第29話 面談と、「足りないもの」
放課後のチャイムが鳴いたあと、進路指導室に呼ばれた。
窓際の机に座っていた進路指導の先生が、顔を上げる。
「どうぞ、そこに座って」
促されて椅子に腰を下ろすと、先生は進路希望調査票を一度見てから言った。
「国立の経済だけ受ける、ということでいいんだね」
「山本の成績なら、私立の〇〇大学あたりなら、今のままでもかなり安全圏に入っていると思うよ」
「はい。ここだけで考えています。私立は受けません。浪人もしないつもりです」
先生は小さくうなずき、用紙の端に印をつけた。
「山本は部活はやっていないから、放課後と夜はだいたい自由なんだよね」
「はい。高三からは日曜だけ、そば屋でバイトしています。平日は、授業が終わったらまっすぐ帰って勉強してます」
「担任から聞いているよ。
国立を受けるなら、本当はバイトをやめて受験に集中したほうがいいんだけどね。
ご両親も、そのあたりは承知しているの?」
「はい。これ以上家に負担をかけたくないので、バイト代は入学金に回すつもりだと話してあります」
「そうか。なら、仕方ないね」
先生は一度息をついて、手元のファイルを開き直した。
「じゃあ、受験の流れを確認しておこうか」
共通一次の日程。
二次試験までのおおまかなスケジュール。
夏と秋の模試の予定。
黒板でも聞いた説明が、ほとんど同じ順番で並んでいく。
何年も同じ話をしてきた人の、型が決まったしゃべり方だった。
「共通一次で土台を作ってから、二次試験で決める形になるからね。
夏休みは基礎を固めて、秋以降に実戦問題を増やしていくのが、だいたいのパターンです」
たぶん、ここで「はい」「分かりました」とうなずいて終わる生徒が、ほとんどなのだろう。
前世で仕事をしていたとき、「結果を出せ」と言われたら、まず「何がゴールで、今どんな情報があるか」を確認していた。
それから「今何が足りなくて、どうすればそれを補えるか」を順番に考えるのが癖になっていた。
そのやり方が、頭のどこかからまた顔を出す。
「先生、今の成績のことで、もう少し教えてほしいんですけど」
「うん?」
「今の僕の成績と内申と、模試の結果を見て、
この大学に受かるには、何が一番足りていないですか。
それと、夏のあいだに、それをどう補えばいいかも知りたいです」
一瞬だけ、先生の目が「おや」というふうに細くなった。
さっき閉じたばかりの成績表を、もう一度開く。
「そう来たか。……そうだね」
さっきまで滑らかだった声が、今度は数字を一つずつ確かめる調子に変わる。
「英語は悪くない。
模試でも校内でも、大きく崩れていないね。
このまま単語と文法を積み上げれば、共通一次では十分に使える」
数学の欄で、ペンが止まる。
「数学は、範囲ごとのムラが目立つ。
ここは八割取れているのに、こっちは半分に届いていない、という具合で。
基礎の取りこぼしを夏のうちに拾っておかないと、本番で安定しないと思う」
「国語はどうですか」
「国語は、今のところ極端に悪くはない。
ただ、共通一次の形式には一度慣れておきなさい。
現代文と古文・漢文が混ざるから、時間配分で慌てると点を落とす」
「理科は」
「理科は、選ぶ科目にもよるけど、基礎問題で落とさないことが大事だね。
共通一次では、そこが崩れると全体のバランスが一気に悪くなる。
“得意”まではいかなくても、“足を引っぱらない”ところまでは持っていきたい」
先生は英語、数学、社会の三か所に丸をつけてから、社会の欄を指で叩いた。
「社会は、やっぱり全体的に薄い。
まだ科目を絞りきれていない分、“ここが強い”と言えるところがない感じかな。
共通一次は範囲が広いから、夏のはじめに科目を決めて、そこからは腰を落ち着けてやったほうがいい」
成績表に、丸と線がいくつか増える。
「総合して言うと、今の山本に一番足りないのは“安定”かな。
特に数学と社会。
国語と理科は、今のままだと“悪くはないが安心もできない”くらいのところだね。
この夏で、共通一次の土台だけは固めておきたい」
「ありがとうございます。
どこを優先して補えばいいか、よく分かりました」
“足りないもの”がはっきりすると、少しだけ目標が見えた気がした。
「先生、共通一次のことでもう少し聞いてもいいですか」
「うん、どうぞ」
「今回が最初の年ですよね。
学校には、どんな試験になるって説明が来ているんですか。
形式とか、だいたいのレベルとか」
「そこまで聞いてくる生徒は、あまりいないね」
先生はそう言って、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「大学入試センターから、高校向けにこういう説明が来ている。
全教科マークシートで、時間内にある程度の量を処理させる形。
教科書の範囲から大きく外れないけど、基礎問題だけでは取りきれないものも混ぜる、という話だね」
紙の上を、ペン先がなぞる。
「数学なら、計算そのものより条件整理やグラフの読み取り。
英語なら、長めの文章を読ませて、その中で問う形式が増えるだろう、という説明になっている。
国語も、現代文と古文・漢文を組み合わせて、読ませる量をある程度増やすと言われている」
「過去問は、もちろん、まだないですよね」
「そう。だから今のところは、予備校が出している予想問題とか、対策本で“雰囲気”をつかんでもらうしかない。
センターが出したサンプル問題も少しはあるけど、それだけでは足りないね」
「その予想問題や対策本の中で、先生から見て“これは近そうだな”と思うものって、ありますか」
先生は背後の棚を振り返り、数冊を引き抜いた。
「この総合問題集と、この英語の長文の本。
数学は、まず基礎の問題集を一冊やりきってから、このマーク式の問題集に進むといい。
社会と理科も、それぞれ基礎問題が続いているタイプを一冊決めておきなさい」
机の上に並んだ表紙を、順番に目で追う。
「本屋で見るときは、表紙だけじゃなくて、中身をめくってみなさい。
問題の量とレベルを見て、“これなら続けられそうだな”と思うものを選ぶといい」
「分かりました。ありがとうございます」
タイトルと出版社をメモする。
進路指導室を出て、廊下の空気を吸い込んだ。
日の傾き方は、教室に戻る前と何も変わっていないのに、頭の中の景色だけが少し違って見えた。
“足りないもの”と、“今年の試験のだいたいの形”、それから“候補になりそうな本の名前”。 先生からもらったのは、その三つだ。
ここから先、どの本を買って、どういう順番でやるか、どこに時間を多めに割くかは、自分で決めるしかない。
それでいい、とも思っていた。
*
夕飯のあと、茶碗を洗い終えてから、居間に戻った。
ちゃぶ台の向こうで、姉が書店のシフト表を見ている。
父は新聞を広げ、母は洗濯物をたたんでいた。
「今日、進路指導だったんでしょ?」
姉が顔を上げる。
「うん。国立の経済だけ受けるって話と、
今の成績で何が足りないかとか、共通一次の本の候補とか、いろいろ聞いてきた」
「へえ。共通一次の本、最近よく出てるよ」
姉はシフト表を指で押さえたまま言った。
「総合問題集と、英語の長文のやつと、数学の基礎の薄い問題集。
題名、だいたい覚えてるんだけどさ。
本屋で働いてて、ああいうのって、よく売れてる?」
「売れてる。
厚めの総合問題集は、同じのが何冊かまとめて出ることが多いから、たぶん学校で勧めてる。
英語の長文の本も、前よりレジに来る回数が増えた感じかな」
「数学の薄いのは?」
「それも十冊とか動くときがある。
“まずこれをやりなさい”って言われてるんだと思う」
「やっぱり、そのあたりなんだな」
先生の机の上と、姉のレジの前が、頭の中でつながる。
「名前までは覚えてないけど、表紙見れば分かるよ。
明日、本屋寄るなら、“これは店でもよく出てるな”くらいは思い出せる」
「それで十分。ありがと」
「はいはい」
姉はそう言って、またシフト表に視線を戻した。
居間のちゃぶ台の上に、受験の話題が少しだけ増えた。
でも、その空気は、まだいつも通りのままだった。
*
夜、自分の部屋に戻って、机の上に紙を一枚広げた。
先生から聞いた「足りないところ」と、共通一次の形式、候補になりそうな本の名前。
居間で姉から聞いた、「本屋でよく動いているシリーズ」。
それを頭の中で並べてから、ボールペンを手に取る。
英語は、今のペースを落とさない。
数学は、基礎をやり直してムラを減らす。
社会は、科目を決めて毎日少しずつ厚くする。
国語は、共通一次の形式に慣れておく。
理科は、足を引っぱらない程度までは持っていく。
紙の端に、そう書きつける。
細かい時間割は作らない代わりに、曜日ごとに「その日に必ずやる科目」だけを決めることにした。
それぞれの科目で使う問題集を一冊ずつ決めて、ノートの端に「一日に解く目安のページ数」を小さく書き込む。
「この数学の問題集は、一日ここまで。
英語の長文の問題集は、一日最低何題。
社会の基礎問題集は、一日見開き何ページ。」
勉強の中心は、問題集に置くことにした。
参考書のほうは、最初にざっと目を通して、「どこに何が書いてあるか」だけ頭に入れておく。
分からない問題が出てきたときに、すぐ該当のページを開けるようにしておけば、それでいい。
「今日はこの曜日だから、まず数学、そのあと英語」と順番だけ決める。
時計は見るが、時間ではなく「ノルマが終わったかどうか」で一日を区切る。
特に数学の問題集は、同じ本を何周か回すつもりでいた。
問題を読み終わったときに、「どの公式を使って、何について答える問題か」まで見えるようになるところを、この夏のゴールにする。
二年生までの夏と比べれば、明らかに量は増えた。
きついのは分かっている。
それでも、今の成績と、入試までの残りを考えれば、このくらいはやらないと足りない。
「とりあえず、次の模試まではこれで試してみるか」
小さくつぶやいて、紙を机の端に置いた。
問題集を何周か回して、受験の後半に入ったら、参考書に毎日のノルマはつけない。
そのころには、「分からないところを調べるための本」に完全に役割を変えていくつもりだった。
前世で仕事をしていたときも、分厚い資料は全部読もうとせずに、必要なときだけ開いていた。
受験勉強も、できるだけ同じやり方でやってみようと思った。
*
夏が終わるころ、共通一次対策の模試の成績表が返ってきた。
春に受けたときより、数字ははっきり良くなっていた。
英語は安定して八割前後。
数学は、大きく外していた単元がだいぶ減っている。
社会も、選んだ科目だけなら、ようやく平均より上に顔を出した。
問題を読み終わったときに、「どの公式を使って、何について答えるか」まで見える問題が、春より確実に増えている。
「ここまでやれば、ちゃんと伸びるんだな」
成績表を見下ろしながら、素直にそう思った。
それでも、判定欄に並んだ記号は、「国立を確実に」と言えるほどではない。
たぶん受かる、の一歩手前。
目標のところに、もう少しだけ届いていない感じだ。
「ここでペースを落とすわけにはいかないな」
前世で仕事をしていたときも、中間の数字が良くなり始めてから、もう一段だけ詰めた案件ほど、最後までうまくいった。
今も、たぶん同じだ。
共通一次のほうは、このやり方をもう少し続ければ、まだ伸ばせる手応えがある。
問題は、二次試験だ。
「秋の共通一次と記述模試も、受けておいたほうがいいな」
声に出さずに、心の中で決める。
マークだけでなく、記述のほうでも、今の勉強がどこまで通用するのか。
秋の模試で一度、それを試しておきたい。
「問題集メイン」の勉強の型は、間違ってはいない。
あとは、そこに二次試験向けの記述練習を、少しずつ足していく。
受験本番までに、「たぶん受かる」を「ほぼ大丈夫」に変えるために。




