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第35話「1980年春、二年目の優先順位」と千円の自転車

1980年の一月、成人の日。

市の公民館で開かれた成人式に出て、小学校の同級生とスーツ姿で顔を合わせた。「もう二十歳かよ」と笑い合って、そのままいつもどおりの家に帰る。


特別なことをしたわけでもない。

それでも、区切りとしての二十歳は一応迎えた。


それから三か月。四月になり、俺は国立大学経済学部の二年生になった。

三つ上の姉は、この春から市立中学校で英語教師として働き始めている。


新年度の時間割がだいたい見えたところで、いつもの六畳間でノートを開いた。授業のノートではなく、「脳内会議」の議事録用だ。


一年で、生活は大きく変わった。

免許は取れた。生協のバイトも続けている。ジャズ研にも、細々とだが顔を出している。


ここで一度、ちゃんと優先順位を決め直しておいたほうがいい。


頭の中に円卓を出す。席は三つ。


「勉強代表」が、最初に口を開いた。


『二年から本格的に経済の必修が増える。ここでミクロやマクロを落としたら、三年以降が詰む。卒業も院も、全部そこでつまずく。最優先は、必修単位を落とさないことだ』


「バイト代表」が腕を組む。


『でも、金がなきゃ話にならないだろ。定期代、教科書代、昼飯代、ちょこちょこ出ていく。親にこれ以上は甘えたくないってのも、全会一致だよな』


「サークル代表」が、遠慮がちに手を上げる。


『ジャズ研を切る、って選択肢は、やっぱり無しですよね?』


高校のとき、吹奏楽部に入らなかったのは、ちゃんと脳内会議で決めた結果だった。

勉強とバイトを優先する。時間的に無理だから、部活の音楽は最初からやらない。あれ自体には、今でも後悔はない。


ただ一つだけ、前の人生も含めて強く思っているのは、「考えずに流されるのはだめだ」ということだ。


「勉強代表」が続ける。


『時間割は、必修を中心に組む。一般教養や選択科目は、多少削ってもいい。とにかく、落としたら後々まで響く科目だけは死守』


「バイト代表」が、ノートの端にざっと数字を書く。


『生協の時給は高くはないけど、学内で完結するし、試験前にシフトを調整しやすい。それに、二十歳になったのだから、家計に負担をかけすぎるのは気が引ける。バイトはきちんと続けたい』


「サークル代表」は、そこに一行足す。


『ジャズ研は週一を目安。行く日はちゃんと行って、ちゃんと楽しむ。増やせるなら増やすけど、「毎日部室」みたいな入り方はしない』


三者の意見をまとめて、ノートの真ん中に書き出す。


・勉強は最優先。二年の必修は絶対に落とさない。

・バイトは、生協を軸に、無理のない範囲で続ける。

・ジャズ研は週一ペースで続ける。


居間からテレビの音と、姉の笑い声が聞こえてくる。

新米教師としての毎日は大変らしいが、姉はそれなりに楽しそうだ。


自分は自分で、この一年の舵をどう切るかを決めた。

あとは、この優先順位にしたがって、やるべきことを一つずつやっていくだけだ。


四月の終わりごろ、授業のあとでジャズ研の部室をのぞくと、ソファの脇に見慣れない自転車が立てかけてあった。


銀色のママチャリ。ところどころ塗装がはげているが、フレームはしっかりしていそうだ。


「それ、この前卒業した先輩のだよ。置いていったきりでさ」


部長が顔だけ上げて言う。


「誰もいらないなら、そのうち処分しろって言われてるんだけど、山本、千円でどう?」


千円なら、迷うほどの額でもない。


「じゃあ、買います」


そう答えると、部長は鍵を渡してきた。


校舎の前で錠を外し、恐る恐るこぎ出してみる。

最初の数メートルで、これは当たりだと分かった。ブレーキも効くし、タイヤもまだいけそうだ。


キャンパスの真ん中をゆっくり横切り、そのまま坂の下まで降りて、また上がる。

歩いたら息が切れる坂も、ペダルを踏み続ければ、どうにか上までたどり着けた。


息を整えながら、今度は冷静に周りを見る。


昼休みになると、生協の購買は弁当とパンを求める学生でいっぱいになる。

食堂の入り口には長い行列ができて、座席を確保するだけで時間の半分が消える。


キャンパスの端にある理工の研究棟は、ここから坂を一つ越えた先だ。

講義棟から歩いて行って並んで戻ってきたら、落ち着いて飯を食う時間なんてほとんど残らない。


そう愚痴っていた友達の顔が、いくつか浮かぶ。


ハンドルに手を置いたまま、空を見上げる。


前世では、スマホで料理を頼めば、自転車やバイクが運んでくるサービスがいくらでもあった。

1980年の現在はまだ、スマホもウーバーもないけれど、そば屋で出前をしていたときと同じくらいのことなら、この自転車でもできる。


――坂の上の研究室まで、生協の弁当を運ぶ。


その絵が頭に浮かんだところで、いったんブレーキをかける。


配達のことは、まだ思いつきの段階だ。

二年の授業と生協のバイト、ジャズ研の週一が、本当にこの時間割で回るのかを確かめるのが先だろう。


心の中でそう線を引いて、俺は自転車を押して坂を下りた。


千円で手に入れた中古のママチャリが、この先どれだけ世界を広げるかは、まだ誰も知らない。



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