表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/60

第31話 年越しと、その先の話

十二月の半ば、受験前最後の模試の結果が返ってきた。


封筒を開ける前から、今回は手ごたえがあったのは覚えている。

問題を解いている最中、「これは夏の頃よりちゃんと見えている」と何度か思えた。


それでも、現物の成績表を見る瞬間までは、やっぱり少しだけ緊張する。


深呼吸をひとつしてから、封を切った。


志望欄のいちばん上。

国立の経済学部の横に並んだ判定は、A。


何度か瞬きしてから、もう一度見直す。


「……A判定、か」


声に出してみると、ようやく実感が追いついてきた。


合格可能性八〇パーセント。

数字の上では「ほぼ合格できるところまできた」と言っていい範囲だ。


秋の模試で伸び悩んでいたときの自分を思い出す。

あのあと、そば屋で加奈子さんと話して、勉強をもう一度「丁寧にやる」と決め直した。


問題集のノルマをこなすことだけを目標にするのをやめて、

一問ずつちゃんと腹に落とすことを優先するように戻した。


その結果が、このA判定なのだとしたら、やってきたことは、少なくとも大きくは間違っていなかったのだろう。


「よし……」


小さくつぶやいて、成績表を丁寧に二つ折りにした。


これで、あとは約一か月後の本番を迎えるばかりだ。


      *


年が押し詰まってきて、学校も冬休みに入った。


今年は、大みそかのバイトは入れなかった。

だいぶ前から店主さんに「受験前なので、この日は休ませてください」と頼んであって、了承をもらっている。


その代わりと言うべきか、今年は大みそかは勉強も一日休みにした。


問題集のノルマ表の、大晦日と元日の欄に「休み」と大きく書いて、赤ペンで丸をつけておく。


「ここまで来たら、一日二日休んでも、もう大勢は変わらないだろう」


そう思えるくらいには、自分の中に積み上がったものがある。


それよりも、ここから先は本番に向けた体調管理のほうが大事だ。

風邪をひいて熱を出したりでもしたら、今まで積み上げてきたものを、自分で崩すことになる。


大晦日の朝は、いつも通りに起きて、朝ごはんを済ませてから、家の大掃除を手伝った。


天井の隅に溜まったほこりをはたき、窓ガラスを新聞紙で磨き、台所の棚を拭く。

前世のワンルーム暮らしで身についた、「なるべく効率よく汚れを落とすコツ」が、地味に役に立つ。


「政雄、窓、きれいになったねえ」


雑巾をすすぎに行った母が、戻ってきて笑った。


「うん。今年は寒くて外に出たくないから、助かるわ」


「受験生をこき使ってるって、学校に怒られないか?」


あちこち傷んだところを修繕していた父が、冗談半分にそう言う。


「大丈夫だよ。今日は勉強休みにしたから」


「ほう。余裕が出てきたもんだ」


動きの悪くなった引き戸の陰からちらっと俺を見て、口の端を少しだけ上げる。


「今度の模試も、良かったんだろ?」


「……まあ、ぼちぼち」


わざとぼかして答えると、隣で洗濯物をたたんでいた姉が口をはさんだ。


「A判定なんでしょ。担任の先生がそう言ってたって、お母さんから聞いたよ」


「おい、そういう情報網、いつの間に」


「保護者会って、けっこう何でも分かるんだよ」


姉はにやにやしながら、たたんだタオルを積み重ねる。


「でもまあ、ここまで来たら、あんたが一番よく分かってるでしょ。

体、壊さないようにだけしなよ」


何気ない一言だが、それが一番、家族の期待が分かりやすくにじむ。


「分かってる」


そう答えて、廊下の雑巾がけに戻った。


夕方、掃除がひと段落すると、予約しておいた年越しそばを取りに、そば屋まで歩いて行った。


「おう、山本。今日は客としてだな」


カウンターの向こうから、店主さんが顔を出す。


「はい。家族分、お願いします」


「もう用意してある。持ってけ」


紙袋を受け取るとき、店主さんは何も言わなかった。

ただ一瞬だけこちらを見て、軽くあごを引く。


その視線の意味を、勝手に「がんばれ」と訳しておく。


家に戻ってから、台所を借りて、例年通り、そばをゆでる役は俺だった。

鍋を二つ使って時間差で茹でて、家族の分を順番にどんぶりによそっていく。


「今年も政雄の年越しそばだねえ」


母が箸を手に取りながら言う。


「来年は、“大学生の息子が作ったそば”ってことになるのかしら」


「そうなるといいな」


父が短くそう言って、そばをすすった。


その一言に、祈りと期待と、ちょっとした照れくささが全部詰まっている。


「頑張ります」


俺も自分のどんぶりを前に、そう答えた。


ここまで来たら、一日や二日勉強を休んでも問題はない。

そう思えるだけのものが、自分の中にたしかにある。


      *


元日。


例年通り、少し遅めに起きて、雑煮を食べた。


母の作る雑煮は、毎年ほとんど同じ味なのに、なぜか年に一度しか出てこない。

その「年に一度」が、今年はやけに特別に感じられた。


食後、家族で近所の神社に初詣に行く。


冬の冷たい空気の中、境内には同じように家族連れがちらほらいて、

おみくじの紙を広げたり、屋台の甘酒をすすったりしている。


賽銭箱の前で手を合わせるとき、願うことは決まっている。


どうか、この一年の積み上げが、本番でちゃんと出せますように。

家族がみんな、元気でいられますように。


それだけを、心の中で静かに並べる。


帰り道、石段を降りながら、姉がふいに言った。


「来年の初詣は、政雄も大学生だね」


「そうなるといいな」


「なるよ。……なると信じてるから、ちゃんと体調管理しなさい」


それは、半分は冗談みたいな口調で、半分は本気の声だった。


「はい」


素直にうなずく。


家に戻ると、急にやることがなくなった。


テレビをつければ、どこも似たような正月番組を流している。

こたつに入ってみても、何となく落ち着かない。


机に向かおうかという考えが、一瞬頭をよぎった。


けれど、昨日のうちに「大晦日と元日は、勉強は休み」と決めてある。

ここで予定を変えてしまったら、また「ノルマ病」に逆戻りしそうな気がした。


「今日は、休み」


小さくつぶやいて、机の引き出しには手を伸ばさない。


代わりに、ぼんやりと天井を見上げながら、「合格したあとのこと」を考えてみることにした。


大学に受かったと仮定して、春からの生活を頭の中で並べる。


通うことになる大学は、電車で通う距離だ。

今みたいに自転車で十分、というわけにはいかない。


朝はどの電車に乗るか。

家を何時に出るか。

行き帰りの車内で、どんな本を読むか。

前世で満員電車に揺られていた記憶が、少しだけよみがえる。


「バイトは……大学の近くのほうがいいな」


今のそば屋を、ずっと続けるわけにはいかない。

通学に時間がかかるぶん、学校の近くで働いたほうが、時間のロスは少ない。


前世の記憶を、生かせるバイトはあるだろうか。


人と話すのは、嫌いではない。

資料を整理したり、数字を扱ったりするのも、前の人生では仕事の一部だった。

逆に、体力だけを使う仕事は、あまり得意ではなかった。


大学の近くの本屋。

小さな事務所の雑用。

あるいは、誰かに勉強を教えるようなことも、やってみようと思えばできるかもしれない。


奨学金をバイトで、無理のない範囲で返せるだけ稼ぐ。

その前提は変えられない。


でも、どうせ働くなら、自分の前世の経験を少しでも生かせる場所のほうがいい。

そう考えるあたりが、自分でも「やっぱり中身はおっさんだな」と思う。


こたつにもぐりながら、そんなふうに、まだ少し先のことをぼんやりと並べていった。


勉強の手は今日は止めている。

それでも、頭のどこかは、もう次のステップの準備を始めている。


受験本番まで、2週間。

 

その先の四年間と、そのまた先の人生のことを、ようやく「考えてもいい」と思えるくらいには、

俺はこの一年で進んできたのだろう。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ