第34話 一年目の夏と免許
四月からの大学生活は、思っていた以上にやることが多かった。通学に一時間、坂の上り下り、広いキャンパス。授業の教室を覚えるだけでも、しばらくは精一杯だった。
そこに、自動車免許のことが乗ってくる。
高校のころから、いつかは免許を取りたいと思っていた。けれど、教習所の費用は十五万から二十万くらいかかる。うちの家計で、親にそれを丸ごと出してくれとは言えない。
だから、まずは大学に慣れながら、自分で免許代を貯めることにした。
四月の半ばから、生協でバイトを始めた。週に二回、夕方から閉店までの数時間。最初はレジ横で袋詰めをしたり、パンや弁当を並べ直したりするだけで一日が終わる。
月末に振り込み明細を見たときは、少しうれしかった。自分の名前の下に、ちゃんと金額が並んでいる。
けれど、その数字を免許の費用と比べると、すぐに分かった。週二、数時間のバイト代を全部貯金しても、そこに届くまでにとんでもなく時間がかかる。
生協だけでは足りない。どこかで、がっつり稼ぐ期間が必要だった。
そんなことを考えていたとき、中学の吹奏楽で一緒だった高橋先輩に、大学で再会した。
昼休み、学食の前で名前を呼ばれた。
「山本くん?」
振り向くと、見覚えのない女子学生が立っていた。肩までの髪を下ろし、メガネはなく、うっすらと化粧をしている。すぐには誰か分からない。
「中学のとき吹奏楽部だった、高橋だよ。覚えてない?」
声と名前を聞いて、ようやくつながった。黒縁メガネで髪を後ろで結んでいた、あのサックスの先輩だ。印象ががらっと変わっている。
「久しぶり。山本くんもここなんだよね?」
高橋先輩は、中学のころと同じような笑い方でそう言った。けれど、仕草は前よりずっと大人っぽい。
軽く近況を話したあとで、先輩が続けた。
「いまジャズ研でサックス吹いててさ。新入生ひとりぐらい連れてこいって言われてるんだよね。山本くん、時間ある? 今から部屋行こうよ」
俺は、サークルは余裕ができてからでいいと思っていた。大学に慣れることと、免許のためのバイトで頭がいっぱいだ。
断ろうとしたとき、高橋先輩が自然な動きで俺の腕を取った。軽く抱えられる形になり、布越しに柔らかいふくらみの感触が伝わる。
「ちょ、あの……」
何か言おうとしたが、うまい言葉が出てこない。そのまま先輩に引っぱられて、学食脇の階段を上がっていく。
サークルは後回しにするつもりだったのに、結局、鼻の下を伸ばしたままジャズ研の部屋までついて行ってしまった。
部屋に入るなり、高橋先輩がサックスを組み立てて差し出してきた。
「山本くん、中学でサックスだったよね。はい」
「え、自分、ジャズはさっぱり分からないんですけど」
「大丈夫。ジャズはノリだから」
ノリと言われても、余計分からない。心の中でそう突っ込みながらも、もうサックスは手の中にある。
「とりあえず、なんか吹いてみて。間違えても誰も怒らないから」
それもかなりひどい説明だと思った。
恐る恐る息を入れる。となりでドラムがリズムを刻み、ベースがぽん、と低い音を足す。ピアノも、好き勝手に和音を鳴らし始めた。
何が正解か分からないので、知っている音を出す。伸ばしたり、短く切ったり、高い音、低い音。
気づくと、自然と指が動いていた。
楽しい。
なんか、久々に楽しい。
一曲らしき流れが終わって、音がすっと止まる。振り向くと、ベースとピアノ、ドラムの先輩が笑顔でこっちを見ていた。
「ね、ジャズ楽しいでしょ?」
高橋先輩がうれしそうに言う。
「……はい。楽しかったです」
正直にそう答えるしかなかった。
「これがセッションってやつだよ」
譜面どおりにそろえるクラシックしか知らなかった俺には、とても新鮮だった。
楽しかったのは本当だ。けれど、頭のどこかでは、免許代のことが消えていない。
楽器を片づけながら、俺は正直に言った。
「ちゃんとやるのはおもしろいと思いました。でも、今は免許代のためにバイトも考えていて、たぶん、そんなに顔を出せません。それでも大丈夫ですか」
高橋先輩は、少し考えてからうなずいた。
「うん。参加できるときだけ来てくれればいいよ。それでも助かるから」
その言葉にほっとして、俺はジャズ研の入会届に名前を書いた。
そのあと、軽くメンバーを紹介されて、今日は部室をあとにした。
ジャズ研に入ったことで、高橋先輩との付き合いも続くようになった。ある日の放課後、部屋に顔を出すと、先輩が手を振った。
「山本くん、この前言ってた免許のバイトの件ね。ちょうど良さそうなの、ひとつあるよ」
聞けば、地元で清涼飲料の卸をやっている同級生がいるという。夏になると、海沿いの店にビンの飲み物を運ぶ仕事が増えて、毎年人手が足りないらしい。
「朝から夕方まで、けっこう体は使うけど、日当は悪くないって。運転は社員さんがするから、山本くんは倉庫で積んだり、配達先でケース下ろしたりの係ね。夏休みフルで入れたら、免許代の足しにはなると思うよ」
真夏の倉庫とトラックとビンのケースが、まとめて頭の中に浮かぶ。
また配達か、と一瞬思った。高校時代のそば屋でもさんざんやった、どうも配達と縁が切れない。
それでも、免許代を一気に稼ぐには、これくらいの仕事しか思いつかない。
「話、聞いてみたいです」
そう答えると、高橋先輩はうなずいた。
「じゃあ、今度その同級生連れてくるね」
夏休みが始まってからの二か月間、俺はその飲料卸の配達バイトにフルで入ることになった。
毎朝八時に倉庫へ行き、ビン飲料のケースを積み、社員の運転するトラックに乗り込む。海沿いの店や食堂を回って下ろしていく。
午前中の配達をひと通り終えると、いったん会社に戻る。倉庫の奥にある休憩室だけはクーラーが効いていて、外との温度差に体がおかしくなりそうだ。
母が作ってくれたおにぎりを持ってきているが、食欲はあまりわかない。汗でぐったりしたまま、机に突っ伏して昼休みをやり過ごす。
午後は、午前中に回収した空ビンをトラックからおろし、新しい分を積み込んでまた出発する。
窓を全開にして走っても、熱い風が顔に当たるだけだ。前世以来の毎日労働。しかも炎天下の肉体労働。トラックにはクーラーもない。
いくつかの店に配達したあと、海沿いの小さな商店に寄った。ケースを運び終えると、運転席の社員が店先でアイスを二本買い、自分の分とは別に一本を俺に差し出した。
「どうだ、山本くん。けっこうきついだろ。……これ食べて、次の場所まで休んでな」
「ありがとうございます」
アイスの棒を受け取る。手のひらに冷たさがしみていく。
ビンのケースを何十個も運ぶ毎日。窓全開のトラック。体は正直きつい。
それでも、免許代のことを考えると、これくらいやるしかないとも思った。
夏休みが終わるころには、腕も首も真っ黒に焼けていた。大学に戻ると、生協でもジャズ研でも、まずそこをつつかれた。
「山本くん、夏のあいだどれだけ遊んだら、そんなに真っ黒になるのよ?」
「遊ぶなんてとんでもないですよ。免許代稼ぐのに、それはもう死ぬほど働いてましたって」
実際、夏休みの二か月間は、ほとんど毎日、飲料の配達で終わった。フルに働いたおかげで、手取りは十三万円ほどになり、自動車免許の費用のめどがようやく立った。
夏のあいだは教習所に通う時間がなかったので、十月からは大学の授業の合間と夜の時間を使って、教習所にも通い始めることにした。大学、ジャズ研、生協バイト。そのうえ教習所。俺の一年目は、ますます詰まっていきそうだった。
一年の終わりが見え始めたころ、俺はやっと免許証を手に入れた。夏休みに飲料の配達でフルに働いて十三万円を貯め、十月から大学の授業のあいまに教習所へ通い続けた結果だ。
試験場から帰る電車の中で、ふと思い出したのは、車が家に来た日の父の顔だった。
あの日、父は朝から落ち着かなかった。新聞を開いても、すぐ時計を見る。外にトラックの音がすると、真っ先に玄関へ出ていった。
中古のファミリーカーが家の前に降ろされ、鍵を受け取ると、父は振り返って言った。
「ちょっと、みんなで出かけようか」
子どもみたいな声だった。先に運転席に乗り込み、俺たちを急かす。近場をぐるっと一周しただけの短いドライブだったが、家に戻って車を止めると、父は窓の外を見たまま小さくつぶやいた。
「うちにも、車が来たな」
車の横に立ち、しばらく眺めている。その背中を見ながら、俺は「家計に負担をかけずに大学に行けてよかった」と思った。姉も俺も、学費は奨学金とバイトで何とかしている。そのぶん、父は少しだけ無理をしてこの車を買った。
今、俺の財布の中には、その車を正式に運転できる免許証が入っている。
家に帰ると、ちゃぶ台の前に座って、免許証を家族に見せた。
「とりあえず、免許は取れたよ」
父がそれを手に取って、しげしげと眺める。母は横からのぞき込み、姉は湯飲みを持ったまま身を乗り出した。
「夏のあいだ、あんなに真っ黒になってたもんねえ」
母がそう言って笑う。父は小さくうなずいた。
「まだ一人で遠くまでは行かせないけどな」
そう言いながらも、父の顔はどこかうれしそうだった。
俺の大学一年目は、こうして終わった。大学、バイト、ジャズ研、教習所。それなりに慌ただしかったが、前の人生では味わえなかった種類の疲れだった。
二年目は、ここからだ。




