第33話 本当のスタートライン
家を出て、駅まで歩く。道も景色も見慣れている。小中学校も高校も蕎麦屋も、このあたりで全部おさまっていた。
駅に着き、通学定期を見せて改札を抜ける。ホームに上がって電車に乗る。ここまでは、今までとあまり変わらない。
電車が動き出し、窓の外の町が少しずつ入れ替わっていく。十分、二十分と過ぎるうちに、自分の足では来ないような景色になっていく。三十分ほど揺られて終点の大きな駅に着くと、人も建物も桁違いだった。
ここから大学行きのバスに乗り換える。入試や手続きで何度か通った道だが、今日は気分が違う。これから四年間、ほとんど毎日ここを通うことになる。
郊外の道を抜けて、バスは大学前で止まる。正門をくぐると、坂と建物が目の前に広がる。前にも見た景色なのに、「ここがこれからの通学先だ」と思うと、重さが違った。
坂を上り、経済学部の受付で書類を受け取り、入学式に出る。式の中身は、立ったり座ったりしているうちに終わってしまった。
そのあとが本番だった。学部ごとの説明で、時間割や教室の場所を一気に聞かされる。地図を見ていると、講義棟や教養棟や理工系の建物が、坂の上にばらばらに並んでいるのが分かる。
「ここからここへの移動は、時間的に間に合うのかな?」
紙の上では隣でも、間に坂が一つ入る。そんなことを考えながら、空欄の多い時間割表を眺めた。
外に出ると、サークルの勧誘で通路がいっぱいになっていた。ビラが次々と差し出される。あちこちから音が聞こえる。
その中に、聞き覚えのある音色があった。サックスだ。看板には「ジャズ研究会」と書いてある。テントの中で先輩が簡単なフレーズを吹いている。
中学の三年間、吹奏楽部でサックスを吹いていた。県大会まで行って、結果はダメ金。それでも、毎日吹いていた音は体に残っている。
少し近づいてみる。先輩と目が合いそうになって、足が止まる。
今ここで「入りたいです」と言う気持ちには、まだならない。ただ、サックスをやるなら、たぶんここだろうと思う。そのことだけ、頭の隅にしまっておく。
学内を歩きながら、学食や生協ものぞいた。教科書の山と、ノートと、パンと弁当。レジの前は、すでに列ができている。
ここでバイトをしたら、いろいろな学生を近くで見られそうだと思う。店内の柱には、学生アルバイト募集の紙が貼ってあった。内容を全部読むわけではない。ただ、「そういう選択肢もある」とだけ覚えておく。
この一年間は、問題集ばかり相手にしていた。受験が終わって、少しだけ時間にすき間ができた。大学の勉強が本格的に始まる前に、自動車免許だけは取っておきたいと思う。将来、どこで働くにしても、運転できたほうがいい。
ひと通り見て回ると、もう帰る時間になっていた。大学からバスに乗り、ターミナル駅まで戻り、電車に三十分揺られて、また元の駅に帰る。そこから家まで歩く。
片道一時間。行きと帰りで、移動だけで二時間使ったことになる。
家の玄関を開けると、いつものちゃぶ台が見えた。さっきまでいた坂の上の世界と比べると、急に部屋が小さくなったように感じた。
ちゃぶ台の前に座った途端、力が抜けた。鞄を置いただけで、しばらくぼんやりしてしまう。
玄関の鍵が鳴って、姉が帰ってきた。
「ただいま。……なに、そのぐったりした顔」
向かいに座った姉が、笑いながら言う。
「大学、思ってた以上に大変でさ。坂もきついし、建物は多いし、時間割もややこしいし。通学だけで片道一時間だし。今日はもう、頭がいっぱい」
自分でも、少し大げさに聞こえる。
姉はお茶をつぎながら、うなずいた。
「最初はそんなもんだよ。あたしだって一年の春なんて、どこに何があるか全然分かってなかったし」
湯飲みをこちらに押しやってから、少しだけ真面目な声になる。
「大学に行きたいって決めたのは政雄でしょ。遠いとか広いとか、そういうのも込みで選んだんだからさ。びっくりはしてもいいけど、少しずつ慣れるしかないよ」
「……うん。そうだね」
湯飲みを受け取りながら答える。
「姉ちゃんも、大変なんだよね。教職とか実習とか」
「まあね。今年は免許試験もあるし。でも、お互いさまかな。あんたは新しいところに入ったばかりだし、あたしは出ていく準備中だし」
そう言って笑う顔を見ていると、さっきまでの重さが少し軽くなった。
前世の大学生活のとき、自分はここまで考えていただろうかと思う。あのときは、なんとなく通って、なんとなく単位を取っていただけだった。
今度は、そうならないようにしたい。
湯飲みを両手で持つ。温かさが、指先にしみてくる。
明日もまた、あの坂を上る。 これからの四年間、あそこが俺のメインフィールドになる。




