第28話 九月と二月のあいだ
六月の終わり、ホームルームが始まる前から教室に妙なざわつきがあった。
黒板の端に貼られた紙に、数人が群がっている。
「出たか?」
「なんか貼ってあるな」
席に鞄を置いてから前に出てみると、紙の上には大きく「進路関係予定」と書かれていた。
一行目に「就職希望者向け説明会 七月○日」。
その下に「求人票閲覧開始 七月△日〜」。
さらに「入社試験(第1回)九月○日〜」の文字。
その右側には、「進学希望者向けガイダンス 七月×日」「共通一次 一月」「私立一般 二月」といった日付が、簡単な表にまとめられている。
同じ紙の中に「九月」と「一月」と「二月」が並んでいた。
「じゃあ、始めるぞー」
ホームルームのチャイムと同時に、担任が教室に入ってきた。
男子の何人かがあわてて席に戻る。
「黒板の紙、見たと思うが、今日はその説明だ」
担任は教卓に進路指導部からの資料を置き、教室をぐるりと見回した。
「まず就職希望者。七月から求人票を見られる。
この学校から推薦できる会社、役所、そういったところの一覧だからよく見ておくように」
教室の後ろのほうで、数人が姿勢を正した。
普段は割とだらしない座り方をしている連中だが、今日は背筋が伸びている。
「例年通り、一人一社だ。
成績や欠席、それから本人の希望を聞いて、学校として“ここなら出せる”というところを相談して決る。
入社試験は九月が最初の山になる。筆記と面接だ」
担任は黒板の紙の「九月」を指で軽く叩いた。
「九月までは、むしろ就職組のほうが進学組より本番が近い。
主要五教科、ここでサボらないように。面接の練習も、夏休み前からやるから」
教室の空気が、少しだけ引き締まる。
「進学希望者は──」
今度は黒板の右側を指さす。
「共通一次が一月。私立が一月から二月。
一見、時間があるように見えるが、一学期と二学期の成績と内申が、そのまま推薦や出願の条件になる。
“まだ先だから”と油断していると、足元をすくわれるぞ」
何人かが苦笑いした。
自分のことだと思っているやつが、教室に何人もいる。
「それぞれ、自分の締切がどこにあるか、ちゃんと頭に入れておけ。
質問がある人は、放課後に進路指導室に来なさい」
担任がそう締めくくると、チャイムが鳴った。
*
ホームルームが終わると同時に、前の黒板の紙の前はまた人でいっぱいになった。
「うちの名前、どこに出てんだ?」
「先生、ここ“事務職”ってなってるけど、これ何やるの?」
就職組の連中が、求人票の一覧を示した別の紙を見せてもらっているらしい。
「山本、お前は進学だもんな?」
隣の席のやつが、肩をつついてきた。
「うん。国立の経済、ってことにしてある」
「いいなあ。九月に本番こないの」
「その代わり、二月までずっとだよ」
「だな」
彼は苦笑して、自分の机に戻った。
前のほうで、クラスのムードメーカーの一人、村井が求人一覧の紙を背伸びして覗き込んでいた。
「お、○○銀行あるじゃん。ここ、うちの親が“受かるなら行け”ってうるさいとこだ」
「成績足りてんのかよ」
「そこは先生と相談だなあ。ほら俺、兄貴がもう大学行ってるからさ。
“どっちかは早く働け”ってずっと言われてるんだわ」
冗談めかした言い方なのに、その「言われてるんだわ」のところだけ、少しだけトーンが重い。
「村井、お前なら大学でもやっていけると思うけどなあ」
近くにいたやつがぼそっと言うと、村井は肩をすくめた。
「俺が行ったら、親が倒れる。
兄貴に任せて、俺はこっちで稼ぐ係。そういう分担」
そう言って笑う顔は、いつもの調子だ。
けれど、その笑いの奥にあるものは、みんななんとなく分かっている。
「○○銀行はな、成績もそうだが、“人柄”もかなり見るって聞いたぞ」
いつの間にか担任が後ろに立っていて、求人一覧の紙を指さした。
「筆記で一定ラインを超えたら、あとは面接だ。
普段の生活態度も見られると思っておけ」
「先生、プレッシャーかけないでくださいよ」
村井が冗談めかして言うと、クラスの何人かが笑った。
「プレッシャー感じるくらいがちょうどいい。九月まで、あっという間だぞ」
担任はそう言って、教室を出て行った。
*
放課後のチャイムが鳴ると、進路指導室の前の廊下に人だかりができた。
「就職組、今日から面接練習なんだって」
移動教室から戻る途中で、隣のクラスのやつが教えてくれた。
進路指導室の前のベンチには、普段より少しきちんとした服装の同級生が数人座っている。
シャツの前をちゃんと留め、ズボンのシワを気にしている。
手には、志望理由や自己紹介を書き込んだプリント。
「次、三組の村井」
中から進路指導の先生の声がして、ドアが開いた。
「はい」
村井が立ち上がり、シャツの裾を軽く引っ張って整える。
いつもはふざけた歩き方をするくせに、今日は妙に真っ直ぐな足取りで中に入っていった。
俺は廊下の反対側で、自分の鞄を肩にかけ直すふりをしながら、その様子を横目で見た。
「緊張するなあ」
ベンチに残ったやつが、小さくため息をついた。
「先生、細かいんだろ。“はい”の声が小さいとか、“目を見ろ”とか」
「今のうち言われたほうがマシだよ。本番で固まったら終わりだし」
そんな会話をしながらも、彼らの指先はプリントの端をぎゅっと握っている。
「志望理由、もう覚えた?」
「一応。“地元で働ける銀行で、お客さんと長く付き合える仕事がしたいです”とか、そんな感じ」
「お前、らしいな」
笑いが起きる。
それでも、誰も「笑いすぎ」にはならない。
ここが、笑いだけの場所じゃないことを、みんな分かっている。
しばらくすると、進路指導室のドアが再び開いた。
村井が出てくる。
いつものニヤニヤした顔とは違って、少し真面目な表情だ。
「どうだった?」
すぐに誰かが聞いた。
「“声は通ってるけど、答えが長い”って。
“最初に結論を言え”って十回くらい言われた」
「十回はきついな」
「でも、ここで言われといたほうがいいよな。九月までに口が勝手に動くくらいにしとけってさ」
村井はそう言って、プリントを見下ろした。
「山本、お前もそのうち面接とかあるんだろ?」
目が合うと、村井がこっちに振ってきた。
「大学は面接ないところ受けるつもり。筆記で何とかする予定」
「いいなあ。紙で勝負できるやつは」
村井は軽く笑って、肩を回した。
「俺はしゃべるほうで勝負だ。
就職組の見せ場は九月だしな」
その言い方はいつもの調子だけれど、目の奥は笑っていない。
九月に一回だけ叩きに行く扉のことを、本気で見ている目だった。
「じゃ、次、二組の佐藤ー」
先生の声がして、別のやつが立ち上がる。
俺は廊下の端を曲がりながら、自分の鞄の重さを意識した。
中には、模試の案内と問題集。
進学組の締切は、紙の上に書かれた一月と二月。
それでも、教室の空気を見ていると、「まだ先」という感覚は少し薄くなる。
「……九月までに、こっちももう一段ペース上げるか」
誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。
*
その日の夜、食卓で父が新聞をめくりながら言った。
「高校の求人票、もう出始めたそうだな」
「うん。今日、先生が説明してた」
「○○銀行とか、○○製作所とか。
ああいうところに高卒で入れるのは、成績いい連中だけだ」
父は新聞の経済面を折りながら言う。
「うん。家の事情とか、きょうだいのこととか。
進学できる力があっても、あえて就職選ぶやつ、けっこういるよ」
村井の顔が頭に浮かぶ。
「成績いいのに就職選ぶって、けっこう覚悟いるよね」
姉がそう言って笑った。
姉自身、経済的に厳しい家で公立と奨学金とバイトで都立に進んだ。
その一言には、自分の経験も少し混じっている。
「お前は大学だな」
父が俺のほうを見た。
「うん。そこはもう決めてる」
「なら、向こうは九月、お前は二月。
どっちも、自分の締切を間違えるなよ」
「分かってる」
茶碗を持ちながら答えると、姉が茶目っ気のある声で言った。
「じゃあ九月になったら、“就職組、がんばれー”って心の中で応援しつつ、
自分は机にかじりついてなきゃね」
「そうだな」
俺は笑ってうなずいた。
同じクラスで、同じテストを受けてきた連中が、
九月と二月という違う山に向かって歩いている。
どちらも、登ったあとはもう同じ場所には戻らない。
ちゃぶ台の上の味噌汁の湯気を見ながら、俺は自分の登る山の高さを、もう一度頭の中で見直した。




