表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/60

第39話 夏の朝、部活の顧問とジャズ版カノン

夏休みに入ると、朝の家の空気が少し変わった。

授業がないぶん、目覚ましを一段階遅くしている。

台所のテーブルには、すでに父が読み終えた新聞が広げられていた。


遅めの時間に起きて、水を一杯飲んでから、その新聞を引き寄せる。

政治面と経済面をざっと眺めて、株価の欄を流し読みする。

前世では、こういう数字にはほとんど興味がなかった。

新聞もろくに読まずに流していたものを、今ではすっかり習慣になっている


紙面をめくっていると、廊下のほうがばたばたとにぎやかになる。

中学の英語教師になった姉が、鞄を肩に掛け、髪をひとまとめにしながら、そそくさと玄関に向かっているところだった。


「そんなに急いでどこ行くの?」


思わず声をかけると、姉が片手だけ振ってこちらを見る。


「学校、部活があるからね」


「夏休みなのに?」


「夏休みだからこそ、よ。テニス部、試合もあるし」


そう言いながら、靴をつっかける。

その背中に、少しだけ呆れたような気持ちで問いかける。


「テニスなんて、やったこともないくせに」


「顧問って、ボール打つより見てる時間のほうが長いの。テニスは生徒に任せて、私は安全管理が仕事なのよ」


そう返して笑い、バタンと玄関のドアを閉めて出ていった。


新聞の活字を目で追いながら、教師の夏休みというものも、なかなか楽ではないのだなと思う。

前世では「先生はいいよな、夏休みが長くて」と、心のどこかで不公平に感じていた時期もあった。

今は、家から出ていく姉の背中を見ていると、単純な話でもないのだと分かる。


姉が部活の顧問で夏休みも走り回っているあいだ、俺はというと、少し違う夏を迎えようとしていた。


生協は夏休み中、営業が変則になる。

売店そのものが休みの日もあれば、短時間だけ開く日もある。

昼の弁当コーナーは、ほとんどの日で閉まると知らされた。


当然、弁当配達はお休みだ。

配達がなければ、昼に走り回る必要もない。

夕方のレジ打ちのバイトも、シフトが無くなる。


去年の夏は、この空白を埋めるために、別のバイトを詰め込んだ。

自動車学校の費用という、はっきりした目標があったからだ。

「あといくら必要か」が決まっていたので、とにかく働けばよかった。


今年は、そこまで切羽詰まった金額はない。

だからといって、まったく何もしないわけにもいかないが、少なくとも「がっちりバイトで埋める」必要はない。


午前中は家で本を読む時間が増えた。

ミクロ経済の教科書を読み返し、需要と供給の章をもう一度なぞる。

弁当配達のことを思い浮かべながら、価格と量のグラフを頭の中で組み替えていく。


午後は、短期のバイトを少しだけ入れた。

日雇いの軽作業や、学校図書館の整理の手伝い。

去年ほどではないが、何日か働いておけば、秋以降の生活にも余裕ができる。


そんなふうに、夏休みの最初の何日かは、穏やかに過ぎていった。


変化があったのは、ある日の夕方、ジャズ研の先輩から電話をもらったときだ。


「ちょっと相談があるんだけどさ」


受話器の向こうの声は、いつもの緩い調子だった。

ただ、その中に少しだけ焦りのようなものが混じっている。


先輩は、大学のジャズ研とは別に、外でバンドにも入っている。

夜はときどきライブハウスで演奏していると、前に聞いたことがあった。


「うちのバンドのサックスの人がさ、事故で腕を折っちゃってさ。しばらく吹けないんだよ」


そこで、先輩は少し間を置いてから続けた。


「で、だ。代わりにちょっと手伝ってくれないかなって話なんだけど」


話を聞けば、平日の夜に何日か入っている店で、サックスの穴を埋める必要があるという。

完全なレギュラーではなく、あくまで「しばらくのあいだ」だが、それでも何曲かを受け持てる人間がほしいらしい。


「俺なんかで務まりますかね」


そう口では言いながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。

ライブハウスで吹くというのは、ジャズ研の練習室とはまったく違う場所だ。


「とりあえず一回、練習に来てみてよ。合わなかったら、そのときはそのとき」


先輩はそう言って、練習の日程と場所を教えてくれた。


数日後、言われた住所を頼りに、そのライブハウスの地下のスタジオに向かった。

狭い階段を降りると、外とは違う温度と匂いがまとわりついてくる。

壁には、これまでに出演したバンドのポスターが、ところ狭しと貼られていた。


スタジオの中には、ドラムセットとピアノ、ベースアンプ、ギターアンプ。

先輩のトランペットのケースと、何本かのマイクスタンドが並んでいる。

初対面のメンバーたちが、それぞれ軽く自己紹介をしてくれた。


「じゃあ、とりあえず何かやってみようか」


バンドのリーダーらしいギタリストが、そう言って俺を振り向く。

手にはタバコではなく、譜面とボールペン。

声は落ち着いているが、こちらの腕前を測ろうとしているのが分かる。


「スタンダードでいいから、一曲。『枯葉』は吹ける?」


譜面台に置かれた「Autumn Leaves」の譜面。

ジャズ研でも何度か合わせた、いちばん手堅い選択肢だ。


ピアノがイントロを弾き、ベースが乗ってくる。

四小節のあと、こちらに視線が向いた。


深く息を吸って、メロディを吹き始める。

譜面どおりに、丁寧に、外さないように。

知らない人たちの前で音を出すのは、やはり緊張する。


テーマを一周し、簡単なアドリブを一周くらい回してから、もう一度テーマに戻る。

最後まで吹ききって、息を吐いた。


スタジオの空気が少しだけ緩む。

悪くはなかった、という手応えはある。

だが、ギタリストは少し首をかしげた。


「うん、ちゃんと吹けてる。ちゃんとしてるんだけどさ」


そこで、言葉を選ぶように続ける。


「もうちょっと、何か面白いの、ない?」


技術の問題ではなく、「この場でやる意味」のようなものを求められているのだと分かる。

前世で何度か見た、ライブハウスの空気を思い出す。

ただ譜面をなぞるだけなら、レコードを流しておけばいい。


何か、別の切り口。


頭の中で、いくつかのコード進行がよぎる。

その中に、前世のネット上でやたらと流れていたロック版カノンの音が浮かんだ。


もともとはクラシックの曲だが、そこから派生した、メタルロックアレンジの動画。

コードがぐるぐる回り続ける上に、派手なフレーズが乗っていた。


「あの進行なら、誰でも耳に残ってるはずだ」


そう思って、ピアノとベースに声をかける。


「ちょっと、八小節だけ試してもらっていいですか」


譜面の裏に、ざざっと八つのコードを書き込む。


「この八個のコードで、ぐるぐる回してもらえます?」


ピアニストが「お、あれか」と小さく笑った。

ベーシストも、すぐに指板の位置を確かめてうなずく。


カウントが入り、ピアノとベースが簡単なコンピングを始める。

その上に、サックスを乗せる。


最初の四小節で、原曲のメロディをうすくなぞる。

あからさまにそのまま吹くのではなく、ところどころ崩しながら、「知っている人には分かる」くらいの距離感で。


次の八小節で、少しずつフレーズを増やしていく。

ロック版カノンのギターソロの勢いを思い出しながら、それをジャズのフレーズに置き換えていく感覚。


ドラムが自然に入ってきて、リズムを押し出してくる。

ピアノが、こちらのフレーズに合わせてコードを厚くしてくれる。

ベースが、進行を崩さないように土台を支える。


気づけば、八小節どころか、何周も回していた。

ギタリストも、途中から薄くバッキングを入れてくれている。

スタジオの空気が、さっきとは違う熱を帯びていた。


最後の一周で、少しだけ音数を減らし、ゆっくりとフレーズを着地させる。

Dに戻って終わると、スタジオの中に小さな拍手が起きた。


ギタリストが、口の端を上げて笑う。


「技術は、まだまだこれからって感じだけどさ」


そこで、少し真面目な声になる。


「今のは、すごく良かったよ。こういうの、もっとやってほしい」


先輩も、横でうなずいている。


「じゃあ、とりあえずさ。平日のうち、何日かだけでも手伝ってもらえる?」


正式なメンバーというより、「しばらくのあいだの助っ人」という立ち位置だろう。

それでも、ライブハウスのステージに立つ機会があるというのは、大きな経験だ。


「はい。夏休みのあいだなら、何日かは出られると思います」


そう答えると、ギタリストは「よろしく」と手を差し出した。


こうして、夏の夜に、もう一つの居場所ができた。


昼間は、本を読んだり、少しだけバイトに出たりする。

ジャズ研の部室で、文化祭の話が少しずつ進んでいくのを横目で見ながら、自分の名前を紙に書くかどうか、まだ決めかねている。


そして夜には、ときどきライブハウスの地下で、前世の記憶のどこかから引っ張り出してきたコード進行を、今の指でなぞっている。


姉がテニス部の顧問として、真夏のコートに立っているころ。

俺は涼しい地下のスタジオで、別の形で「部活の延長みたいな」時間を過ごしていた。


夏休みの真ん中で、大学生としての毎日と、ちょっとだけ外側の世界が、つながり始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ