第42話 大学三年の春から初夏
四月、政雄は三年生になった。
弁当の配達は順調で、生協のカウンター脇には、小さな手書きの紙が貼ってある。
「お弁当配達承ります 経済学部 山本」
電話での注文を生協で受けてもらう。
どの研究室が何個頼んだかをメモして弁当を仕分けくれるところまでが、生協の仕事だ。
そこから先、弁当をいったん受け取って、大学の建物を回りながら配達するのは、政雄個人の商売になる。
生協は配達には関与せず、責任も負わない。配達料の取り方も、どの研究室を回るかも、自分で決める。
三年の春になって、その仕事は広がりつつあった。
弁当の注文は去年よりも確実に増えている。
理工の研究棟に加えて、文系の棟や事務局からも、ときどき注文がくるようになった。
授業の時間割と突き合わせると、ひとりで回れる件数の上限が、だんだんはっきり見えてくる。
(もう少し、昼に動ける人がいたほうがいい)
そう考え始めたのが、ちょうど春学期のシフトが固まってきたころだった。
夕方のピークがひと段落して、生協の休憩室には、電気ポットの湯気だけが立っていた。
*
政雄は、紙コップのインスタントコーヒーをすすりながら、折りたたんだシフト表をぼんやり眺めている。
昼の弁当配達で学舎のあいだを走り回ったせいか、ふくらはぎに少しだるさが残っていた。
隣の椅子に座っていた一年下の女子が、おそるおそる声をかけてきた。
「山本先輩って、昼休みの前に、いつもたくさん弁当持って出ていきますよね」
顔を上げると、同じシフトに入っている経営学科の後輩、菊池さんが、紙コップを両手で包み込むように持っていた。
東北訛りはほとんど聞き取れないが、ところどころに柔らかい響きが混じる。 レジに立っているときと同じで、表情は少し硬いが、目だけはこちらをまっすぐ見ている。
「ああ、あれ。研究室とかクラブに届けてるんだよ」
政雄がそう答えると、菊池さんは一度うなずいてから、少し言いづらそうに続けた。
「生協の出前じゃ、ないんですよね」
「うん。生協は店で売るだけ。弁当をまとめて買って、俺が勝手に運んでる」
生協が配達をしているわけではないことは、菊池も薄々分かっていた。
「……今まで、ああいうやり方って、聞いたことないです」
菊池さんは、コップのふちを指先でなぞりながら言った。
「店の人でもなくて、お客さんでもなくて、その間に入ってる人、っていうか。なんか、授業で聞いた話とちょっと似てるなって思って」
経営学科らしい言い方だな、と政雄は思う。
仲介、物流、中抜き。 どこかで聞いた単語が、ぼんやりと頭の端に浮かんだ。
「まあ、俺としては、昼にちょっと動いて配達料をもらってるだけなんだけどね」
そう言うと、菊池は小さく首をかしげた。
「昼だけで終わるバイトって、いいですね」
その一言には、少しだけ本音がにじんでいた。
仕送りは多くなくて、夜はすでに別のバイトで埋まっていること。
奨学金も借りていて、「もう少しだけ稼げたら、実家にも迷惑かけずにすむのに」と本気で思っていることを、以前の雑談で聞いた覚えがある。
「……あの、山本先輩」
少し間を置いてから、菊池が顔を上げた。
「もし、そういう配達を手伝う人を増やすことを考えているなら、なんですけど」
「うん?」
「昼前だけなら、私も動けます。自転車は持ってないんですけど」
最後の一言だけ、少し早口になった。 自分から仕事の話を売り込むのに慣れていないのが分かる。
政雄は、紙コップを机に置いた。
「午前中、どれくらい空いてるの?」
「三年生の必修がまだ少ないので、午前は週に三日くらい、授業がありません。午後と夜は、もう別のバイトとか、ゼミの準備とかで埋まってるんですけど」
言いながら、自分の時間割のコピーをカバンから取り出して見せる。
マーカーで色が塗られた午後と夜のコマと、真っ白な午前中のコマが、はっきり分かれていた。
昼だけのバイトでいい人。
真面目で、遅刻や無断欠勤をしなさそうな人。
雨でも「行くと決めたら行く」タイプ。
政雄が頭の中でなんとなく考えていた条件に、菊池はかなり近かった。
「自転車は……まあ、そこはこっちで何とかするよ」
政雄は、生協の裏手に並んだ放置自転車の話を、主任から聞いたことを思い出しながら言った。
「昼前だけでいいなら、話をもう少し詰めてみようか」
そう告げると、菊池はほっとしたように小さく息を吐き、ほんのわずかに口元をゆるめた。
「お願いします」
その一言だけは、レジのときより少し柔らかい声だった。
弁当配達の人手を増やす目途がついたころ、政雄はもう一つ、別の場所で数字と向き合っていた。
*
交通量調査の集計を始めて三日目の夕方、政雄は机に突っ伏したくなる欲求を、なんとかこらえていた。
交通手段ごと、時間帯ごとに数字を書き写し、電卓で足していく。 同じような桁の数字を、何度も何度も目で追ううちに、頭の中の感覚がぼやけてくる。
「……こんなの、表計算ですぐ終わるのにな」
気づけば、独り言が口をついて出ていた。
「表計算?」
向かい側の机で別の資料を見ていた院生が、顔を上げた。
「今、何て言った?」
「あ、すみません。つい」
政雄はペンを置き、少し考えてから続けた。
「こういう数字の並びって、縦と横にマス目を決めておいて、機械に足してもらえれば楽だなと思っただけです」
「縦と横?」
「たとえば、横に時間帯を並べて、縦に交差点や方向を一行ずつ置いていくんです」
机上の紙を指でなぞりながら、政雄は言葉を選ぶ。
「ここでいうと、この紙の一番上の段が『北向き』で、左から七時台、八時台、九時台……って並べてますよね。
これを“横にA列B列C列”みたいに決めておいて、縦に“1行目がバス、2行目が乗用車”って決める感じです」
「ふむ」
「で、右端に一つマスを作って、そこに『この行の最初から最後まで足せ』って決まりごとを書いておけば、その交差点の一日分の合計が一度に出ます。列ごとの合計も同じで、『この列の上から下まで足せ』って決めれば、時間帯ごとの台数も勝手に計算してくれます」
院生は、手元の電卓と紙の一覧表を見比べた。
「……つまり、一日分の“ひな形”を一枚作っておいて、そのマス目に数字だけ入れれば、行と列の合計は勝手に出てくる、ってこと?」
「そうです。いまは一日ごとに紙を変えて、毎回同じ計算を電卓でやってますけど、マス目の並びを一回決めてしまえば、一週間分でも同じ形で数字を入れていけます」
「グラフはどうする?」
「時間帯ごとの合計が横にずらっと並んでいれば、方眼紙の横軸を時間、縦軸を台数にして、座標に点だけ打てばいいです。あとは定規で線を結べば折れ線グラフになりますし、棒グラフも同じ場所に線を引くだけです」
院生はしばらく黙ってから、ふっと笑った。
「なるほど。それは使えるかもしれない」
「大学のコンピューターで、そういう“マス目に数字を入れるだけで足してくれる仕組み”って、作れないんですか」
言いながら、政雄は少しだけ不安になる。 自分は前の世界で見たやり方を、ただ思い出しているだけだ。
院生は、研究室の隅の端末のほうをちらりと見た。
「メインフレームの話だね。詳しい仕組みは分からないけど、行と列の決まりごとをコンピューターに覚えさせることくらいなら、先生なら考えてくれるかも」
そう言って、にやりと笑う。
「この話、今度の打ち合わせのときに先生に出してみるよ。“表計算”ってやつの考え方、もう少し紙に描いてくれる?」
「はい。縦に1、2、3、横にA、B、Cって書くところからでよければ」
政雄は、新しい紙を引き寄せた。 鉛筆の先が、白い紙の上に小さなマス目を描き始める。
先生登場とひな形づくり
週明けの午後、地域デザインの研究室に弁当を届けると、いつもと違う人が会議用の机の端に座っていた。
グレーのスーツに細い縁の眼鏡をかけた中年の男性が、政雄のほうを見て軽く会釈する。
「君が、交通量調査の集計を手伝ってくれている山本くんかな」
弁当を並べ終えたところで、隣にいた院生が紹介した。
「はい。経済学部の山本です」
「地域デザインの○○です」
教授は自分の名前だけ名乗ると、机の上の紙を指さした。 そこには、政雄が先日描いた「ABC×123」のマス目のラフ図が置かれている。
「これ、君が考えたひな形のイメージだそうだね」
「ああ、それは……。一日分の交通量を、時間帯と交通手段ごとに並べたら、集計が楽になるかなと思って描いただけです」
「電卓で同じ足し算を何度もやるのが嫌になったわけだ」
眼鏡の奥で、教授の目が少しだけ笑う。
「正直、はい」
政雄も苦笑いで返す。
「行と列ごとに合計を出せるようにできたら、計算間違いが無くなるだろう、と」
「はい。それと、一週間同じ形の表がそろっていたほうが、あとから比べやすいと思いまして」
教授はうなずき、紙を指で軽くたたいた。
「発想としては、我々がメインフレームにやらせている処理とあまり変わらない。行と列に意味を持たせて、決められたマス目の数字を足し合わせるだけなら、コンピューターは得意だ」
研究室の隅に置かれた端末に、視線が向かう。
「学内の計算センターに、簡単な“マス目に数字を入れる仕組み”を作れないか相談してみたよ。行番号と列記号を指定して合計を取るくらいなら、用意できるそうだ」
「そんなことまで、してもらえるんですか」
「我々としても、調査が何日も続くたびに計算ミスが無いかを確認するのは、手間だからね」
教授は立ち上がると、端末の前まで歩いた。
「山本くん、少しだけ付き合ってくれないか。入力のテストをしてみたい」
端末の画面には、味もそっけもない英数字が並んでいる。 教授が手早くコマンドを打ち込むと、
「ROW?」「COL?」「VALUE?」
と三つの問いが順番に表示された。
「さっき君が描いてくれた表でいうと、行が通行手段、列が時間帯だ。ここで『ROW=1、COL=A、VALUE=12』と入れれば、“A1に12台”という意味になる」
教授が説明しながらキーボードを叩く。
「そのあとで『SUM ROW=1』と指示すれば、その行に入った数字の合計が返ってくる。『SUM COL=A』なら、列の合計だ」
画面に「ROW1= 35」と味気ない数字が表示された。
「こんな感じで、一日分のマス目を埋めていけば、行と列の合計は機械がまとめてくれる。グラフ用の値も、そのまま取り出せる」
教授は椅子を少し横に引いた。
「実際に数字を入れていくのは、君たち学生にお願いしたい。紙の調査票から数字を拾って、行と列の番号を指定するだけの単純作業だがね」
「紙と電卓よりは、ずっと楽だと思います」
政雄は、端末の前の椅子に座り直した。
「一日分のひな形を決めてしまえば、一週間分でも同じ形で入れていけますし」
「そうだ。ひな形を一度考えればいい、というのが大事なんだ」
教授は満足そうにうなずいた。
「こういうのは、我々教員よりも、現場で手を動かしている学生のほうが、先に気づくことが多い。いい目のつけどころだよ」
思いがけず、真正面から褒められた。
「いえ、自分はただ、前にどこかの本で見たやり方を思い出しただけで」
「それをここで言葉にしてくれた時点で、十分な貢献だ」
教授のその一言に、政雄は少しだけ背筋を伸ばした。
紙と電卓で三日かかっても終わりが見えなかった作業が、 ひな形とマス目と、簡単なソフトひとつで、一気に片付くかもしれない。
*
弁当配達と表計算のひな形づくりで、大学の中の足場は少しずつ固まってきた。
だが、夏休みのページに書かれた「その他」の欄だけは、まだ空白のままだった。
夏のバイトを探す
七月に入っても授業は続いていたが、友人たちの話題はもう夏休みのことが多くなっていた。
「うちは実家が商店だから、帰ったら普通に店の手伝いだな」
「俺は海の家でバイトする。高校のときからの流れで」
「短期の塾講師の募集が出てたぞ。時給高いらしい」
そんな会話を、学食の端で聞きながら、政雄は自分のノートをまた開く。
夏休みのあいだに見込めるバイト代と、通学定期代と自分の生活費などの出費。
(夏休みならではのバイトは無いものか)
ページの「その他」の欄に、そう書き足す。
*
ある日の夕方、政雄は自宅の自分の部屋で、机の上にノートを広げていた。
七月と八月のカレンダーには、生協と弁当配達が止まる夏休みの期間が、ぽっかり空いたままだ。
集計バイトとジャズ研の予定だけが、ところどころに書き込まれている。
ページの下に作った「その他」と書かれた欄を、ペン先でぼんやりと囲んでいたとき、廊下に置いてある黒い固定電話のベルが鳴った。
母親が受話器を取る声がして、すぐに「政雄、あんたに電話よ」と呼ぶ。
「はい、山本です」
受話器を受け取ると、落ち着いた低めの声が返ってきた。
『山本くん? 久しぶりだね』
去年、サックスの代役で何度も一緒にステージに立った、あのセミプロバンドのリーダーの声だった。
『今、少し時間あるかな』
「はい。大丈夫です」
『仕事の話なんだけど』
言葉を選ぶように、少し間が置かれる。
『今年の夏、米軍キャンプから演奏の依頼がいくつか来そうなんだ。東京と神奈川のキャンプで、昼間のパーティーと、夜の将校クラブでの演奏が中心になる』
「米軍キャンプ……ですか」
『うん。そこで山本君に、頼みが有るんだけど』
紙をめくるような音が、受話器ごしに聞こえた。
『こっちで用意する軽トラの運転と、機材の搬入出。あとうちのサックスが来れないときの代役なんだけど』
政雄は、思わず姿勢を正した。
『八月から九月にかけて、何回か。基本は日帰りで、昼間の回と夜の回が混ざると思う。車を運転できて、ある程度吹けるのが一人足らないんだ』
『ギャラは、ふつうのライブよりはだいぶいい。大学生の夏のバイトとして見ても、かなりいいほうだと思うよ』
『全部の回に出てもらう必要はない。君にも予定があるだろうから、日程は相談しながら決めよう。ただ、機材の搬入出要員が必要なんだ』
少し声がやわらぐ。
『去年、代役を頼んだ時に、きちんと譜面をさらってきてくれただろう。ああいう準備をしてくれる人には、また声をかけたくなるんだ』
ノートの「その他」と書かれた空欄が、頭の中でゆっくりと埋まっていく。
『どう、やる気ある?』
昼間のサマーパーティーと、夜の将校クラブ。
英語が飛び交うキャンプの中で、他のバンドの演奏も見られて、ときには自分も吹く。
そして何より、夏のあいだ続ける「バイト」として、きちんとお金になる。
(この夏は、これしかないな)
気づけば、政雄はそう思っていた。
「……詳しい日程を教えてもらえますか。できるかぎり入れるように調整します」
そう答える自分の声が、思っていたよりも落ち着いているのを聞きながら、
政雄は、ノートの「その他」の欄に、心の中で大きく丸印をつけた。
*1981年当時大学三年生は、ほとんど就活をしていませんでした。




