45話 四年生四月から内々定まで
四年のガイダンスが終わった日の夕方、居間のちゃぶ台を借りて、分厚い就職情報誌を広げた。
電話帳くらいの厚さの紙の束に、銀行、商社、メーカー、インフラ、保険会社の名前が、ぎっしりと並んでいる。
(組織というものは、入ってみないと分からないんだよな)
前世で、会社をいくつか渡り歩いた記憶が、勝手に口をついて出てくる。
(パンフレットの写真も、説明会の雰囲気も、アテにならない)
だからこそ、見るべきところを、最初から割り切って決めておく。
情報誌の企業ページの余白に、小さくメモを書き込んでいく。
「福利厚生」「住宅手当」「社宅の有無」「退職金」「平均勤続年数」
(アットホームな会社です、なんて書いてあるところは、最初から除外)
パンフレットの社員座談会で、やたらと「家族的な雰囲気」とか「上下関係がなくて」といった言葉が続くページには、軽くバツ印をつけた。
(公務員がいちばん堅いのは分かってる。けど、せっかく前世の記憶が有るのだから、それを生かせる仕事にしたい)
前世で見てきた会社の名前と、この世界の紙の上の会社名を、頭の中で照らし合わせていく。
(今はバブル全盛期に向けて好景気だが、多分十年後にはバブルは弾ける。そのときに生き残れるか、バランスシートは堅実か、社内環境はどうなのかを重点的に見ておく)
就職情報誌の会社ごとのページをめくりながら、そこだけを意識して拾っていく。
福利厚生の欄。
昇給例と平均年齢。
平均勤続年数と離職率のグラフ。
その数字と、前世で知っている「その後」の姿を、ひとつひとつ重ねていく。
丸が三つか四つに絞られたところで、ページの端にもう一行、メモを書き足した。
「指定校求人」「ゼミ推薦で行けるかどうか、要確認」
情報誌をぱたんと閉じて、政雄は小さく息をついた。
*
数日あと、三限と四限のあいだの空き時間を使って、就職課のある棟に足を運んだ。
廊下の突き当たりに、「就職相談室」と書かれたプレートが掛かっている。
隣の壁一面が、コルクボードの掲示板になっていて、色のあせた画鋲で紙が何十枚もとめられていた。
都市銀行、地方銀行、証券、損保、メーカー、インフラ会社。
社名の横には、小さく「求人票有」「会社案内有」といった印がついている。
(ここから先は、大学名で足切りされる世界か)
政雄は、情報誌で鉛筆の丸をつけた会社名を、頭の中で一つずつ呼び出した。
掲示板の左上から順に目で追っていくと、見覚えのある名前が、いくつか視界に入ってくる。
一つ目。前世で、バブル崩壊後も看板が残っていた地方銀行。
二つ目。再編を経ても、インフラの中核として生き残っていた会社。
どちらの紙にも、「本学経済学部 指定校求人」と、小さく枠で囲んだ文字が印刷されていた。
(……あるな)
声には出さずに、胸の中でつぶやく。
紙には、募集人数と応募条件、それから「学部・学科」の欄に「経済学部」とだけ印がついていた。
その下に「推薦者名:就職課」とある。
(指定校求人。推薦を出せるのは、就職課と、ゼミの先生と)
紙を見上げながら、情報誌の余白に書いたメモを思い出す。
「指定校求人」「ゼミ推薦で行けるかどうか、要確認」
掲示板の前で、鉛筆の代わりに指先を軽く折り曲げた。
(とりあえず、ここに出ている名前の中から、本命を一つ決める)
そう思いかけて、政雄は一度その考えを押しとどめた。
(決めるのは、ちょっと待て)
頭の中で、前世の六十五歳までの記憶を一気に早送りする。
これから伸びたのは、IT関連、携帯電話事業、それに伴う半導体、ゲーム、アニメ。
どれも、自分は理系ではないから、研究職や開発エンジニアにはなれない。
けれど、業界に入って、近い場所で働くことはできる。
(ただ、どれも今は、まだ時期尚早だ)
掲示板に並んだ社名のどこにも、「情報産業」だとか「コンピュータサービス」だとかいう言葉は、まだ目立っていない。
(いま選んだ会社で定年まで働ければそれでいい。
でも、もし途中で、事情が変わったとき、今挙げた業界に行けるスキルを持っていたい)
そのために、どんな経験を積んでおくべきか。
(数字が読めて、企業の中身を見られて、システムや新しい仕組みにも近いところ)
そういう観点で、もう一度「行き先」としての会社を見なおしてから決めよう。
そこまで考えてから、ようやく政雄は、就職課のドアをノックした。
*
就職課で指定校求人の紙を確かめた翌週、ゼミが終わったあと、政雄は教室に残っていた教授に声をかけた。
「先生、ちょっと就職のことで、ご相談いいですか」
「うん? いいよ。どうぞ」
教授は黒板のチョークの粉を軽く払ってから、教壇の端に腰を下ろした。
政雄は前列の机にノートを置き、その横に立つ。
「だいたいの方向なんですけど……自分としては、公務員がいちばん堅いのは分かっています。
でも、企業の中で、お金の流れとか仕組みを作る側の仕事がしたいです」
「ふむ」
教授は腕を組んで、続きをうながすようにうなずいた。
「今後、金融インフラも、きっとコンピューターや情報通信を使った新しい形になっていくと思うんです。
そういうところにいずれ関わって、自分を磨いていけたらと考えています。
先生のゼミで勉強してきたことも、そのあたりなら一番生かせるかなと」
「公務員を完全に捨てる、というわけではないのだな?」
「はい。受けられる準備はしておこうと思います。
ただ、第一志望としては、金融かインフラのようなところで、腰を据えて働きたいです」
「なるほどね」
教授は少し目を細めて、教室の窓の外をちらりと見た。
「情報通信に近いところと言うと、経済学部から行けるのは、やはり銀行とインフラの一部だろうな。
大きな投資を回すところは、どうしてもコンピュータや情報通信の力を借りるようになるだろうから。そこで仕組みづくりに関わる部署に行ければ、君の言う“新しい形”にも近づけるはずだ」
教授は机の引き出しから、小さなメモ帳を取り出した。
「君、就職課で指定校の一覧は見たかい?」
「はい。経済学部向けの銀行と、インフラ系をいくつか見ました。
情報誌のほうでも、福利厚生とか平均勤続年数とか、数字を確認して、何社か印を付けています」
「なら、その中で“ここなら”と思うところを二、三社に絞りなさい。
うちのゼミから毎年行っている銀行と、インフラ会社が一つある。そこなら、推薦の相談には乗れると思う」
「本当ですか」
「ただし、推薦を出すとなれば、途中で簡単に投げ出さないことが前提だ。
成績と出席、それからゼミでの取り組み方は見たうえで話をするよ。
君自身も、“ここでやっていく”という覚悟がある会社を選びなさい」
「はい。それは、そのつもりです」
政雄はうなずきながら、胸の中でそっと言葉を足した。
(ここでやっていくつもりで選ぶ。
そのうえで、十年後、二十年後に何が起きても、大丈夫なだけの力を、そこで身につける)
教授はメモ帳に二つほど社名を書きつけて、切り取った紙を政雄に渡した。
「この二社は、うちのゼミからも実績がある。就職課にも求人が来ているはずだ。
まずはパンフレットと求人票をよく読みなさい。それから、また相談においで」
「分かりました。ありがとうございます」
紙を受け取りながら、政雄は、情報誌の余白に書いた「指定校求人」「ゼミ推薦で行けるかどうか、要確認」というメモを、もう一度思い出していた。
*
教授から渡された小さな紙切れ、そこには、誰もが名前を知っている都市銀行の名が書かれている。
就職情報誌と、就職課の求人票と、教授の話。
それらを頭の中で並べ直してみても、やはりこの銀行が、一番しっくりくる。
支店の窓口だけじゃなく、コンピューターとネットワークを使った新しい形の銀行。
共同のATMネットワークだとか、サービス時間の延長だとか、そういう単語が、紙の上の「将来構想」の欄に並んでいる。
(景気が良いときも悪いときも、世の中のお金の流れを間近で見ていられる場所だ)
この銀行を軸に据えるのが、一番自然だと感じた。
都銀を第一志望にする。
同じ業界から、もう二社ほどは受ける。
一つは、教授の言っていたインフラ系の会社でもいい。
けれど、あくまで中心はこの銀行だ。
数日後、再び教授室を訪ねると、教授は成績表と出席簿に一通り目を通してから、顔を上げた。
「君が本気でここを第一志望にするなら、推薦の話を進めよう。
ゼミでの取り組みも悪くないし、これから大きく崩さなければ、就職課とも話は付けられる」
「お願いします」と言って深く頭を下げる
教授室を出て、静かな廊下を歩きながら、政雄は息を一つ吐いた。
(第一志望は都銀。ほかに二社。
推薦の目処はついた。あとは、授業もバイトもいつも通りやりながら、就活の準備を進める)
*
四月の終わり、生協のレジの横に貼ってある手書きポスターの一枚が、新しくなっていた。
「お弁当配達承ります 経営学科三年 菊池」
この前まで、そこには俺の名前が書いてあった。
夕方のレジ締めが一段落したころ、政雄はポスターをちらりと見た。
「差し替えたんだな」
「はい。四月からは、私が引き継ぐって話でしたから」
菊池さんは、レジの抽斗を軽くたたきながらうなずく。
「主任さんにも、責任者が変わったなら、書き換えておいたほうがいいと言われましたから」
「そうだね…」
「そういえば、先輩は、就職どうするんですか」
「就職?」
「自分も、あと一年でここからいなくなるんだなあって思って。
その先のこと、ちゃんと考えないといけないなって」
「ああ……」
少しだけ間を置いてから、政雄はうなずいた。
「銀行を志望してる。
都銀の指定校が一つあって、ゼミの先生に相談して、推薦の話は動き始めてるところ」
「銀行ですか」
菊池さんは、思わずポスターの自分の名前に目をやった。
「やっぱり、そういうところに行く人なんですね、先輩は」
「いや、大した話じゃないよ。たまたま、ゼミとのつながりとか条件とか見ていったら、そこが一番合いそうだっただけで」
「そうなんですか」
レジ袋を畳みながら、菊池さんは小さく息を吐いた。
「自分は、まだ全然です。
とりあえず三年のあいだは、授業と、生協と、お弁当をちゃんとやって、そこから考えます」
「三年の春なら、そのくらいで普通だろ」
「そうですかね」
そう言って笑う横顔を見て、政雄は、弁当配達の看板を任せる相手としては、十分だろうと思った。
「まあ、俺のほうも、時間のある時は、できるだけ配達は手伝うよ」
「はい。よろしくお願いします、先輩」
*
都銀を第一志望に決めてから何日かたった夕方、政雄はいつものようにジャズ研の部室のドアを開けた。
古いアンプのハム音と、スネアを軽くならす音。
その奥で、同期の声がしている。
「でさあ、おまえ就職どこ受けんの?」
テーブルの向こうで、ギターとベースが向かい合って座っていた。
アンプの上には、飲みかけの缶コーヒーが二つ。
「とりあえず地銀と、親父のコネで一社。あと二つ三つは出すかな」
「適当だな、おい。もうエントリー締め切ってるとこあるぞ」
ドラムのやつが、椅子にふんぞり返ったままスティックを回した。
昨年秋から部長になった、同期の男だ。
「そもそも部長はどうすんだよ」
「俺ぁまだ三年のままでいたいんだけど、もう四年なんだよなあ」
「現実見ろよ」
そんなやり取りを聞きながら、政雄は壁際の棚から自分のケースを引き抜いた。
フックにコートをかけ、サックスを組み立てながら耳だけ会話に向ける。
「山本は?」
ギターが、ぽんと名前を出した。
「志望先、もう決めたんだっけ」
「一応、銀行を第一志望にするって話はした。都銀の指定校があってさ」
コルクグリスを塗りながら、政雄は肩をすくめる。
「ゼミの先生に推薦の話を振ってもらってるところ」
「おお、ちゃんとしてるわ」
ベースが、弦をぽんと鳴らした。
「銀行マン山本。似合うような、似合わないような」
「どっちだよ」
「昼はスーツで窓口の後ろ歩いてて、夜は場末のジャズバーでサックス吹いてそう」
「偏見だろ、それ」
ドラムが笑いながら、ハイハットをチッチッと踏む。
「でも、うちの代で都銀行きそうなの、山本くらいじゃね?」
「どうだろ。まだ全然決めてないやつ、ここにもいるしな」
ギターが自分の胸を親指で指した。
「俺、公務員試験の勉強始めるか、どっかのメーカー行くか、まだふわっとしてる」
「俺も似たようなもんだなあ」
ベースが首をかいた。
「就職情報誌はもらってきたけど、ページ開くと眠くなるんだよ」
「それはただの病気だろ」
そう言って、政雄はマウスピースをねじ込み、リードを合わせた。
「就職決まっても、いきなり全部やめるわけじゃないし。
ジャズも、できる範囲で続けたいしな」
「銀行マンやりながらジャズって、むしろカッコいいけどな」
ベースがそんなことを言う。
「どう考えても、体はきつそうだけど」
ドラムがスティックでカウントを刻むように、テーブルを軽く叩いた。
「ま、先に音出すか。就職の話ばっかしてると暗くなる」
「賛成」
ギターがストラップを回し、アンプのボリュームを少し上げる。
「じゃ、『枯葉』もう一回通そうぜ。山本、テーマ頼む」
「了解」
マウスピースを軽く噛み直しながら、政雄は立ち上がった。
就活のことも、弁当配達のことも、生協もゼミも、全部まとめて抱えたまま。
それでも、ここではただ息を入れて、音を出せばいい。
*
ゼミが終わって、教室に残っていた資料を片づけていると、教授が政雄のほうを見た。
「山本くん、卒論のテーマはもう考えてるのかい」
「ええ、まあ……ざっくりですけど」
政雄は一度だけノートを開いてから、少し言葉を選んだ。
「僕は、生協の弁当配達を例にして、情報通信と物流のつながりが、これからどう変わっていくかをまとめてみようと思っています」
教授は、机に置いたチョークを指先で転がした。
「弁当配達を、情報通信と物流の話にするわけだね」
「はい。実際にやっていた配達の流れを見ながら、注文の集まり方、仕分け、届け方を整理して、それをもう少し大きな話に広げられれば、と」
「なるほど。自分の経験を使うのはいいね。流通の現場から書き始めれば、筋も通るだろう」
「はい。まずは、配達の手順と、人の動きの流れを整理してみようと思っています」
教授は小さくうなずいた。
「テーマとしては、流通と情報の接点だな。タイトルはあとで一緒に考えよう。まずは、何を書くかを固めていくといい」
「分かりました。やってみます」
前世の記憶でアマゾンやウーバーを知っている。
やがて来るその未来を、弁当配達の延長線上として卒論にしてみようと思った。
*
六月の終わり、梅雨の晴れ間の午後。
政雄は、大学近くの会館で開かれる都市銀行の説明会に足を運んだ。
受付の前には、同じような紺のスーツを着た四年生が、名札を胸に並んでいる。
扉の横には、会社名の入った紙が一枚、立てかけてあった。
受付で名前と大学名を書き、パンフレットと簡単なアンケート用紙を受け取る。
時間になると、人事と名乗った若い行員がマイクを握り、スクリーンにスライドが映る。
全国に広がる支店網。
海外拠点の数。
預金残高と貸出残高のグラフ。
そして、「ニューメディアの拡充」「共同ATMへの参加予定」といった言葉が、淡々と説明されていく。
(やっぱり、この銀行でいい)
数字そのものよりも、その裏にある流れのほうに、政雄の意識は向いていた。
説明会は一時間少々で終わった。
*
七月に入ってすぐ、都銀の一次試験の日が来た。
会場は、説明会と同じ市民会館の大ホールだ。
筆記は、ごく普通の一般常識と簡単な論作文。
「最近気になった経済の話題を挙げ、自分の考えを述べなさい」というお題に、政雄は銀行の情報通信網の拡大と共同ATMの記事を引き合いに出して、紙を埋めた。
試験は半日で終わり、数日後、就職課経由で「面接に進んでください」という連絡が届く。
推薦組だからといって油断はできないが、ひとつ山を越えた感覚はあった。
面接は二回。
最初は、大部屋でのグループ面接だ。
志望動機、ゼミの内容、弁当配達や生協バイトの話。
用意してきたことを、ゆっくりかみ砕いて話すだけだった。
二回目は、本店での個人面接。
スーツを着て、少し早めにビルに着くと、ロビーには同じような学生が何人も座っている。
「山本さんですね。こちらへどうぞ」
名前を呼ばれて通された部屋で、三人の面接官が待っていた。
「学校の推薦をいただいているとのことですが、なぜうちの銀行なのか、改めて聞かせてください」
「はい」
政雄は、一呼吸おいてから答えた。
「お金の流れと、情報の流れが、これから大きく変わっていくと思っています。
その中で、支店の窓口だけでなく、ニューメディアを使った新しい形の銀行として、貴行が一番、積極的と感じました。
そこで自分を磨き、その力を生かしていきたいと考えています」
弁当配達の話も、少しだけ触れる。
限られた時間の中で、注文を取り、仕分けをし、届ける。
現金のやり取りを間違えないようにする。
小さな流れだが、そこから学んだことは多い、という形でまとめた。
面接官たちは、必要なことだけをいくつか確かめて、淡々とメモを取っていた。
*
八月の終わり、夏休みも半分以上が過ぎたころ、政雄は自室で待機していた。
昼前に電話が鳴った。
母が受話器を取って、すぐに政雄を呼ぶ。
「政雄、就職課から」
「はい、山本です」
受話器の向こうで、就職課の職員が少しだけ声を低くした。
「山本くん、都市銀行のほうから正式に返事が来たよ。内内定、決まりました」
一瞬、言葉がすぐに入ってこなかった。
「……はい」
「学校推薦の手続きも、これでひと区切りだね。
向こうからは、あとで正式な書類が届くはずだから、また確認しておいてくれるかな」
「分かりました。ありがとうございます」
受話器を置いてからも、しばらくそのまま立っていた。
都銀に入る。そう決めて、推薦も取って、説明会も試験も面接も通った。
頭では分かっていたはずなのに、改めて知らせが来て、ようやく少しだけ現実になった気がした。
居間のほうでは、母が夕飯の支度をしている音がする。
外からは、夏休みの終わりを告げるような蝉の声がまだ聞こえていた。
*1982年当時の就活は文中のような流れだったようです。




