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第44話 弁当配達のゆくえ

三年の冬が近づくころ、俺の一週間は、だいたい形が決まってきていた。


昼前に弁当を積んで構内を回り、昼は授業、夕方は生協のレジに立つ。


店が終わったあと、まだ体力に余裕があれば、図書館に寄ってゼミの本を一章だけ読み進める。

ゼミでは、夏から続けている課題の議論が、そろそろまとめの段階に入りつつあった。

担当箇所の訳文を見直しながら、教授のコメントをノートに書き足していく。


就職のことも、廊下の掲示板に貼られたガイダンスのポスターや、友だち同士の会話の端っこに、少しずつ混じり始めていた。

前世の記憶があるぶん、業界や会社の名前はいくつも頭に浮かぶ。

けれど、いまはまだ、口に出して誰かに話すところまではいかない。


ジャズ研の部室に顔を出すのは、週に一度あるかないかになった。

新しい部長になった同期のドラマーが、練習メニューを決めている。

俺は、その端っこでロングトーンをしながら、壁にもたれて様子を眺めているだけだ。


使っているアルトサックスは、高橋先輩から借りているものだ。

もう三年も吹き込んで、手になじみすぎてしまっている。

けれど先輩は、来春には大学を去る。いつまでも借りっぱなしというわけにはいかない。


「先輩、このサックス、そろそろ返えさないとですよね」


文化祭のあと、練習帰りに思い切って切り出すと、高橋先輩は少し首をかしげた。


「そんなに気に入ってるなら、譲ろうか? 私がジャズ研に引っ張りこんだんだもんね、安くしてあげる」


冗談めかした口調に聞こえたが、提示された金額を聞いて、政雄はすぐに計算した。

夏の米軍キャンプのバイトで受け取った報酬で、十分まかなえる額だった。


「お願いします。買わせてください」


即金で支払をして、その場で話はまとまった。

借り物だったサックスは、その日から政雄の楽器になった。


      *


生協のバイトは、相変わらず週二日のペースで続いていた。

レジ打ちと品出しの合間に、生協の主任に弁当配達の話をすることもある。


「四年になったら、就職活動と卒論で忙しくなりますよねえ。

このまま弁当も全部、自分で回るのは、さすがにきついかもしれません」


「そうだなあ。誰か下の学年で、ちゃんとやれそうな子はいないのか?」


その一言で、俺の頭の中に、自然と一人の名前が浮かんだ。


一学年下の菊池さん。

弁当配達でも、生協のバイトでも、真面目で段取りがうまい人だ。


弁当のルートの主軸を、近いうちに菊池さんに移すとしたら。

新人を一人つけて二人体制にするなら。


条件を決めて、引き継ぎを自分が三年生のうちに済ませておいたほうがいい。

そう考えて、ノートの端に、思いついたことを箇条書きで書き留めていく。

配達先のリスト、集金のタイミング、トラブル時の連絡先、報酬の決め方。


気晴らしにサックスを吹き、弁当を配り、生協のレジに立ち、ゼミの本を読み、

その合間に、前世の記憶を頼りに就職と卒論のことを少しずつ考える。


      *


三年の冬休みが近づくころ、家の中の空気が、少しだけ年末っぽくなってきた。


居間のちゃぶ台には、母が書いた買い物メモが何枚か重なっている。

父はテレビをつけたまま、黙って新聞を読んでいた。


夕飯の席で、父がふいに顔を上げる。


「四年になったら、忙しくなるんだろうな」


「うん。ゼミと就職のことと、いろいろ重なると思う」


それだけ答えると、父は「そうか」と小さくうなずいて、それ以上は何も言わなかった。


姉は、仕事から帰ってきてコートを脱ぎながら聞いてくる。


「大学のほうは? 単位とか、ゼミとか」


「単位はたぶん大丈夫。ゼミも、四年まで続けるつもり」


「じゃあ、ちゃんと寝て食べてれば何とかなるわよ」


姉らしい、あっさりした励まし方だった。


大晦日の夜は、いつもどおり家族そろってテレビを見ながら過ごした。

年越しそばは、高校のころ近所の蕎麦屋で覚えたやり方で、ここ五年ほどずっと政雄の担当だ。


夕方、予約しておいたそばを買いに行って、そばとつゆ、それにエビ天を台所の流しに並べる。

鍋に湯を沸かし、そばをさっと茹でて冷水で締め、あたためたつゆに一人分ずつよそっていく。

最後にエビ天をのせ、刻みねぎを散らして居間に運ぶ。


「やっぱり、このそば食べると一年終わった感じがするね」


母がそう言い、姉もうなずく。

父は何も言わないが、毎年きれいに一杯分をたいらげる。


テレビの画面の中で年が明けるカウントダウンが始まり、静かな除夜の鐘の音が被さる。

ちゃぶ台の上のお椀が空になるころ、政雄は自分の分の汁を飲み干して、そっと息をついた。


(来年の今ごろは、就職先がもう決まっているはずか)


そう思うだけで、胸の奥に小さな緊張が残った。


      *


元日の朝は、いつもどおり母の作る雑煮から始まった。


台所から漂ってくるだしの匂いで目が覚め、居間に顔を出すと、ちゃぶ台の上には湯気の立つ椀が並んでいる。

父は座布団にあぐらをかき、姉は寝起きのまま髪をひとつに結んでいた。


「あけましておめでとう」


母の声に合わせて、四人で形だけ新年のあいさつを交わす。


雑煮を食べ終わると、家族で近所の神社に初詣に出かけた。

境内は、毎年見かける顔ぶれで、ほどほどににぎわっている。


賽銭箱の前で手を合わせながら、政雄は短く願いごとを決めた。


(今年は就活です、体調を崩さずまた一年頑張れますように)


それだけにして、一礼して列を離れる。


      *


1982年の元日、昼前に初詣から戻ると、家の中は少しだけ静かになった。


父はこたつでうとうとし始め、母と姉は台所で残りのおせちをつまみながら、近所の話をしている。

政雄は、自分の湯のみを流しに置いてから、自分の部屋に引っ込んだ。


六畳の部屋は、冬の光がカーテン越しに薄く差し込んでいる。

学習机の上には、大学のノートと、使い慣れたボールペンが一本。

足元には、小さな電気ストーブを置き、綿入れの丹前を羽織って椅子に腰を下ろす。


(さて)


毎年の元日にやる「脳内会議」を、今年もここで始めることにした。


ノートを開き、ページのいちばん上に「四年の方針」と書く。

その下に少し間を空けて、三つの項目だけを書き出した。


一つ。弁当配達。

二つ。ゼミと卒論。

三つ。就職。


(ジャズ研と生協は、ここではいったん脇に置こう)


サックスは、もう手放すつもりはない。

高橋先輩から文化祭のあとで譲ってもらった。

生協の週二日のシフトも、続けられるかどうかは、四年の時間割次第だ。


まず、「弁当配達」の欄の横に線を引いて、「菊池さん」と書き足した。


(主軸は、もうあの人に移す前提で考えたほうがいい)


注文の締切は十時。

弁当を受け取って構内を回るのは、十時半から十一時半くらいまで。

この時間帯が、四年で就職活動が本格化したときに、いちばんぶつかる。


ノートに、箇条書きで条件を書き出していく。


配達先のリスト。

代金の集め方と、生協の主任への報告の仕方。

新人を一人つけるなら、その募集と引き継ぎの段取り。


(三年のうちに、ここまで自分で決めておいて、菊池さんと主任に話を通す)


そこまで書いてから、今度は「ゼミ・卒論」と書いた欄に目を移す。


ゼミは、四年もそのまま続けるつもりだ。

問題は、卒論のテーマをどこに置くか。


都市計画や交通の話は、三年の夏にデータ集計のバイトで触れた。

弁当配達や生協の仕事を通して見てきた、小さな流通や人の動きの感覚もある。


(自分で経験したことを、一度くらい真面目に経済学の言葉に変えてみるか)


そんな方針だけ、ノートの端にメモしておく。


最後に、「就職」と書いた欄の前で、ペンの先が少しだけ止まった。


掲示板のガイダンスのポスター。

新聞の経済面。

前世で見てきた、社会人の働き方。


(今のところ、銀行か、メーカーか、インフラか。どこも「外れ」とまでは言えない)


名前を知っている会社はいくつもある。

けれど、どこなら本当に自分が納得して働けるか、そこまでははっきりしていない。


(とりあえず手に入りそうなところに流れる、っていうのだけは、やめておく)


それだけは、前世の反省として決めておける。


(どういう働き方なら、「やり直してよかった」と思えるんだろう)


ページのいちばん下に、その問いを書き込んだ。


前世の記憶をよりどころにしながらも、この世界の条件で答えを探さなければならない。

四年生の一年間で、その手がかりくらいはつかめるだろうか。


      *


二月のある日、いつものように生協の裏で弁当を受け取り、注文ごとに仕分けが終わったころだった。


「じゃあ、俺は理工のほう回るから。文系側、お願いしていい?」


「はい、分かりました」


菊池さんはメモをクリップで留め、自分の自転車のかごに弁当を載せていく。

政雄も、かごと荷台にコンテナをくくりつけた。


「菊池さん、今日の配達が終わったあと、ちょっと時間もらっていい?」


「えっ? はい」


「生協の奥のところで」


そう約束してから、二人は別々の方向へペダルを踏んだ。


配達を一通り終え、空になったコンテナを生協の裏に戻す。

菊池さんが自転車をとめて鍵をかけたところで、政雄が声をかけた。


「さっきの話、今いい?」


「はい」


二人で奥の休憩スペースに移動し、自販機で温かい飲み物を買う。

紙コップをテーブルに置いてから、政雄は切り出した。


「単刀直入に聞くけどさ」


「はい」


「この弁当の配達、これからも続けたい?」


菊池は少しだけ考えてから、うなずいた。


「そうですね……天気が悪い日は大変ですけど、続けたいとは思ってます。

授業の時間とも合わせやすいですし、収入としても助かってますし」


「うん。それ、大事なとこだよね」


政雄はうなずき、少し言い方を選んだ。


「俺さ、今年四年になるから、ゼミと卒論と就活で、午前中に動けない日が増えると思うんだ」


「そうですよね」


「だから、どこかで弁当配達からは手を引くつもりでいる。

俺が卒業したら、この仕事自体をやめてもいいし、誰かが続けてもいい」


そこまで言ってから、真正面から問いかける。


「菊池さんは、どっちがいい?」


菊池は紙コップを見下ろしながら、少しだけ黙った。


「……もし、続けられるなら、続けたいです」


「うん」


「生協だけのバイトより、ちょっと自分で工夫できる余地がありますし。

先生たちとも顔見知りになってきて、やりがいもあるので」


その答え方に、政雄は少し肩の力を抜いた。


「そうか。じゃあ、はっきり言うと」


「はい」


「この“弁当配達システム”を、丸ごと菊池さんに譲りたい。

生協との話、注文メモの仕組み、配達先のリスト、集金と配達料の分け方。まとめて“こういう形でやってます”っていうのを渡すから」


菊池さんが顔を上げる。


「全部、ですか」


「うん。俺が始めた仕事ではあるけど、大学の中のバイトだから、誰かが続けるならそれでいいと思ってる。

もちろん、四年生のあいだは、時間の合う日は手伝うつもりだよ」


「……自分に、できますかね」


「そこは、これまで一緒にやってきて見た感じで言うけど」


政雄は、少し笑ってみせた。


「菊池さんになら、大丈夫だと思ってる。

 もし本当に“続けたい”なら、システムごと持っていってほしい」


しばらくの沈黙のあと、菊池はゆっくりとうなずいた。


「分かりました。

 じゃあ、ちゃんと教えてもらえるなら、やりたいです」


「ありがとう」


政雄はうなずいた。


「配達料のこととか、トラブルのときの決めごとは、ノートに整理しておく。

生協の主任にも一度話をして、“誰がやってもいい仕事”にしてから、正式に譲ろう」


「はい。そこまでしてもらえるなら、中途半端にはできないですね」


菊池さんの言い方はいつもどおり淡々としていたが、その奥に小さな決意のようなものがにじんでいた。


      *


「そうだ。お金の話も、ちゃんと言っておくね」


「はい」


「今は、一件あたり配達料が百円だろ。

弁当代そのものは全部まとめて生協に払って、配達料だけを俺たちの取り分にしてる」


「はい」


「で、現状はこう。

菊池さんが回ったぶんは、件数×百円の九割を菊池さん。残り一割が俺。

俺が回ったぶんは、そのまま全部、俺の取り分」


「そうですね。自分の分は九割で、先輩に一割“フランチャイズ料”みたいな感じで渡している、というか」


「そうそう。俺が生協との窓口やってるぶんの手間賃だな」


そこで一度区切ってから、政雄は続けた。


「でも、この先は話が変わる。

配達の窓口も、トラブルのときに頭下げる役目も、菊池さん側に移るわけだから」


「……はい」


「問題が起きたときの責任も、菊池さんが背負うようになる。

だったら、取り分も変えなきゃね」


菊池は、紙コップを両手で包んだまま、じっと聞いている。


「俺の案としては、俺が前に出なくなったら、配達料の決め方自体を、菊池さんのほうで決めていいと思ってる。

新人を入れるなら、その子との分け方も含めて、“こういうルールでやります”って」


「自分が、決めていいんですか」


「うん。続ける人間が決めたほうが筋が通るから。

今の九割・一割のやり方は、あくまで“こういう前例がありました”くらいに考えてくれていい」


「分かりました。

じゃあ、最初は今までのやり方を真似してみて、慣れてきたら、自分なりに考えてみます」


「それと、今使ってる自転車は、菊池さんに譲るからそのまま使ってていいよ。

その代わり管理はそっちでしてね」


政雄はそう言って、コーヒーを一口だけ飲んで、フーと息を吐く。

これで弁当配達は心配なさそうだと、ほほ笑むのだった。

*1980年頃の就活は4年生になってから始めるのが普通だったらしいです。

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