第4話 土曜日の午後
玄関がガラガラと開く音がして、しばらくしてから「ただいま」という低い声が聞こえた。
母の「おかえりー」という明るい返事。
そのあと、台所で水道の蛇口がひねられる音と、手を洗う水の音が続く。
どうやら、父が帰ってきたらしい。
やがて、母の声が廊下に響いた。
「はーい、お昼だよー。まさおも幸も、ちゃぶ台のとこ集合ー」
俺は部屋を出て、ちゃぶ台のある六畳間に向かった。
ちゃぶ台の上には、大きなガラス鉢に山盛りのそうめん。
氷がいくつか浮かんでいて、ところどころ麺が透き通って見える。
刻んだきゅうりとねぎ、それから薄切りのハムが、母なりの「ごちそう感」を出していた。
この時代のうちの懐具合で、昼に炊き立てご飯を出すのは、ちょっとした行事の日くらいだ。
夏の土曜の昼と言えば、そうめんが普通。
腹をふくらませるのが目的で、贅沢なんて言葉はどこか遠くの世界のものだった。
そう思い出しながらも、箸をつけた瞬間、素直に「ああ、うまいな」と思った。
冷たい麺と、しょっぱいつゆ。
窓から吹き込む生ぬるい風。
扇風機が弱々しく首を振って、ちゃぶ台に座る四人の汗をなんとかしのがせている。
タオルで手を拭きながら、父が上がってきた。
作業着の襟元を少しだけはずし、額にはまだ汗が残っている。
背は中くらい、体つきも中くらい。
どこからどう見ても「工場勤務のお父さん」という感じの男だ。
「おかえりなさい」
母と幸がほぼ同時に言う。
俺も慌てて、「おかえり」と小さく付け足した。
父は「おう」とだけ短く返事をして、ちゃぶ台の自分の席に座る。
「いただきます」
母の声に合わせて、四人で手を合わせた。
父は黙ってそうめんを口に運ぶ。
噛むまでもないものを、なぜかゆっくりと味わっている。
つゆを一口すすってから、ようやくぽつりとつぶやいた。
「うん。うまい」
それだけ。
けれど、その一言で、今日もちゃんと働いて、ちゃんと腹を空かせて帰ってきた人間なんだな、というのが分かった。
「お父さん、お疲れさま」
幸が冷やした麦茶を渡しながら言う。
「うん」
父は相変わらず短くうなずくだけだが、少しだけ口元がゆるむ。
しばらくは、箸と器の音と、ラジオの野球中継だけが部屋に流れていた。
やがて、そうめんをおかわりしたあとで、父がふっと顔を上げた。
「明日な」
唐突に口を開く。
「会社の連中と、川行ってくる」
母が、「ああ」とすぐに察した顔をした。
「釣りね」
「おう」
父の声が、ほんの少しだけ弾んだ。
「早起きして行ってくる。ウキも新しいの買ったしな。明日はきっと釣れるぞ」
そう言いながら、箸を置くと、もう立ち上がりかけている。
「ちょっと、お父さん。まだ残ってるでしょ」
母が笑いながらたしなめる。
「食ったら、道具、手入れしとく」
父はそう言って、残りのそうめんをかき込んだ。
食べ終わったちゃぶ台の上に、今度は大きな皿が運ばれてくる。
「さあ、デザートね」
母がそう言って置いた皿には、真っ赤なスイカが三角形に切り分けられて並んでいた。
黒い種がきれいに並んでいて、皮のぎりぎり手前まで赤い。
テラミスも、サーティーワンも、ここにはない。
コーラは、まだ「子どもががぶがぶ飲むもの」ではなく、どちらかといえば特別な日の大人の飲み物だ。
この家では、夏にスイカが出てくれば、それが立派な「デザート」だった。
「わあ、スイカだ!」
幸が一番に声を上げた。
さっきまで「まさお、宿題しなさいよ」なんて小言を言っていた十三歳の顔が、一瞬で子どもの顔に戻る。
目をきらきらさせて、一番手前の一切れに手を伸ばした。
「幸、種ちゃんと出して食べなさいよ。お腹の中で芽が出るからね」
母がお決まりの冗談を言う。
「出ないってば。それ小さい子に言うやつでしょ」
口ではそう言いながら、幸はちゃんと種をほじくり出して、ちゃぶ台の端の皿に集めている。
皮の白いところまできれいにかじり取って、「あー、おいしい」と嬉しそうに笑った。
俺も一切れ手に取って、がぶりとかじる。
冷蔵庫の冷え方なんて今ほどじゃないから、キンキンに冷えているわけではない。
それでも、口に入れた瞬間に、甘さと水気がじゅわっと広がる。
「お母さん、今日のスイカあたりだね」
「でしょ。八百屋さんがおまけしてくれたのよ。『お姉ちゃんにどうぞ』って」
「え、ほんと?」
「ほんとほんと。幸が外出るとき、いつもニコニコ挨拶するからねえ」
母が大げさに言うと、幸は「もー」と照れくさそうにしながらも、まんざらでもない顔をしている。
その横顔を見て、胸のどこかがきゅっとなった。
父と母にとって、幸はかわいい「長女」だ。
生まれる前に一度は諦めかけて、それでも生まれてきてくれた、かけがえのない娘。
けれど俺にとっては、感覚が少し違う。
中身六十五歳の俺から見ると、
十三歳でスイカ一切れにこんな顔をする幸は、ほとんど孫みたいに見える。
しっかり者ぶって小言を言い、内職を手伝い、釣りに浮かれる父にツッコミを入れる。
それでいて、スイカが出てきただけで、こんなふうに目を輝かせる。
「……かわいいな」
気づけば、心の中でそうつぶやいていた。
前の人生では存在しなかったはずの姉。
本来なら流産して、この世に生まれてこなかったはずの命。
この世界では、その姉が、スイカの一切れでこんなに嬉しそうに笑っている。
「なに、まさお。スイカ食べないの? 早くしないと、お父さんに食べられちゃうよ」
「食うぞ」
父が短く言う。
「三角の大きいやつからな」
「だめ。あれはあたしの」
幸が慌てて皿を抱え込む。
父がわざとらしく「ちぇっ」と言ってみせて、母がまた笑う。
スイカの赤と、扇風機の風と、ちゃぶ台の笑い声。
安っぽくて、どこにでもあるような夏の昼下がりの光景だ。
それでも、六十五歳で年金ノートとにらめっこしていたあの部屋から見れば、
ここは、まちがいなく「ぜいたくな時間」だった。
スイカを食べ終えると、父は居間の隅に置いてある釣り竿を取り出した。
糸を指で引っ張ってみたり、ウキをつまんで角度を確かめてみたり。
普段は無口な顔が、ほんの少しだけ少年っぽくなっている。
「明日はな、いっぱい釣ってくるから」
父は、道具を見つめたまま言った。
「だから、おかずはあんまり用意しなくていいぞ。魚で腹いっぱいにしてやる」
母がすかさず突っ込む。
「もう、またそんなこと言って。お父さん、釣ってきたことないでしょ」
「あるぞ」
父は、少しむっとした声を出す。
「この前だって、一匹……」
「それ、ハゼ一匹でしょ。四人家族でどうやって分けるのよ」
母がケラケラ笑うと、幸もつられて吹き出した。
「お父さん、明日は二匹くらい釣ってきてよ。そしたら、お母さん唐揚げにしてあげる」
「二匹か」
父は真面目に考え込む顔をした。
「いや、三匹だな。三匹釣る」
「はいはい、じゃあ三匹ね」
母が適当に相槌を打つ。
そのやりとりを見ていて、俺は妙に納得した。
まじめに働いて、休みの日には会社の仲間と釣りに行く。
たいした装備でもないのに、前の晩から道具を磨いて、
「いっぱい釣ってくる」と毎回大風呂敷を広げる。
結果は、せいぜいハゼ一匹。
それでも、翌週また同じようにウキウキしながら竿をいじっている。
「……なるほどな」
思わず、心の中でつぶやいた。
定年までたどり着いて、退職金も年金も心細いまま六十五歳になった俺。
会社を転々として、大きなこともやらず、小さな楽しみだけでやり過ごしてきた人生。
それが、この目の前の男の延長線上にあるのだとしたら、話はやけにしっくりくる。
「俺は、この人の息子だわ」
釣り竿のウキをなで回している父を見て、妙に納得してしまった。
しばらくその様子を眺めてから、俺は立ち上がった。
「ごちそうさま」
「お粗末さまー。ちゃんと歯磨きしてよ」
母の声を背中で聞き流しながら、自分の部屋に戻る。
戸を閉めて、布団にドサッと倒れ込んだ。
さっきまでのちゃぶ台の光景が、まぶたの裏に残っている。
そうめん、スイカ、内職の部品、釣り竿。
父と母と、十三歳の姉・幸。
「……さて」
天井を見つめながら、ぽつりと言った。
「明日から、どうやって生きるかだな」
一九七〇年の夏。
十歳の「山本政雄」として、もう一回やり直すことになった人生。
未来の年表は覚えていない。
知識チートもない。
だが、六十五歳まで生きてきた「上辺だけでやり過ごした人生」が、どこへ行き着くかは知っている。
だったら今度は、その逆を試してみるしかない。
「まずは、勉強だ」
声に出してみる。
小中学校レベルなら、どうすれば成績が上がるかくらいは、身をもって知っている。
テキストを読み返して、問題を解いて、間違えたところを潰していく。
あの地味な作業を、「一度くらいちゃんとやってみる」価値はある。
それでなにかが劇的に変わる保証はない。
父とまったく違う人生を歩めるかどうかも分からない。
それでも――。
スイカの種をほじくり出して笑っていた幸と、
内職の部品をつまみながら「ダイヤの指輪買うのよ」と笑っていた母と、
ハゼ一匹のくせに胸を張って釣りの話をする父を思い出す。
「この三人のために、ちょっとはマシな息子になってみるか」
十歳の声でそうつぶやいて、俺は学習机の引き出しを開けた。
くしゃくしゃのノートと、やりかけのドリルが、ぐちゃっと詰まっている。
「……まずは、ここから片付けだな」
ため息を一つついてから、俺は鉛筆を握り直した。




