第31話 年越しと、その先の話
十二月の半ば、受験前最後の模試の結果が返ってきた。
封筒を開ける前から、今回は手ごたえがあったのは覚えている。
問題を解いている最中、「これは夏の頃よりちゃんと見えている」と何度か思えた。
それでも、現物の成績表を見る瞬間までは、やっぱり少しだけ緊張する。
深呼吸をひとつしてから、封を切った。
志望欄のいちばん上。
国立の経済学部の横に並んだ判定は、A。
何度か瞬きしてから、もう一度見直す。
「……A判定、か」
声に出してみると、ようやく実感が追いついてきた。
合格可能性八〇パーセント。
数字の上では「ほぼ合格できるところまできた」と言っていい範囲だ。
秋の模試で伸び悩んでいたときの自分を思い出す。
あのあと、そば屋で加奈子さんと話して、勉強をもう一度「丁寧にやる」と決め直した。
問題集のノルマをこなすことだけを目標にするのをやめて、
一問ずつちゃんと腹に落とすことを優先するように戻した。
その結果が、このA判定なのだとしたら、やってきたことは、少なくとも大きくは間違っていなかったのだろう。
「よし……」
小さくつぶやいて、成績表を丁寧に二つ折りにした。
これで、あとは約一か月後の本番を迎えるばかりだ。
*
年が押し詰まってきて、学校も冬休みに入った。
今年は、大みそかのバイトは入れなかった。
だいぶ前から店主さんに「受験前なので、この日は休ませてください」と頼んであって、了承をもらっている。
その代わりと言うべきか、今年は大みそかは勉強も一日休みにした。
問題集のノルマ表の、大晦日と元日の欄に「休み」と大きく書いて、赤ペンで丸をつけておく。
「ここまで来たら、一日二日休んでも、もう大勢は変わらないだろう」
そう思えるくらいには、自分の中に積み上がったものがある。
それよりも、ここから先は本番に向けた体調管理のほうが大事だ。
風邪をひいて熱を出したりでもしたら、今まで積み上げてきたものを、自分で崩すことになる。
大晦日の朝は、いつも通りに起きて、朝ごはんを済ませてから、家の大掃除を手伝った。
天井の隅に溜まったほこりをはたき、窓ガラスを新聞紙で磨き、台所の棚を拭く。
前世のワンルーム暮らしで身についた、「なるべく効率よく汚れを落とすコツ」が、地味に役に立つ。
「政雄、窓、きれいになったねえ」
雑巾をすすぎに行った母が、戻ってきて笑った。
「うん。今年は寒くて外に出たくないから、助かるわ」
「受験生をこき使ってるって、学校に怒られないか?」
あちこち傷んだところを修繕していた父が、冗談半分にそう言う。
「大丈夫だよ。今日は勉強休みにしたから」
「ほう。余裕が出てきたもんだ」
動きの悪くなった引き戸の陰からちらっと俺を見て、口の端を少しだけ上げる。
「今度の模試も、良かったんだろ?」
「……まあ、ぼちぼち」
わざとぼかして答えると、隣で洗濯物をたたんでいた姉が口をはさんだ。
「A判定なんでしょ。担任の先生がそう言ってたって、お母さんから聞いたよ」
「おい、そういう情報網、いつの間に」
「保護者会って、けっこう何でも分かるんだよ」
姉はにやにやしながら、たたんだタオルを積み重ねる。
「でもまあ、ここまで来たら、あんたが一番よく分かってるでしょ。
体、壊さないようにだけしなよ」
何気ない一言だが、それが一番、家族の期待が分かりやすくにじむ。
「分かってる」
そう答えて、廊下の雑巾がけに戻った。
夕方、掃除がひと段落すると、予約しておいた年越しそばを取りに、そば屋まで歩いて行った。
「おう、山本。今日は客としてだな」
カウンターの向こうから、店主さんが顔を出す。
「はい。家族分、お願いします」
「もう用意してある。持ってけ」
紙袋を受け取るとき、店主さんは何も言わなかった。
ただ一瞬だけこちらを見て、軽くあごを引く。
その視線の意味を、勝手に「がんばれ」と訳しておく。
家に戻ってから、台所を借りて、例年通り、そばをゆでる役は俺だった。
鍋を二つ使って時間差で茹でて、家族の分を順番にどんぶりによそっていく。
「今年も政雄の年越しそばだねえ」
母が箸を手に取りながら言う。
「来年は、“大学生の息子が作ったそば”ってことになるのかしら」
「そうなるといいな」
父が短くそう言って、そばをすすった。
その一言に、祈りと期待と、ちょっとした照れくささが全部詰まっている。
「頑張ります」
俺も自分のどんぶりを前に、そう答えた。
ここまで来たら、一日や二日勉強を休んでも問題はない。
そう思えるだけのものが、自分の中にたしかにある。
*
元日。
例年通り、少し遅めに起きて、雑煮を食べた。
母の作る雑煮は、毎年ほとんど同じ味なのに、なぜか年に一度しか出てこない。
その「年に一度」が、今年はやけに特別に感じられた。
食後、家族で近所の神社に初詣に行く。
冬の冷たい空気の中、境内には同じように家族連れがちらほらいて、
おみくじの紙を広げたり、屋台の甘酒をすすったりしている。
賽銭箱の前で手を合わせるとき、願うことは決まっている。
どうか、この一年の積み上げが、本番でちゃんと出せますように。
家族がみんな、元気でいられますように。
それだけを、心の中で静かに並べる。
帰り道、石段を降りながら、姉がふいに言った。
「来年の初詣は、政雄も大学生だね」
「そうなるといいな」
「なるよ。……なると信じてるから、ちゃんと体調管理しなさい」
それは、半分は冗談みたいな口調で、半分は本気の声だった。
「はい」
素直にうなずく。
家に戻ると、急にやることがなくなった。
テレビをつければ、どこも似たような正月番組を流している。
こたつに入ってみても、何となく落ち着かない。
机に向かおうかという考えが、一瞬頭をよぎった。
けれど、昨日のうちに「大晦日と元日は、勉強は休み」と決めてある。
ここで予定を変えてしまったら、また「ノルマ病」に逆戻りしそうな気がした。
「今日は、休み」
小さくつぶやいて、机の引き出しには手を伸ばさない。
代わりに、ぼんやりと天井を見上げながら、「合格したあとのこと」を考えてみることにした。
大学に受かったと仮定して、春からの生活を頭の中で並べる。
通うことになる大学は、電車で通う距離だ。
今みたいに自転車で十分、というわけにはいかない。
朝はどの電車に乗るか。
家を何時に出るか。
行き帰りの車内で、どんな本を読むか。
前世で満員電車に揺られていた記憶が、少しだけよみがえる。
「バイトは……大学の近くのほうがいいな」
今のそば屋を、ずっと続けるわけにはいかない。
通学に時間がかかるぶん、学校の近くで働いたほうが、時間のロスは少ない。
前世の記憶を、生かせるバイトはあるだろうか。
人と話すのは、嫌いではない。
資料を整理したり、数字を扱ったりするのも、前の人生では仕事の一部だった。
逆に、体力だけを使う仕事は、あまり得意ではなかった。
大学の近くの本屋。
小さな事務所の雑用。
あるいは、誰かに勉強を教えるようなことも、やってみようと思えばできるかもしれない。
奨学金をバイトで、無理のない範囲で返せるだけ稼ぐ。
その前提は変えられない。
でも、どうせ働くなら、自分の前世の経験を少しでも生かせる場所のほうがいい。
そう考えるあたりが、自分でも「やっぱり中身はおっさんだな」と思う。
こたつにもぐりながら、そんなふうに、まだ少し先のことをぼんやりと並べていった。
勉強の手は今日は止めている。
それでも、頭のどこかは、もう次のステップの準備を始めている。
受験本番まで、2週間。
その先の四年間と、そのまた先の人生のことを、ようやく「考えてもいい」と思えるくらいには、
俺はこの一年で進んできたのだろう。




