第30話 映画はおあずけ
秋に受けた共通一次と記述の模試の成績が返ってきた。
封筒を開けて、中身をざっと見た瞬間の感想は、「悪くない」だった。
英語は相変わらず安定しているし、数学も大崩れはしていない。
社会も、選んだ科目だけなら平均は超えている。
成績だけ見れば、「まあまあ」「こんなものか」で済ませてもいい数字だ。
けれど、春から夏にかけて感じていたあの手応えを思い出すと、どうしても引っかかった。
「……伸びてない」
思わず声に出た。
春の模試から夏の模試までは、はっきりと点数があがった。
英語は八割に乗って、数学は「大きく外す」単元が減っていった。
問題を読み終わったときに、「どの公式を使って、何について答えるか」まで見える問題が、目に見えて増えていた。
あのときは、「ここまでやればちゃんと伸びるんだな」と、素直に思えた。
なのに、夏から今回にかけては、判定そのものは悪くないのに、曲線の角度がほとんど変わっていない。
英語も数学も、数字の末尾がちょっと動いたくらいで、「また一段上がった」と胸を張れる感じではなかった。
「なんでだ……?」
机に成績表を置いたまま、しばらく固まる。
夏休みの間は、それなりに自分でも頑張ったつもりだ。
問題集も、決めたノルマはだいたいこなした。
サボって遊びほうけていた覚えもない。
春から夏であれだけ伸びて、夏から秋でほとんど伸びないのは、どう考えても釈然としない。
「どこを間違えた……?」
成績表の数字を追いながら、頭の中がぐるぐる回り始める。
参考書の選び方が悪かったのか。
問題集の回し方がまずかったのか。
曜日ごとの科目の割り振りが失敗だったのか。
そもそも、勉強の仕方自体が、どこかズレていたのか。
ぐるぐると考えれば考えるほど、余計に分からなくなっていく。
前世で、数字が伸びなくて原因を探している会議室の空気を、少しだけ思い出した。
窓の外は、よく晴れていた。
本来ならいちばん気持ちのいい季節のはずなのに、成績表一枚で景色の色が変わって見える。
*
秋晴れで気持ちのいいはずの日曜日。
いつものように、そば屋のバイトに向かった。
家から歩いて数分の、見慣れた通りの角を曲がる。
暖簾のかかった店先に近づいて、そのまま自動ドアをくぐった。
「いらっしゃ~い。……って、山本くんか」
カウンターの向こうから、少し高めの声が飛んできた。
白い割烹着に、エプロン。
髪を後ろでまとめて、銀行で見かけるような控えめなメイク。
今年から信用金庫で働いている、加奈子さんだった。
「おはようございます」
「おはよう。今日はおばさんが用事でね。
人手が足りないから、久しぶりに応援で駆り出されたの」
そう言って、彼女はお盆を片手で軽く持ち上げてみせる。
「店主さんは?」
「奥でそば打ってる。あ、山本君、いつものみそ汁の用意しといてってさ」
「分かりました」
エプロンを着けて、味噌汁の鍋に火をつける。
まな板に葱を出して、トントンと刻み始めた。
手は動いているのに、頭の中はまだ、さっきの成績表の数字のほうをぐるぐるしていた。
いつもなら、刻むリズムと一緒に気持ちも整ってくるのに、今日はどうも調子が出ない。
包丁を持つ手に、妙な力が入っているのが自分でも分かった。
開店してしばらくすると、客がぽつぽつと入り始めた。
「山本、出前二件。ここと、こっち」
奥から店主さんの声が飛んできて、おかもちを受け取る。
住所を確認して、玄関を出て、通い慣れた道を早足で歩く。
いつもなら、配達先の順番と道の近さをぱっと見て考えるのに、今日はそれも一拍遅れる。
「……あ、先にこっち行ったほうがいいか」
歩き出してから方向を間違えたことに気づいて、角で引き返したり、
出前から戻ってきてからの片づけも、いつもよりワンテンポずつずれていた。
そんな自分の様子を、一番よく見ていたのは、カウンターの中の加奈子さんだったらしい。
「山本君、なんか今日、顔青いよ?」
昼どきの波が一段落したころ、彼女が声をかけてきた。
「え、そうですか」
「うん。いつもよりキレがない。
おじさんが言ってた“ちゃちゃっと動くバイト君”が、今日はどっか行ってる」
「すみません……」
思わず頭を下げる。
たしかに、今日はずっと、眉間にしわを寄せっぱなしだった気がする。
厨房の狭い鏡に映る自分の顔も、なんだか青白い。
加奈子さんは、ふうんと俺の顔をじっと見てから、ぽんと手を打った。
「ねえ、山本君」
「はい」
「また映画でも見に行く?
ちょっと見たい映画あるんだよね」
それは前にも聞いたことがあるような、ほんのり甘い響きの誘い文句だった。
「……今、それどころじゃなくて」
条件反射みたいに、言葉が出た。
「ん?」
「秋の模試が、思ったほど伸びてなくて。
成績が悪いわけじゃないんですけど、夏からほとんど変わってないっていうか……。
春から夏は点数がちゃんとあがったから、余計に、なんでだ、って」
言いながら、自分でも「ああ、俺、かなり気にしてるんだな」と気づく。
加奈子さんは、俺の話を途中で遮らずに聞いてから、口の端を少しだけ上げた。
「なるほど。煮詰まってるわけだ」
「……そう、だと思います」
「じゃあ、なおさら映画じゃない?」
「いや、そういう問題でもないというか……」
言い訳みたいな言葉を探していると、彼女がニヤッと笑った。
「前にさ、二人で映画行ったでしょ」
「はい」
女子高生と映画デートなんて、自分の年齢(前世込み)を考えると、どう考えても分不相応なイベントだった。
あのとき必要以上にドキドキしていた感覚が、少しだけよみがえる。
「あれはね」
加奈子さんは、少し声をひそめた。
「バイトのことで煮詰まってる山本君を、おじさんが心配してさ。
“映画でも連れていってやれ。小遣い出すから”って、言われたのよ」
「……え!」
「それで映画に誘ったのよ」
さらっと、とんでもないことを言う。
なるほど。そうだったのか。
店主さんが気遣ってくれていたのは、知っていた。
けれど、「映画でも連れていってやれ。小遣い出すから」と、そこまで具体的に段取りしてくれていたとは、いまのいままで知らなかった。
本人は、そんなこと一言も口にしない。
いつも通り、「山本、これ頼むぞ」と仕事を渡してくるだけだ。
その裏で、こっそりそんな手配をしてくれていたらしい。
それを今になって、加奈子さんが笑い話みたいに明かしてくれる。
店主さんの、妙に不器用で、でも確かにそこにある優しさが、一気に押し寄せてきた。
女子高生との映画デートに、場違いなほどドキドキしていた自分の姿も一緒に思い出して、
一気に肩の力が、抜けていくのが分かった。
「……ありがとうございます。いろいろと」
「なにそれ。急にまじめ」
「いや、なんか、その……」
言葉を探しながら、前のことを思い出す。
あのとき俺は、バイトを続けるかやめるかでずっと迷っていた。
受験勉強に時間を回すべきか、少しでも学費の足しを稼ぐべきか。
その板挟みで煮詰まっていた頭に、加奈子さんの生き方や軽やかさを見て、
「一日映画を見たくらいで、全部ダメにはならないか」と、どこかで開き直れた。
結局店主さんの勧めでバイトは続けることにして、勉強のほうも計画的に頑張る事になった。
完璧な答えじゃないけれど、自分なりに決めて、前に進むしかないと腹をくくれたきっかけのひとつが、あの映画の日だった。
目の前の加奈子さんは、当時と同じ調子で笑っている。
「で、今回は?
映画行くの、行かないの?」
そう言って、ニヤニヤしながらこちらを見る。
さっき「今はそれどころじゃない」と答えたのと、同じ質問。
さっきと同じように答えるか、違う言い方をするか。
自分の中で、ほんの一秒だけ考えた。
「……今回は、やめときます」
「お、はっきり言ったね」
「はい。
一日映画を見たくらいじゃ、勉強はダメにならないっていうのは、前回で分かったんですけど」
「うん」
「だからって、“ノルマをこなしたからいいや”って雑にやってたら、そりゃ伸びないよな、って今さら気づいたというか」
「ほう?」
加奈子さんが、興味ありげに片眉を上げる。
「秋の模試の結果見て、ずっと“どこを間違えた”ってぐるぐるしてたんですけど。
さっき、映画の話されて、前のこと思い出したら、ふっと分かりました」
「なにが?」
「最近は、“問題集のノルマをこなすこと”ばっかり考えてたんですよ。
今日は何ページ、今日は何題、って。
ちゃんと分かってるかどうかより、“終わらせたかどうか”で頭がいっぱいで」
言葉にしてみると、自分でも「そりゃそうだ」と思う。
「視野が、すごく狭くなってました。
勉強の仕方自体は、たぶんそんなに間違ってないはずなんです。
春から夏の模試で、それは証明されてるから。
でも、そのやり方に安心して、“雑に早くやるほう”に寄っちゃってたな、って」
「なるほどねえ」
加奈子さんは、腕を組んでうなずいた。
「前は、バイト続けるかやめるかで煮詰まってたけど、
今回は、自分で勝手に自分を追い込んで、勝手に視野狭くしてたわけだ」
「……そう、かもしれないです」
「じゃあ、映画より先に、そっちをどうにかしなきゃだね」
「はい。
ここから、もう一回ちゃんと丁寧にやり直します。
勉強の仕方は、大筋では間違ってないはずなんで」
言いながら、自分の中で、ぐるぐる回っていた歯車が、少しだけ噛み合った感じがした。
ノルマをこなすことは大事だ。
でも、「終わらせるための勉強」になってしまったら、本末転倒だ。
問題を読み終わったときには、「どの公式を使って、何について答えるか」までちゃんと見えるように。
春から夏にかけてやっていた、「一問ずつ腹に落とす」感じを、もう一度取り戻せばいい。
「というわけで、今回は映画は丁重にお断りします」
改めて頭を下げると、加奈子さんは「はいはい」と笑った。
「残念。せっかくポップコーン担当も決めてたのに」
「それは、また受験終わってからでも」
「お、約束したね?」
「……そのとき、まだ覚えてたら」
「覚えとくよ、私は」
そう言って、彼女はお盆を持って、テーブルのほうへと歩いていった。
厨房には、だしの匂いと、外から入ってくる秋の風。
さっきまで重く感じていた空気が、少しだけ軽くなったような気がした。
成績表の数字は、さっきと何も変わっていない。
けれど、その数字にどう向き合うかだけは、自分のほうで変えられる。
店の奥から、店主さんの声が飛んできた。
「山本、出前一件、頼むぞ」
「はい!」
返事をして、おかもちを手に取る。
視野が狭くなっていたのは、たぶん勉強だけじゃない。
こういうふうに心配してくれる大人が、ちゃんと周りにいることも、
自分で自分を追い詰めすぎて、見えなくなっていたのかもしれない。
秋晴れの空の下、いつもの道を早足で歩きながら、
「もう一回、ちゃんとやろう」と、少しだけ肩の力を抜いて思った。




