いろいろいじってあるから」
「ありがとうございます。ちゃんと伝えます」
菊池さんは、鍵を両手で包むようにして受け取った。
「先輩の自転車、大事に使いますって、その子もきっと言います」
「もう、そっちの持ち物だからな」
政雄は笑った。
「これからは、菊池さんと、その後輩ですべて決めればいい」
「はい」
菊池さんは、少しだけ姿勢を正した。
「先輩が始めて、ここまで続けてきたものを、自分がちゃんとつなぎます」
「嬉しいけれど、そう気張らずに気楽にやって」
そう言ってから、政雄は一度だけ、配達先のノートに目を落とした。
見慣れた名前の並びが、少しだけ遠く見える。
*
文化祭当日のキャンパスは、朝から人が多かった。
ジャズ研の出演は、午後の中ごろだった。
学生会館の小さなステージに、ドラムとアンプと譜面台が並ぶ。
「じゃ、やるか」
部長が言った。
四年の秋まで残ったメンバーで組む最後の演奏だ。
ベースとギター、それに政雄が、それぞれ楽器を抱えてステージに上がった。
一曲目は軽いスタンダード。
ドラムのカウントから入り、テーマをつないでいく。
音を出してしまえば、あとはいつも通りだった。
客席の反応も悪くない。
最後の曲を締めると、拍手が返ってきた。
「ありがとうございました」
四人で頭を下げる。
政雄はケースにサックスをしまいながら、これでジャズ研は引退だな、と思った。
入学たころは、サークルに入るつもりなどなかった。
それでも、高橋先輩に引き込まれ、人前で吹く楽しさを覚えた。
積極的な部員ではなかったが、自分にとっては十分に意味のある三年半だった。
*
十月中に取りこぼしていた単位を取りきると、十一月以降は、大学にほとんど来なくなった。
年末は、今年は少し余裕があったので、家の大掃除を手伝った。
大晦日は、例年通り、政雄が用意した年越しそばを家族で食べた。
鍋から立つ湯気の向こうで、父が箸を置いた。
「今年は政雄も大学を卒業して、社会人になるな」
「うん。まあ、ようやくここまで来たって感じだよ」
政雄がそう返すと、母が少し安心したように笑った。
「ほんとによく頑張ったよ。毎日、勉強もバイトもして」
「うん、幸も政雄もよく頑張った」
父がうなずいて、姉のほうを見る。
「まぁ、政雄はよく頑張ったけど、私はちょっとだけよ」
姉が、いつもの調子で肩をすくめた。
「いや、姉さんが奨学金を使って都立大に行ってくれたから、俺も大学に行けたんだよ」
政雄がそう言うと、父は湯飲みを持ち上げたまま、少しだけ目を細めた。
「二人とも、これからもしっかりな」
「はい」 「はい」
父の言葉に、俺と姉がそろって返す。
元日の朝は、いつもどおり母の作る雑煮から始まった。
台所からだしの匂いがして、政雄が起きて居間へ行くと、もう椀が三つ、ちゃぶ台の上に並んでいた。
「おはよう」
「おはよう。あけましておめでとう」
母が椀を置きながら言う。
父は新聞をたたみ、姉は髪をひとつに結んだまま、まだ少し眠そうな顔で座っていた。
四人で雑煮を食べ終えると、家族で近所の神社へ初詣に出かけた。
境内は、毎年見かける顔ぶれでほどほどににぎわっている。
賽銭箱の前で手を合わせながら、政雄は短く息を吐いた。
(今年も、家族が無事過ごせますように)
それだけ心の中でつぶやいて、列を離れる。
家に戻るころには、朝の冷え込みも少しやわらいでいた。
父は居間で釣り道具の手入れをし、母は台所で片づけを始め、姉はこたつの前でみかんをむいている。
政雄は、自分の湯のみを流しに置いてから、自分の部屋に入った。
机の上には、大学のノートと、使い慣れたボールペンが一本だけ置いてある。
窓から入る冬の光は薄く、部屋の空気は静かだった。
政雄は椅子に腰を下ろし、少しのあいだ、目の前のノートを見つめた。
そして、毎年元日にやる脳内会議を、今年もここで始めることにした。
俺のリトライ人生、がむしゃらに走ってきた。
今年から社会人になる。
ここで一度立ち止まって、冷静に初心に帰って、これからの人生をどう過ごしたらいいのか考えてみよう。




