第3話 見知らぬ姉の正体
台所から、味噌汁と醤油の匂いが流れてくる。
鍋をかき回す音と一緒に、カチャカチャと小さな金属のぶつかる音がした。
何かの部品をトレーの上に並べているらしい。
「まさおー? 起きた? ご飯よー。ラジオ体操、遅れちゃうわよー」
母の声は、昔の記憶より少しだけ若くて、明るい。
語尾がちょっと跳ねるのも、そのままだ。
台所をのぞくと、母は片手で味噌汁をよそいながら、もう片方の手で銀色の細かい部品をつまんでいた。
ちゃぶ台の端には、透明のビニール袋と、見慣れない小さな部品が山積みになっている。
「おはよう。ほら、ここ座って。味噌汁熱いから気をつけてね」
母は、内職のトレーを少し横にずらして、茶碗を並べるスペースを作った。
「それ、なに作ってんの?」
気がついたら聞いていた。
「これ? なんかの部品だって。お母さんもよく分かんないのよ」
母は笑いながら、親指と人差し指で小さな金属片をつまみ上げて見せる。
「でもね、これで稼いでダイヤの指輪買うのよ」
あまりにも当たり前みたいな口調で言うから、一瞬、冗談なのか本気なのか分からない。
「ダイヤ?」
思わず聞き返す。
「そうよ」
母は、それだけ言ってケロッと笑い、また味噌汁をよそい始めた。
内職のトレーと茶碗の位置をちょっと入れ替えて、何事もなかったみたいに朝ごはんの支度を続ける。
六十五歳になった今の俺なら、こんな内職でダイヤの指輪なんてまず無理だと分かる。
けれど十歳のころの俺は、「ダイヤってきっとすごく高いらしい」くらいのぼんやりした知識しかなかった。
母が本気で言っているのか、ただの冗談なのかも、ちゃんと考えなかった。
「へえ、内職やるとダイヤ買えるのかもな」
その程度に半分だけ信じたふりをして、あとは特に気にせず、目の前のご飯をもりもりかき込んでいたのだろう。
そのとき、背中の方から声が飛んだ。
「お母さん、また内職しながらご飯よそってる。危ないわよ」
振り向くと、さっき俺の部屋に怒鳴り込んできた少女――姉の幸が、腰に手を当てて立っていた。
セミロングの髪を後ろでひとつに結んだ、まだ体の線もあどけない十三歳。
薄い色のブラウスとスカート姿で、胸元には小さな中学の校章バッジがついている。
中学一年生の「お姉ちゃん」だ。
「ほら貸して。お母さんは座ってて。火のそばでそんな細かいのいじってたら、こぼすわよ」
幸はそう言うと、母の手から味噌汁の柄杓をひょいっと取り上げた。
空いた方の手で、ちゃぶ台の端に寄せられた内職トレーを少し遠ざける。
「はいはい、幸さんはしっかり者で助かります」
母はわざとらしく両手を上げておどけて見せると、ちゃぶ台の座布団にどさりと座り込んだ。
その拍子に、スカートの膝あたりに金属部品の入ったビニール袋がぱさっと落ちる。
「お母さん、ほらもう。そういうとこよ」
幸は呆れ声を出しながらも、その袋を拾ってきちんと積み直した。
母はニコニコしながら、その様子を眺めている。
「この子ったらねえ、生まれる前に流産しかけて、もう駄目だってお医者さんにも言われたのよ」
突然、母がこっちを向いて言った。
「え?」
思わず変な声が出る。
「それがね、奇跡みたいに持ち直してくれてさ。生まれてきたときは、小さくて心配だったんだから」
「お母さん、またその話? 聞き飽きたわよ、それ」
幸がすかさず口を挟む。
「いいじゃないの。お母さんにとっては、一生忘れられない大事件なんだから。
あのとき、ほんとに毎日神様にお願いしたんだからね。『この子助けてくれたら、一生内職がんばります』って」
「それ絶対、忘れてサボるでしょ、お母さん」
「やだ、バレてる」
二人して、けらけら笑った。
笑い声が、ちゃぶ台と味噌汁と、金属部品の山に反響して、狭い台所をいっぱいに満たす。
俺は、その光景をぽかんと見つめていた。
前の人生では、俺には姉はいなかった。
母から流産の話など、一度も聞いたことがない。
そもそも自分に兄弟がいる可能性を考えたことすらなかった。
――ああ。
胸の奥で、何かがコトリと音を立ててはまる。
前の世界では、きっとこの子は「もう駄目」と言われたまま、本当に生まれてこなかったのだ。
だから俺は、一人っ子として育った。
ここでは、十三歳の幸として、目の前で味噌汁をよそっている。
世界が微妙にズレている、という言葉の意味を、ようやく体で理解した気がした。
「なに、まさお。ぼーっとして。早く座りなさいよ。ご飯冷めるでしょ」
幸が、すっかり「姉」の顔で俺をうながす。
俺は慌ててちゃぶ台の前に座りながら、心の中でつぶやいた。
――この世界だと、姉ちゃんはちゃんと生きてるんだな。
六十五年間、一度も存在しなかったはずの「お姉ちゃん」が、
当たり前みたいな顔して、ここにいる。
それだけで、このやり直しに、思っていた以上の重さが乗っかった気がした。




