第37話 弁当配達初日と手ごたえ
弁当配達を始める最初の朝は、肩すかしを食らったような静けさだった。
十時の締切までに、生協の電話はあまり鳴らなかった。
理工の友達の実験室からの注文がひとつ。隣の班が便乗した分がひとつ。それに、たまたまビラを見た文系のゼミ室から、人数少なめの注文がひとつ。
合計三件。
初日としては、こんなものかもしれない。
昼少し前に生協へ行き、台帳と弁当の数を確認する。
用意された弁当をバッグに詰め、自転車のかごにも載せる。転ばないように、詰めすぎないように。
高台の学舎の間を抜けて、最初の配達先である実験室に向かう。
ドアを軽くノックして、番号を確かめてから中に入る。
弁当を受け取った友達は、忙しそうに手を動かしながらも「助かる」とだけ言った。
他の学生たちも、それぞれ手を止めずに、弁当の包みだけを受け取る。
文系のゼミ室も、似たようなものだった。
短い礼と、机の上に置かれた弁当。
「並ばなくて済んだ」という実感が、部屋の空気にうっすら混じっている。
その日、取り分として手元に残った配達料は、思っていたよりも少ない金額だった。
それでも、昼の時間をすべて配達に使ったわけではない。
授業との兼ね合いを考えれば、これくらいの規模から始めるのがちょうどいい。
夜、自分の部屋でノートを開き、初日の件数と時間をメモする。
大きなもうけにはならないが、負担になりすぎるほどでもない。
思いつきで始めた弁当配達は、とりあえず「続けてもよさそうだ」という感触だけを残した。
そこからの数週間は、淡々とした日々の中に、少しずつ変化が混じっていった。
ある日は、朝から雨だった。
自転車のブレーキが効きにくくなり、舗装の悪いところでタイヤが滑りかけた。
配達用のバッグの中身が崩れないように、普段よりゆっくり走る。いつもより時間はかかったが、弁当をひっくり返さずに済んだことに、ほっとした。
別の日は、風と雨がひどく、傘も自転車も頼りにならなかった。
さすがにこの日は、事前に「悪天候で配達が難しい場合は中止するかもしれない」と伝えていたことに、心の中で何度も助けられた。
実際、予約はいつもより少なかった。
無理をしない線引きが必要だということを、体で覚えた一日だった。
そんな中で、「食堂のメニューも持ってきてくれないか」という声も出てきた。
昼どきの食堂に政雄が並んで買いに行くのは、時間的にも体力的にも無理がある。
学内とはいえ、生協以外のレジをまたいで動き回るのも、責任の所在があいまいになる。
食堂については、「それはできない」とはっきり断った。
生協の商品だけを扱う。そこだけは変えないと決める。
一方で、「生協のほかの商品も一緒に頼みたい」という相談も増えていった。
弁当と一緒に、ノートやボールペンなどの文房具、汗を拭くためのタオル、飲み物を頼まれることがある。
これについては、「弁当を注文してくれる部屋に限って、抱き合わせなら受ける」という決まりにした。
弁当だけでなく、同じタイミングで買えるものなら、まとめて配達してもいい。
ただし、雑貨の配達だけが目的になると、話が変わってくる。
自分の時間と体力を考えた結果の、小さな線引きだった。
そんな試行錯誤を続けているうちに、定期的に注文をくれる部屋が、少しずつ増えていった。
理工の実験室は、最初の週からほとんど毎回名前が載るようになった。
友達がビラを貼ってくれたおかげで、隣の班からも注文が入る。
日によって人数は増えたり減ったりするが、「実験のある日は弁当を頼む」というリズムができてきた。
文系のゼミ室も、曜日によっては決まった時間に注文が入るようになった。
昼に発表や討論が続く日など、食堂に行きそびれがちな時間帯に、まとめて頼んでくる。
やがて、友達づての紹介で、別の部屋からも電話が入るようになった。
授業と授業のあいだをやりくりしながら、配達先の部屋番号が、ノートの端に一つずつ増えていく。
その中に、高台の隅のほうにある部室棟も混じり始めた。 放課後までキャンパスに残って活動している学生たちが、昼のうちに弁当をまとめて頼むことがある。
最初は一つの部屋だけだったが、そこからまた別の部屋へと、細い糸のように話がつながっていった。
気づけば、昼休みのたびに、いくつかの固定の部屋から注文が入るようになっていた。
日によって多い少ないはあるが、「何も入らない日」はほとんどなくなった。
生協の台帳に並ぶ部屋番号を眺めながら、最初のころを思い出す。
理工の実験室と、文系のゼミ室が一つずつ。
手書きのビラは二枚だけで、電話が鳴るかどうかを気にしていたあの日。
今は、理工の実験室がいくつか、文系のゼミ室がいくつか、それにいくつかの部屋と部室が、ほぼ毎週のように名前を連ねている。
生協の方も、「このところ弁当の数を少し増やしている」と、笑顔の主任からそう聞かされた。
配達料の合計は、決して大きな額ではない。
それでも、授業とバイトのあいまにできる範囲で、無理なく続けられている。
こうして数字と感覚を重ねていくうちに、この小さな配達事業が、「思いつき」から「習慣」に変わっていくのを感じた。
大学二年の春。
学内の棟と棟のあいだを、自転車で走り回る昼休みが、いつもの風景の一部になりつつある。
この弁当配達のことは、ときどき天気に振り回されながらも、一応の手ごたえを得たところで、ひとまず落ち着いた。
これから先、大学生活の中心になるのは、授業やゼミや、友人たちとの時間だ。
配達はその合間に、細々と続いていく仕事として、日々の背景に溶け込んでいく。




