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第1話 「年金じゃ足りない」

年金というやつは、二カ月に一度、きっちり振り込まれる。

そのたびに、俺の不安も二カ月分まとめて増える。


定年から、まだ半年しか経っていない。

それなのに、もう何年も「老後」をやっている気分だった。


六十五歳、山本正男。

肩書きは、無職。収入源は、公的年金と、しょぼい預金の利息だけ。


ローテーブルの上には、大学ノートが一冊、開きっぱなしになっている。

表紙にはマジックで太く「年金」と書いてある。

自分で書いたくせに、その字面だけでちょっと気が滅入る。


ノートの一ページ目には、老齢基礎年金だの厚生年金だの、役所から送られてきた紙を写した数字が並んでいる。

その下には「二月」「四月」「六月」……と偶数月の欄。

そこに、二カ月分の支給額を書き込んで、横に家賃や光熱費を書き足していく。


電卓を叩く音だけが、狭い部屋に乾いたリズムを刻んだ。


「……はい、ギリギリ人生」


ため息混じりに宣言する。

プラスはプラスだ。

けれど、病気を一発やったら一気に赤字に沈むレベルのプラスだった。


ニュースで「老後二千万円問題」とか言っていた頃、

俺はテレビの前でポテチを食いながら「そんなにいらねえだろ」と笑っていた。

笑っていた俺に、いまの俺は言ってやりたい。

「お前、計算してから物を言え」と。


若いころから、いくつか会社を変わってきた。

そのたびに、履歴書の職歴欄が増えていくのを、「経験が増えた」と都合よく解釈していた。

最後に落ち着いたのは、従業員十人そこそこの零細企業だ。


十五年働いて、出た退職金は百万円に届かなかった。

社長は「ウチなりに頑張ったよ」と言っていたが、

あれは頑張りというより、見舞金に近い額だ。


見舞金で、老後は養えない。


ノートの隅には、小さく「老後の楽しみ」と書いてある。

退職してすぐ、まだ気持ちが浮かれていた頃に書いたのだ。

映画、旅行、ちょっといい居酒屋。

その下には何かを一文字二文字書きかけて、ぐちゃぐちゃに塗りつぶした跡が残っている。


たぶん「彼女」とか、その手の単語だったのだろう。

六十五歳の無職男が、老後の楽しみの欄に「彼女」と書こうとしたところを想像して、思わず自分で笑    う。


「年金暮らしで女遊びってのも、なかなかファンタジーしてるな」


独り言にツッコミを入れる。

現実には、女遊びなんて一度もしなかった。

ホステス相手にボトルを入れてみた夜が、俺の「贅沢」のピークだったかもしれない。


実家は、東京から電車で一時間ほどの地方都市にある。

駅前には七階建て、八階建てのビルが何本か立っていて、

子どものころの俺は、それを見て本気で「うちの町もかなり都会だ」と思っていた。


初めて東京に行ったのは、中学の時友達と映画を見に行った時だったか。

高層ビルが林みたいに並ぶ景色を、電車の窓から眺めた。


本当ならそこで、「世界が違う」とか「すげえ」とか、何か感じるべきだったのだろう。

ところがそのときの俺の感想は、


「ふーん、こっちはビルがちょっと多いんだな」で終わっていた。


駅前の八階建てと、新宿の五十階建てを、同じ「ビル」として処理する。

それが俺の観察力の限界だった。


どこの家も、うちと同じくらいの稼ぎで生きているものだと、長いこと信じていた。

同級生の親が外車に乗っていようが、でかい一軒家に住んでいようが、

「目立つなあ」くらいの感想しか浮かばなかった。


世界の差なんて、見ようともしなかったのだ。


にもかかわらず、いざ自分の年金額を前にすると、

「なんで俺の老後資金はこんなに心細いんだろう」と首をひねっている。

我ながら、なかなかの図々しさだ。


ページをめくると、「二月分」「四月分」と書かれた欄の横に、何度もやり直した計算の跡が並んでい る。

パートに出た場合の仮の収入、貯金を取り崩すペース、介護保険や住民税の引かれ方。

二カ月ごとの入金と出金を縦横に足し算しても、答えはだいたい同じところに行き着く。


「食うには困らない。けど、それ以上は無理」


声に出すと、現実が部屋の空気に混ざって、いっそう重くなる。


老後の楽しみ欄に書いた映画も旅行も、計算の中で真っ先に消えていった。

「まあ、アマプラで映画観ればいいか」とか、

「日帰りバスツアーで十分だろ」とか、

自分で自分をなだめる言い訳だけは、いくらでも思いつく。


「一度くらい、年金なんか気にしないで生きてみたかったな」


ぽろっと本音が漏れた。


年金の支給日だの、振込額だのをカレンダーに丸をつけて待つんじゃなくて、

「あれ、今日年金だったっけ?」と首をかしげるくらいの余裕を持ってみたかった。

ついでに、女にも一度くらい本気でモテてみたかった。


そんな人生は、ちゃんと世界を見て、ちゃんと考えて、ちゃんと動いてきた連中のところに配られる。

上辺だけなぞって六十五年をやりすごしてきた俺のポストに、間違って入ってくるはずもない。


椅子にもたれ、天井を見上げる。

薄汚れた白い天井。

子どもの頃に見上げた実家の天井と、大して変わらない。


ひょっとすると、あのころから天井の高さも、ビルの高さも、

ちゃんと見えていなかったのかもしれない。


「なあ、神様」


誰に向かってともなく、声を出す。


「一回でいいから、ちゃんと世の中を見て、ちゃんと考えて生きてみるチャンスをくれないか。

できればおまけで、年金いらないくらいの金と、

『なんであんたなのよ』って文句を言いながら隣にいてくれる女も、一人つけてくれると助かる」


自分で言って、自分で吹き出す。

宝くじも買ってないくせに、一等当たらないと文句を言うタイプだ。


「ま、どうせ明日も、同じノート開いて同じ計算するだけだろ」


目を閉じる。

電卓をしまい忘れたまま、意識がゆっくり遠のいていく。


もし、もう一度だけやり直せたら。

今度こそ、世界の差をちゃんと見て、ちゃんと考えて、ちゃんと生きてみたい。

ついでに一度くらい、年金にビクビクしないで、金と女に困らない日々を味わってみたい。


そんな図々しい妄想を胸に抱えたまま、俺は静かに眠りに落ちた。

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