第43話 米軍キャンプの夏
夏休みの最初の朝、政雄は自分の机の上にノートを二冊並べた。
一冊は、ゼミの課題ノートだ。付箋がいくつも突き出た洋書のコピーと一緒に置かれている。
もう一冊は、八月と九月のカレンダーを書き込んだスケジュール帳だった。
八月上旬と九月の下旬には、赤いペンで小さく印がついている。
ゼミの課題で担当する章の翻訳と、その元になっている本を読み込むための日だ。
朝は、自分の部屋で辞書を片手に英文と格闘する。
昼前になって区切りがつくと、コピー用紙をクリップでまとめ、大学の図書館へ向かう。
図書館では、ゼミの先生が挙げた参考文献を探し、関連しそうな章だけを拾い読みする。
調べものに飽きてきたころ、時計を見ると、だいたいジャズ研の練習時間が近づいている。
資料を返却カウンターに預けてから、政雄は音楽棟の部室へ足を向ける。
サックスケースを開け、基礎練習をひととおり済ませたあと、部室にいるメンバーとスタンダードを何曲か合わせる。
夏の大学は、人が少ないぶん、音だけがよく響いた。
*
そんな平日の合間に、カレンダーの週末のマスには、少しずつ別の予定が書き足されていく。
八月中旬から九月中旬にかけて、日曜日の欄には、細い字で「キャンプ」とだけ記されていた。
八月の中旬、最初の日曜日の朝は、まだ薄暗いうちに家を出た。
駅前の待ち合わせ場所には、バンドのリーダーが運転する軽トラがすでに停まっていた。
荷台には、スピーカーとアンプ、折りたたみのスタンドが、毛布とロープでざっくり固定されている。
「おはようございます」
「おはよう。とりあえず、これをもう一回積み直そうか」
リーダーの指示で、モニタースピーカーの向きを変え、空いた隙間にケーブルケースを差し込む。
ロープを締め終えるころ、東の空がようやく白んできた。
高速に乗ってから一時間ほどで、キャンプのゲートに着く。
身分証のチェックを受けて中に入ると、空気の匂いが少し変わった気がした。駐車場に並ぶ車も、見慣れないナンバープレートが多い。
まずは、昼のパーティー会場に機材を運び込む。
芝生の広場に組まれた小さな特設ステージの上に、スピーカーとドラム、キーボードを手早く並べていく。
「ケーブルはここを通して。雨が降りそうなら、すぐ引き上げられるように」
リーダーの声に合わせて、政雄はライトスタンドの位置を直し、マイクを一本ずつ立てる。
セッティングが終わるころには、ハンバーガーの屋台から煙が上がり始めていた。
昼の本番は、バンドの定番曲で固めたセットだ。
政雄はステージ袖で、モニターの位置を直したり、音のバランスを確認したりしながら、必要に応じて譜面をめくる。
演奏の合間に、アメリカ人の家族連れが子どもと一緒に踊っているのが見えた。
当たり前のように英語が飛び交う空間に、まだ少しだけよそ者の感覚が残る。
午後のセットが終わると、ステージをいったん片付ける。
スピーカーとスタンドを軽トラに戻し、ケーブルをまとめてケースに押し込む。
「夜はクラブのほうだから、機材は半分でいいよ」
将校クラブには、もともと常設の音響が入っている。
そこに足りない分だけを持ち込み、ミキサーの設定を合わせればいい。
夕方までのあいだ、バンドのメンバーは基地の中のフードコートで軽く食事をとる。
政雄はやたら大きいカップのコーラを飲みながら、カバンからゼミの課題のコピーを取り出した。
「勉強熱心だね」
隣に座った若い将校が、からかうように笑う。
聞けば、アメリカの大学で経済学部を出てから日本に来たばかりだという。
「ここの訳がどうしても腑に落ちなくて」
政雄が英文の一段落を指さすと、将校はしばらく目で追ってから、ぽつりと別の言い回しを教えてくれた。
ニュアンスの違いを英語で説明されながら、頭の中で日本語の文を組み直す。
(翻訳アプリでもあれば、一発なんだろうけどな)
そんなことを一瞬だけ思いながらも、口には出さない。
日が暮れるころ、将校クラブの中は、別世界のような照明に切り替わる。
常設のスピーカーから音を出し、持ち込んだ機材をつないでチェックを済ませると、あとは本番を待つだけだ。
夜のステージは、主にリーダーたちバンドメンバーの仕事だった。
政雄は袖でモニターの音を調整し、ときどきサックスの代役に備えて自分の楽器を温めておく。
すべてのセットが終わって照明が落ちると、再び無言で撤収作業に入る。
ケーブルを巻き、スタンドを畳み、軽トラの荷台に順番に積み上げていく。
基地の外に出るころには、時計はいつも日付が変わる少し前を指していた。
エンジン音だけが響く夜の高速を戻りながら、政雄は頭の中で、その日のセットリストと、ゼミの訳文の続きを並べていた。
日曜の昼間のパーティーとは別に、週の真ん中あたりには、将校クラブの夜の仕事が入ることが多かった。
この夏の仕事の話を電話でもらったとき、リーダーははっきりと言っていた。
『うちのサックスは会社員でね。来れない日が何回か有るんだ。その日は代役を頼むから。譜面は渡すから、家で練習しておいてね』
だから政雄は、軽トラの運転と機材の搬入出に加えて、「何日かはステージに立つ役目」も引き受けていた。
平日の午後、都内のスタジオに集合して簡単に音合わせをしたあと、機材を軽トラに積み込む。
何回かそんな夜を重ねた、八月の終わりごろ。
今週の段取りを確認する打ち合わせで、リーダーがメモをめくりながら言った。
「今度の水曜と金曜はサックスが来れないから、そのつもりで準備しておいてね」
「はい、やっときます」
第二部の最後の曲が終わり、ステージ裏で楽器を拭いていると、リーダーが肩を軽く叩いた。
「ご苦労さん、まぁまぁ合格かな」
「ミスも多かったと思いますけど」
「君はプロじゃないんだ、そう硬くならなくていいよ」
短くそう言って笑う顔に、日曜のキャンプ仕事と同じ信頼の色が見えた。
九月の中旬、朝の空気に少しだけ秋の気配が混じり始めたころ、米軍キャンプでの仕事は、ひと区切りの日を迎えた。
「今回のツアーも今日でラストだな」
軽トラの荷台に最後のモニタースピーカーを積みながら、リーダーがぽつりと言う。
慣れた手つきでロープを締める様子にも、どこか名残惜しさが混じっていた。
ベースのゲートを抜け、いつもの芝生の広場に機材を下ろす。
昼のパーティーは、これまでと変わらず、ビールとハンバーガーと子どもたちの歓声に包まれていた。
何度もやってきた段取りどおりに、ステージを組み、音を出し、片付ける。
顔なじみになった基地のスタッフが、「キョウデ オワリ?」と片言の日本語で聞いてくるので、「イエス」と笑って返した。
夕方、将校クラブ前の搬入口で、最後の機材を降ろし終えたとき、リーダーが腕時計をちらりと見てから、政雄のほうを向いた。
「ここまで、一カ月ちょっと。ご苦労さん」
「こちらこそ、お世話になりました」
「運転も搬入出も、だいぶ板についてきたよ。サックスも、最初のころよりずいぶんこなれてきた」
少しだけ口元をゆるめて、続ける。
「こういう現場で、段取り分かってる人間は貴重なんだ。こっちも、かなり助かったよ」
最後のステージが終わり、深夜のクラブの明かりが落ちる。
静まり返ったフロアを横切って、スピーカーとスタンドを軽トラに戻していく作業も、今夜が最後だ。
撤収を終えて荷台のロープを締め直すと、リーダーがポケットから封筒を取り出した。
「約束してた分ね。日曜と平日、ちゃんと分けて計算してあるから」
受け取った封筒は、思っていたよりもずっしり重い。
「また何かあったら声かけてもいいかな。キャンプか、普通のライブかは分からないけど」
「そのとき自分が空いていれば、ぜひ」
「じゃあ、その約束で。山本くんの夏の“キャンプ編”、これで一旦おしまいだ」
政雄も「ありがとうございました」と言って頭を下げる。
ゲートを出て一般道に戻るころには、東の空がうっすらと明るくなり始めていた。
*
九月のキャンプ仕事が終わると、政雄は、そのままギアをゼミ課題に入れ直した。
夏のあいだ少しずつ進めていた翻訳の束を机の上に広げ、赤ペンで印をつけたところから読み返していく。
難しい言い回しの段落には付箋が何枚も重なっていた。
午前中は自宅で辞書と格闘し、午後は図書館に移動して、関連文献を追いかける。
コピー機の前には、同じようにレポートを抱えた学生が並んでいた。
ジャズ研の部室に顔を出す回数は、九月の後半にはぐっと減った。
それでも、合間を見てサックスを一時間だけ吹いてから帰ると、頭の中が少しだけ軽くなる。
そうして九月が終わり、十月になると、後期の授業が始まった。
教室に人が戻り、生協のレジ前にも、いつもの行列ができる。
休んでいた弁当配達も、後期の時間割に合わせてルートを組み直し、生協の夕方のバイトも、週二日のペースで再開した。
昼は弁当を積んで学舎を回り、午後は授業、夕方はレジ、夜はゼミの本を読むか、ジャズ研に顔を出すか。
三年の秋の一週間が、だいたいそんな具合に埋まっていく。
その十月の半ば、ジャズ研の部室で楽器を片付けていると、高橋先輩に呼び止められた。
「文化祭、今年も出るわよね?」
「いえ、自分は裏方でいいかなと思ってたんですけど」
「なに言ってるの。即席のグループでもいいから、学園祭はジャズ研の唯一の花道なんだから」
そう言って、いたずらっぽく笑う。
「余ってるメンバー集めて、曲はスタンダードでそろえればいいわ。」
結局、リズム隊はジャズ研の顔なじみで固め、管は政雄を含めた有志で小さなバンドを組むことになった。
いくつかのスタンダードを選び、短いリハーサルを何度か重ねる。
文化祭当日、そのバンドのステージは、可もなく不可もなく終わった。
大きなミスはなく、かといって、特別な熱狂が起きるわけでもない。
それでも、去年までとは少し違う落ち着きで、政雄はステージを降りた。
キャンプでの仕事と、セミプロバンドの現場を一度経験してしまうと、学内のステージは、どこか安全な場所に感じられた。
夜の打ち上げで、高橋先輩はビール片手に一言だけ言った。
「じゃあ、これで私はおしまい。あとはお願いね」
隣に座っていた同期のドラマーに、軽くグラスをぶつける。
その瞬間、部室の空気の重心が、四年生から三年生へ、すっと移ったように感じられた。
次の部長は、そのドラマーが務めることになった。
政雄は、弁当配達と生協とゼミ課題とで手一杯なのを理由に、できるだけ目立たない位置に身を置く。
就職のことを本気で考えるのは、まだ少し先だ。
それでも、ゼミの課題に取り組みながら、前世で見てきたサラリーマンたちの姿が、ふと頭に浮かぶことがある。
(どんな仕事なら、俺のリトライに相応しいのだろう)
前世の記憶を総動員して、間違えのないところを選ばなければならない。
来年の春までに、ある程度答えをみつけられるだろうか。




