第32話 看板に一礼
共通一次本番は、一月の真ん中の二日間だった。
会場は、最寄りの国立大学。
ここが、俺の第一志望そのものでもある国立〇〇大学だ。
一日目は、国語、英語、数学。
二日目は、社会と理科。
緊張はしていたけれど、問題を開いてみると、見たことのあるタイプの問いが多かった。
夏から秋、冬にかけて何度も繰り返したマーク式の問題集と、模試の形式が、ここでようやくつながる。
時間配分に気をつけながら、一問ずつ塗りつぶしていく。
途中で大きく詰まることもなく、最後までたどり着けた。
二日目の帰り道、吐く息は白くて、手の指先は冷たいのに、頭の中は落ち着いていた。
「やれることは、やった」
そう思えた。
*
共通一次の結果が返ってきたのは、二月のはじめだった。
自己採点とほぼ同じ数字。
志望している国立〇〇大学の経済学部のボーダーラインを、はっきり越えていた。
その数字を見た担任の先生は、成績表を一度机に置いて、短く言った。
「山本、この点なら、十分勝負になる。
二次で、取りこぼしをしなければ、届くところにいる」
「はい」
秋の伸び悩みから、冬にかけての持ち直し。
それを、数字の形で改めて確認できた気がした。
ただし、まだ終わりではない。
二次試験が、本当の勝負だ。
*
三月のはじめ、国立〇〇大学の二次試験があった。
経済学部の試験科目は、数学と英語。
共通一次と同じ大学の構内に、また足を踏み入れる。
共通一次のマークと違い、ここは答案用紙に自分の字を書いていく記述式だ。
問題文を読み、条件を整理し、途中式や考え方をきちんと残す。
秋から冬にかけて、「一問ずつ丁寧に腹に落とす」勉強に戻したことが、ここで生きていた。
分からない問題も、もちろんある。
それでも、「何も書けない」ままで終わる問題はほとんどなかった。
二日間の試験が終わった帰り道、共通一次のときと同じように、「やれることはやった」と思えた。
それでも、共通一次のときほどの確信はない。
記述の採点がどう出るかまでは、自分では読みきれない。
*
試験二日目は、高校の卒業式だった。
けれど、俺は体育館にはいなかった。
二次試験の日程と重なっていたからだ。
クラスメイトたちが学生服で写真を撮っている時間帯に、俺はまた、国立〇〇大学の教室で問題用紙と向き合っていた。
式に出られなかったことを、もったいないと思う気持ちが、まったくなかったわけではない。
それでも、この大学に受かることが、高校生活のいちばん大きなゴールだと自分で決めた以上、ここで迷うわけにはいかなかった。
「卒業式は、また今度、誰かが写真見せてくれるだろう」
そう自分に言い聞かせて、答案に最後の一行を書き込んだ。
*
二次試験が終わると、あとは結果を待つだけになった。
「手ごたえはあった」とはいえ、合格が決まるまでは落ち着かない。
共通一次で失敗した友達が、就職に切り替える話をしているのも耳に入ってくる。
自分も、「落ちたら就職」と決めている。
そのせいか、本屋の脇に積まれている求人誌を、ついつい手に取ってしまう。
ページをめくるたびに、「ここで働く自分」と「大学に通っている自分」が、頭の中で行ったり来たりした。
落ち着かないので、そば屋のバイトを少し増やしてもらうことにした。
「店主さん、三月のあいだ、シフト多めに入れてもいいですか」
「おう、助かる。ちょうど忙しくなる時期だ」
手を動かしていれば、余計なことを考えなくて済む。
出前のおかもちを提げて歩いているときだけは、合否のことを忘れられた。
*
三月二十二日。
国立〇〇大学の構内に、再び足を踏み入れた。
今日は、合格発表の日だ。
掲示板の前には、同じように番号を探す受験生たちが集まっている。
紙に印刷された受験番号の列が、風で少しだけ揺れた。
自分の受験番号を、頭の中で何度か繰り返す。
指先に汗がにじむのを感じながら、数字の列を追っていく。
〇一二三四。
〇一二三五。
〇一二三六。
……あった。
そこに、自分の受験番号が、たしかに並んでいた。
「……あった」
声に出した瞬間、膝から力が抜けそうになった。
共通一次の自己採点を終えたときよりも、模試でA判定を取ったときよりも、
ずっと大きな安堵が胸の中いっぱいに広がる。
「受かった」
何度も心の中で繰り返してから、掲示板から一歩離れた。
*
合格が決まったその日のうちに、報告に回った。
まずは学校に寄って、職員室で担任の机をたずねる。
「先生、合格しました。国立〇〇大学、経済学部です」
「そうか。よくやったな」
担任は、手に持っていた赤ペンを机に置いて、まっすぐにこちらを見た。
「最後まで崩さなかったのが、えらいよ。
胸張っていい」
「ありがとうございます」
次は家に帰る。
居間で新聞を読んでいた父に、「ただいま」と言ってから、受験票の控えを差し出した。
「受かった。国立〇〇大の経済」
父は紙を一度だけ見てから、俺の顔を見た。
「そうか。よかったな」
それだけ言って、少しだけ息を吐く。
その声色に、ほっとした音が混じっているのが分かった。
台所から顔を出した母が、ほうっと声を上げる。
「ほんとに? 受かったの? ……今夜はごちそうにしないとね」
「頼むよ」
そう言って笑うと、母は「ああ、なに作ろう」と言いながら冷蔵庫を開けに行った。
*
夕方、そば屋にも顔を出した。
「店主さん」
「おう、山本。どうだった」
「受かりました。国立〇〇大学、経済学部です」
「そうか」
店主さんは、それだけ言って、口もとをほんの少しだけゆるめた。
「よく三年続けたな」
「バイトも、続けさせてもらって、ありがとうございました」
カウンターの向こうから、おかみさんも顔を出す。
「おめでとう。
いいバイトがなければ、いつでも戻ってきていいのよ」
「ありがとうございます」
本当に三年間、ここで働けたのは、店主さんとおかみさんのおかげだ。
そう思いながら、深く頭を下げた。
*
合格の報告を済ませてからの数日は、あっという間に過ぎていった。
高校の友人たちとも、それぞれの進路の話をしながら顔を合わせる。
就職するやつ、別の大学に行くやつ、専門学校に進むやつ。
みんな、それぞれの場所に散っていく。
そば屋のバイトも、三月いっぱいで終わりにすることになった。
最後の日は、いつも通り、開店から閉店までのシフトだった。
昼どきの忙しさも、出前の道順も、もう体が全部覚えている。
閉店時間の二十一時になり、客が帰り、暖簾を下ろす。
いつも以上に丁寧に、床を掃き、テーブルを拭き、厨房の流しを磨いた。
ガス台の隅の油汚れを落としながら、最初の頃はうまくおかもちも持てなかった自分のことを思い出す。
「店主さん、おかみさん」
掃除を終えて、エプロンを外し、カウンターの前に立つ。
「本当に三年間、ありがとうございました。
バイトを続けられたのは、店主さんとおかみさんのおかげです」
深々と頭を下げると、店主さんは「おう」と短くうなずいた。
「こっちこそ助かったよ」
おかみさんも、少し目を細めて笑う。
「新しい生活、楽しみなさいね。
……ほんとに、いいバイトがなければ、いつでも戻ってきていいから」
「はい。その言葉だけで、安心して行けます」
もう一度、頭を下げる。
出勤簿に記入して、裏口から外に出た。
戸を閉めてから、店の前まで回り込む。
照明を落としたそば屋の看板が、夜の道にぽつんと浮かんでいた。
その看板に向かって、もう一度、深く一礼する。
「ありがとうございました」
心の中でもう一度そうつぶやいてから、背を向けた。
そのあとは、振り向かずに家路につく。
4月から、俺は大学生になる。
奨学金と、これから見つける新しいバイトで、国立大学に通っていく。
俺のリトライ人生は、まだまだ道なかば。
次はどんな扉を開くのか何が待っているのか楽しみだ。




