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第2話 1970年の実家で目覚める

目を開ける前に、まず匂いに違和感を覚えた。


古い畳と、干した布団のにおい。

鼻の奥に、石鹸と味噌汁が混ざったような、懐かしい朝の匂いがまとわりつく。


最近まで俺が寝ていたワンルームは、もっと安っぽい柔軟剤とカップ麺の匂いだったはずだ。


「……なんだ、この昭和の再放送みたいな匂いは」


自分の声が、妙に高い。

喉の奥で、変声期前の、軽い音が鳴っている。


イヤな予感がして、ゆっくり目を開けた。


天井が低い。

木目の入った板張りで、ところどころシミが浮かんでいる。

この天井は、よく知っている。

子どものころ、熱を出して寝込んだとき、何時間も眺めていたやつだ。


実家の天井だった。


反射的に上体を起こそうとして、自分の腕にぎょっとする。

骨ばっていて、妙に細い。

布団から出ている手首は、血管の浮き出た六十五歳の手ではなく、日焼けしかけた十歳前後の子どものそれだ。


「……は?」


疑問形ともつかない声が漏れた。


掛け布団は、安っぽい幾何学模様の綿布団。

部屋の隅には、木製の学習机。

引き出しの取っ手が少し欠けているところまで、記憶とぴたりと重なる。


ここは、東京から電車で一時間の地方都市。

俺が生まれ育った、あの実家の子ども部屋。


玄関の方から、ガラガラと引き戸の開く音がして、新聞をたたく音とラジオのニュースが聞こえてくる。

テレビのコマーシャルの音まで混ざっている。


「……夢にしては、やけに手が込んでるな」


そう呟いた瞬間、


「まさおー! いつまで寝てんの! ご飯冷めるよ!」


女の声が飛んできた。


若い女の声。

子どもの高い声でもなく、大人の落ち着いた声でもない、間のあたり。

たぶん、中学生くらい。


俺は条件反射で「はい」と返事しそうになって、あわてて口をつぐんだ。


まさお。

たしかにそう聞こえた。

それは間違いなく、俺の名前だ。


六十五年間、俺は「山本まさお」として生きてきた。

だから、呼ばれても違和感はない。


違和感は、別のところにあった。


――誰だ、今の?


うちには、そんな声で俺を呼ぶ女などいなかったはずだ。

俺は一人っ子で、きょうだいなんていなかった。


足音が近づいてくる。

ドアがガラリと開いて、少女が顔をのぞかせた。


セミロングの髪を後ろでひとつに束ねて、袖口をまくったエプロン姿。

年の頃は中学生くらいだろう。

まだあどけなさの残る顔立ちなのに、目元や口元がどことなく母親に似ている。


俺の記憶のどこをひっくり返しても、そんな少女は出てこない。


「ちょっと、まさお。ボーッとしてないで起きてよ。ラジオ体操始まっちゃうよ?」


眉をしかめて、完全に「弟」に向ける口調だ。


俺は、自分でも驚くほど素直な高い声で聞き返した。


「……えっと、誰?」


少女は一瞬ぽかんとしてから、すぐに頬をふくらませる。


「はあ? なに寝ぼけてんの。お姉ちゃんに向かって誰はないでしょ」


お姉ちゃん。

その単語が、頭の中でカランと音を立てた。


「お、お姉ちゃん……?」


口に出してみる。

六十五年間、一度も呼んだことのない呼び名だ。

舌の上で、ものすごく場違いな感触がする。


少女――自称お姉ちゃんは、そんな俺の内心などお構いなしに、

当たり前のように部屋の中までズカズカ入ってきた。


机の上の教科書をパラパラとめくりながら、ぶつぶつ言う。


「ほら、算数のドリルやりっぱなしじゃん。昨日も夜更かししてたでしょ。

あんた、四年生なんだから、もうちょっとしっかりしなよね」


四年生。

ドリルの表紙には、たしかに「小学四年 算数」と書いてある。


「早く顔洗ってきて。お父さん機嫌悪くなる前にご飯食べちゃお。まさお、起きる!」


そう言って、俺の額をペシンと軽くはたくと、また廊下の方へ出ていった。


ドアが閉まる。

部屋に、静けさが戻る。


俺はしばらく、布団の上で固まっていた。


一人っ子のはずの俺に、姉がいる。

年齢は十三歳くらいで、どう見てもまだ少女。

さっきの口調は、完全に「小学生の弟を持つ中一か中二」のそれだ。


世界が、開始数分ですでにおかしい。


ゆっくりと息を吐いて、机ににじり寄る。

鉛筆、消しゴム、教科書、ノート。

どれもこれも、見覚えがありすぎるのに、どこかが少しずつ違うような気がした。


教科書の裏表紙を見ると、そこに名前シールが貼ってあった。


「四年二組 やまもと まさお」


平仮名だ。

小学生だから、まだ漢字では書いていない。


ただ、ランドセルの内側に入っていた時間割表の裏、

そこに親の字で名前が書かれているのを見つけた。


「山本 政雄」


俺の胸が、どくん、と跳ねる。


正男ではない。

政に、雄。


読みは同じ「まさお」だが、六十五年間、俺が使ってきた「正男」とは違う漢字だった。


呼ばれただけでは分からなかったズレが、鉛筆の裏や時間割の端っこに、じわじわとにじんでいる。


「……微妙にズレてんじゃねえか」


思わず声に出ていた。


世界は、俺の知っている一九七〇年に限りなく近い。

家も、匂いも、ラジオ体操の音楽も、実家の古くさい「しょぼい部屋」感も、ほとんど同じだ。


それでも、名前の漢字は違うし、本来いないはずの姉がいる。


頭の中で、二〇二五年の記憶をかき集める。


高度経済成長、オイルショック、バブル景気にバブル崩壊。

大地震、大不況、スマホの普及、インターネット、AI。

ニュースでやっていたこと、会社で聞いた世間話、誰かが飲み屋でしゃべっていた歴史自慢。


だが、どれもこれも、「〇年〇月〇日」とセットでは出てこない。

「なんかそのへんの時代にそんなことがあった気がする」という、ぼんやりしたシルエットだけだ。


俺は両手で頭を抱えた。


「嘘だろ……」


異世界転生だの、タイムリープだの、二〇二五年には山ほど物語があった。

そういう話ではたいてい、主人公には未来の知識というチートが自動的に付いてくる。


株価が暴落する日も、バブルがはじける年も、

大ヒットするゲームや漫画も、インターネットの波も、ぜんぶ把握していて、

それをちょっと先回りするだけで、あっという間に金と名声をつかむ。


「剣と魔法の世界じゃなくても、知識チートが付いてくるのがお約束だろうが」


思いきり天井に向かって叫んでいた。


「二〇二五年ではそう決まってるんだぞ! 俺、ラノベと漫画、どれだけ読んだと思ってんだよ!」


返事はない。

代わりに、台所の方から味噌汁の匂いと、ラジオ体操第一のテーマ曲が流れてくる。


ここは、一九七〇年らしい。

しかも、俺の知っている一九七〇年と、ほんの少しだけ違う世界。


知識チートどころか、未来の年表もろくに覚えていない。

持っているのは、六十五歳までの平凡な人生と、「上辺だけで生きてきた」という後悔だけだ。


「これでどうやって、金と女に困らない人生を作れってんだよ……」


ぼやきながらも、俺は布団を蹴って立ち上がった。


ラジオ体操の音楽が、間の抜けた明るさで部屋に流れ込んでくる。

その音に背中を押されるようにして、俺はひとつだけ腹をくくる。


知識チートはない。

世界も微妙にずれている。

それでも――今度こそ、ちゃんと世界を見て、ちゃんと考えて、生きてみるしかない。


そう心の中でつぶやいて、俺は十歳の足で、昭和の朝へと踏み出した。



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