第40話 ブラスロックと文化祭の顔ぶれ
九月の終わりごろ、バンドのサックスが戻ってきた。
事故で腕を折っていた正規メンバーが、ようやく復帰したのだという。
スタジオに顔を出すと、ギプスはもう外れていたが、まだ完全ではなさそうな動きで楽器ケースを開けていた。
「世話になったね」
そう言って、彼は頭を下げた。
年上の男に頭を下げられるほどのことをした覚えはないが、夏のあいだ、空いた席を埋めたのはたしかに自分だ。
最後の一回だけ、一緒に数曲を合わせた。
プロに近い音の太さと、リズムの乗り方。
同じ楽器を吹いているはずなのに、音の重さがまるで違う。
隣で吹きながら、二か月前の自分なら、もっと縮こまっていただろうと思う。
今は、下手は下手なりに、ここで音を出してもいいのだと感じている。
セミプロの人たちと、二か月近く演奏した。
人前で吹くときの緊張や、ちょっとしたミスが全体の空気を変える怖さ。
それでも、うまくはまったときに、ステージと客席の温度が同時に上がる瞬間の楽しさ。
それらは、ジャズ研の練習室ではなかなか味わえないものだった。
「今回は助かったよ、また何かあったら声かけるよ」
ギタリストが、そう言って手を振る。
俺は「お願いします」と返して、地下のスタジオをあとにした。
夏が一つ終わったのだと感じた。
大学に戻ると、学内の空気はいつもの九月のそれに戻っていた。
生協も通常営業に切り替わり、弁当コーナーには再びぎっしりとパックが並ぶ。
昼の配達も、ゆっくりと再開した。
夏のあいだに、ほんの少しだけ変わった自分が、同じ講義棟と食堂のあいだを、夏休み前と同じように自転車で走る。
それでも、目を閉じれば、ライブハウスの照明の明るさと、ステージの熱がすぐによみがえった。
授業も始まり、ミクロ経済やほかの科目の板書が、黒板をいつものように埋めていく。
需要や供給の線を見ても、前より少し落ち着いた気持ちでいられた。
そんなある日の放課後、ジャズ研の部室代わりの教室に顔を出すと、高橋先輩が窓際の机に腰をかけて待っていた。
テナーサックスのケースを横に置き、髪をひとつにまとめた女性の先輩が、片手をひらひらと振る。
中学の吹奏楽部でサックスを吹いていたときからの先輩で、俺をこのジャズ研に引っぱり込んだ張本人だ。
「山本くん、いいところに来た!」
柔らかい声に呼ばれて、机の前まで歩いていく。
教室の真ん中では誰かがチューニングの音を出しているが、まだ本格的な練習は始まっていない。
「文化祭の話、ちゃんとしとかないとなと思ってさ」
先輩の前の机には、紙が一枚広げられていた。
いくつかの曲名と、その横にメンバーの名前が書き込まれている。
「今年、ブラスロックっぽいバンドを一つやろうって話になってるんだ。トランペット、サックス、トロンボーンに、ギターとベースとドラム。それと、女性ボーカル」
指で紙の上をなぞりながら、先輩が編成を読み上げる。
「で、サックスはテナーが私で、アルトでもう一人。山本くん、入ってくれないかなって」
言葉が、思ったよりあっさりと出てきた。
去年の夏には、こんな誘いはなかった。
そもそも、自分がその対象になるとも思っていなかった。
「ブラスロックって、ああいうやつですか」
頭の中で、テレビやラジオで聞いたことのある曲の断片をたどる。
管楽器とエレキギターが、同じくらいの音量で前に出てくる、派手なやつだ。
「そうそう。ジャズというより、ロック寄り。歌も入るし、文化祭のステージ向きだと思うんだよね」
先輩は笑って言う。
トランペット、サックス、トロンボーン。
中学の吹奏楽部で吹いていたマーチとも違う並び。
夏にライブハウスで経験した、大人のジャズバンドとも違う。
そのどちらからも少し距離を置いたところにある、ポップで分かりやすい音楽。
文化祭には、ちょうどいいのかもしれない。
「文化祭だけのバンドだからさ。終わったら解散。気楽にやれると思うよ」
先輩は、そう肩の力を抜くように言葉を足した。
去年の文化祭を思い出す。
そのころの俺は、ジャズ研の端っこにいるだけで精一杯で、ステージに上がることなんて考えもしなかった。
夏はバイトで埋まっていて、練習にもろくに出られなかった。
今年は違う。
夏に外のバンドで吹いて、人前で音を出す怖さと楽しさを、少しだけ身をもって知った。
技術はまだまだだが、「やってはいけない場所」からは、もう抜け出している。
「他に、アルトでやりたいって言ってる人はいるんですか」
念のために聞いてみると、先輩は首を振った。
「今のところ、はっきり手を挙げてる子はいないかな。何人かには声かけたんだけど、みんな授業とか就活とかで忙しいって言ってて」
「就活」という言葉が、少し遠くから聞こえる。
まだ二年の自分には、来年以降の話だ。
紙の上のメンバーの名前を見下ろす。
トランペット、トロンボーン、ギター、ベース、ドラム、ボーカル。
知っている顔もあれば、名前しか知らない人もいる。
文化祭だけのバンド。
その言葉が、妙に気楽に聞こえた。
「……じゃあ、やってみます」
自分の声が、思ったよりすんなりと出た。
高橋先輩が、にっと笑ってボールペンを手に取る。
紙の「サックス」の欄に、「山本」と書き足される。
たった二文字だが、そこには去年にはなかった位置があった。
「よし。じゃあ曲は、ロック寄りのやつを何曲か選んどくね。山本くんは、まず譜面をさらうところからかな。夏に外で鍛えられたんでしょ? けっこう期待してるから」
「そんな大したもんじゃないですけど」
そう言いながらも、心のどこかで、ライブハウスの照明と、八つのコードがぐるぐる回る中で吹いたあの感覚を思い出していた。
中学の吹奏楽部で味わった「全員で同じ譜面を吹く」楽しさ。
外のジャズバンドで感じた、「その場で音を作っていく」怖さと高揚。
今度は、そのどちらとも少し違う音楽を、学内のステージで試すことになる。
文化祭のポスターが、まだ白紙のスペースを残したまま掲示板に貼られている。
そのどこかの時間に、自分がサックスを構えて立つのだと思うと、胸の奥が少しだけざわついた。
授業と配達とバイトのあいまに、新しく「文化祭の練習」という時間が割り込んでくる。
再び動き出した二年の秋は、少しずつ忙しくなり始めていた。




