第27話 新聞とニュースと、高三の朝
四月も半ばを過ぎると、朝の空気に少し湿り気が混じり始める。
台所からは味噌汁の匂いがして、居間にはいつものちゃぶ台が出ていた。
端には、父が広げた朝刊が置かれている。
「おはよう」
座布団に腰を下ろしながら声をかけると、父は小さくうなずいただけで、目は紙面から離さない。
俺は味噌汁と焼き魚の皿を自分の前に引き寄せ、茶碗に盛られたご飯に箸をつけた。
斜め前では、姉がトーストをかじりながら、やはり新聞の見出しを目で追っている。
「なんかある?」
パンをもぐもぐしながら、姉が父に聞いた。
「ん。まあ、ぼちぼちだな」
父はいつもの調子でそう言って、新聞の端を少し持ち上げる。
紙面の上のほうには、太い文字の見出しが並んでいた。
「○○工業団地、造成本格化」
「輸出回復で機械産業に明るさ」
そんな文字が目に入る。
石油ショックだ何だと大騒ぎしていた時期は、もう少し前だ。
そこから立ち直りかけのこの頃は、「明るさ」「持ち直し」といった言葉を、わざわざ見出しに入れたがる。
俺は茶碗を持った手を止めないようにしながら、新聞の上半分だけをちらりと見た。
「ここ、新しい工場ができるんだって」
姉が、記事に載っている地図の四角い枠を指で押さえる。
「○○市の外れ。うちからだと、電車で四十分くらい?」
「そっち方面なら、そうだな」
父があごをさすりながら答える。
「工業団地って、何ができるの?」
姉の問いに、父は少し考えてから言った。
「いろんな工場がまとまって入る場所だ。
機械を作る会社もあれば、部品を作る会社もある。
道路や電気や水をまとめて整えるから、ああいう形になる」
「へえ」
姉が感心したようにうなずき、またトーストに戻る。
俺は見出しの字面を頭の中でなぞった。
こういう工業団地に、高卒で入っていく同級生もきっと出てくる。
前世では「工場」という一言でまとめて見ていた場所だが、中の仕事はずいぶん違う。
組立ラインで一日中同じ作業をする人。
機械を見回って故障を直す人。
事務所で数字と伝票に向き合う人。
同じ場所で働いていても、一日の景色はまるで別物だ。
紙面の右隅に、小さな記事がある。
「中国で経済政策転換」といった硬い見出し。
細かい字で、難しい用語が続いている。
教科書に「改革開放」という四文字を見たのは、前世ではもっと後だった。
その流れが、今の俺が高校三年の春を迎えているあいだにも、静かに動き始めている。
ここから十年、二十年のあいだに、工場の地図も、輸出の向きも、少しずつ描き変わっていく。
その波のどこかに、自分や同級生たちも乗ることになる。
世界全体をどうこうするつもりはない。
けれど、「どの業種がどう伸びていくか」くらいは、頭の隅に置いておいても損はない。
「新聞、読むか」
父が紙面の片側を少しこちらにずらした。
「見出しだけ」
箸をいったん置き、俺は新聞の上半分に目を通す。
上は経済や政治の話。
真ん中より下には、交通事故や火事、事件の小さな記事が並んでいた。
「トラックと乗用車が正面衝突」
「線路内に置き石、電車が急停止」
そんな文字が目に飛び込んでくる。
この先何十年かのあいだに、もっと大きな事故や災害がいくつも起きることは知っている。
けれど、それをここから全部変えようとは思わない。
俺一人が高校三年の春からじたばたしたところで、日本中の事故がなくなるほど世界は軽くない。
ただ、ごく狭い範囲、たとえば家族を守るとか、自分の暮らし方を少し変えるとか。そのくらいなら話は別だ。
豪雨や地震で交通が止まったときに、どう備えておけば少しマシか。
病気が流行ったときに、何を気を付ければひどい目に遭う確率を下げられるか。
そう考える材料として、ニュースの一行一行は覚えておいていい。
「新聞、食卓の真ん中に置いたままにしないの」
台所から、母の声が飛んできた。
「今、たたむよ」
父が新聞を丁寧に二つ折りにして、端に寄せる。
「ごちそうさま」
父が茶碗を置いて立ち上がった。
姉もトーストを食べ終え、コーヒーを飲み干す。
「新聞、あとで経済のとこだけまた見てもいい?」
俺が聞くと、父は「ああ」と短く答えた。
朝刊を半分に折りながら、経済面の折り目がぐちゃぐちゃにならないように、少しだけ気を付ける。
学校から帰ってきてから、そこだけもう一度読むつもりでいる。
*
学校までの道は、いつものように高校生であふれていた。
自転車の男子の列が続き、その合間を、小学生の集団登校が縫う。
電車の時間に合わせて急ぐやつ、少し早めに出てきてのんびり歩くやつ。
その中に自分も混じっている、という感覚に、今でも少しだけズレがある。
校門をくぐると、グラウンドの向こうで運動部が朝練をしていた。
野球部の掛け声、陸上部の足音、サッカー部のボールを蹴る音。
まだ大会前だから、三年の姿もちらほら見える。
夏が近づけば、順番に引退していき、そのたびに「こっち側」の人数が増えていく。
俺は入学のときから部活には入らなかった。
だから、あの引退の拍手の輪に入ることもない。
教室に入ると、すでに何人かが自分の席についていた。
前のほうでは、クラス委員が黒板に日付と時間割を書いている。
「おはよう」
「おう」
いつものように軽く挨拶を交わし、俺は自分の席に鞄を置いた。
机の中から教科書とノートを出し、今日の一時間目の科目を確認する。
世界史。
朝刊で見た「中国で経済政策転換」という小さな見出しが、頭の片隅にまだ残っている。
教科書の中で「改革開放」として出てくる話は、今朝のニュースの延長線上にある。
そう思って聞けば、ただの暗記よりは少しマシだろう。
「なあ、昨日のニュース見たか?」
斜め前の席で、クラスメイトが友達の肩をつついた。
「どれ?」
「夜のやつ。電車の置き石の話。
あれ、うちの線の一駅向こうだってよ」
「マジかよ。バカだなあ、ああいうの」
「バカで済めばいいけどさ。脱線したらシャレにならんぞ」
二人の会話は、それきり宿題の確認に流れていく。
俺はそれを耳の端で聞きながら、ノートの端に小さく「置き石」とだけ書いた。
それがあとで何かに役立つかどうかは分からない。
ただ、「こういうタイプの危なさが、この近所にある」という印を、ひとつ付けておく。
事故や事件のニュースを、ただの怖い話で終わらせるか、
「じゃあ自分はどうするか」に一歩だけ踏み出すかで、先の結果は少し変わる。
*
一日の授業が終わると、教室の外はまだ明るい。
部活に向かうやつらが、鞄を肩にかけて廊下を走っていく。
教室に残るのは、自習をするやつと、帰宅部の何人か。
俺は世界史のノートを閉じ、鞄にしまった。
教科書とノートは基本的に自分の部屋だ。
ここでは必要な分だけ出して、帰り支度と一緒に片づける。
「山本、今日はバイト?」
後ろの席のやつが聞いてきた。
「バイトは日曜だけだよ。平日は帰る」
「いいなー、俺もなんかやってみたいけど、親に“まずは勉強しろ”って言われた」
「まあ、三年だしな」
バイトを許されるかどうかも、家ごとに違う。
うちの場合、日曜の昼前から夕方までのそば屋だけ、という条件付きだ。
平日の午後三時前後に学校が終わり、そこから夜ご飯までが、俺の「自由時間」になる。
勉強したり、新聞を読んだり、ニュースを見たり。
そのどれをどれくらいにするかを決めるのは、自分だ。
「じゃ、また明日」
軽く手を上げて教室を出る。
カバンの重さは、教科書とノートの分だけ。
部活の道具も、仕事の道具も入っていない。
*
家に帰ると、まだ夕飯には早い時間だった。
「ただいま」
「おかえりー。今日は早いわね」
台所から母の声がする。
俺は奥の六畳の部屋に鞄を置き、机の上に教科書とノートを出した。
さっき教室で書きかけた世界史のノートの続きをざっと見直し、
朝、新聞で見た記事のことを一瞬だけ思い出す。
中国、政策転換、輸出、そういった単語が頭の中で並ぶ。
詳しいところまでは分からない。
今は、「こういう方向に動き始めている」という印だけでいい。
階段を降りて居間に戻ると、ちゃぶ台の端に朝刊がたたんで置かれていた。
「お父さんの新聞、もう見て大丈夫?」
「いいわよ。晩ご飯のときはどかしてね」
母が煮物の鍋をかき回しながら答える。
俺は新聞を手に取り、経済面と社会面だけを開いた。
さっきの工業団地の記事、輸出のグラフ、小さな事故の短い記事。
必要以上に読み込むつもりはない。
気になったところだけ目でなぞり、頭に引っかかった単語を心の中で反芻する。
夕飯の支度の音が、台所から聞こえてくる。
これ以上ここで広げていると邪魔になりそうなので、新聞をたたんで元の場所に戻した。
あとは、夜のニュースを一緒に見る時間がある。
*
夕飯の時間になり、ちゃぶ台の上におかずが並んだ。
テレビはまだついていない。
父が帰ってくるのを待つあいだ、姉が教職課程のレポートを広げていた。
「どう?」
「うーん、まあまあ」
姉はペンを口元に当てながら、紙を見下ろしている。
「子どもの発達段階について書けって言われてもさ。
自分がどうだったかなんて、いちいち覚えてないんだよね」
「確かに」
俺は座布団に座りながら相づちを打った。
「でも、そういうの考えるのは嫌いじゃないけどね。
“この年齢くらいの子には、このくらいしか分からない”とか、“ここまでは分かる”とか」
「先生って大変そう」
「大変だと思うよ。
でもさ、ニュース見てると嫌な話も多いじゃない」
姉はそう言って、テレビのリモコンをちらっと見る。
「この前も、どこかの学校で体罰がどうとかあったでしょ。
ああいうの見ると、“やりたくないなあ”って気持ちと、“だからこそちゃんとやる人も必要なんだろうなあ”って気持ちと、両方出てくるんだよね」
「ふうん」
俺はそれ以上は何も足さず、そのまま受け取った。
学校のニュースは、この先もいい話と嫌な話が交互に出てくるはずだ。
それを見てどう感じるかは、人それぞれだ。
俺にできるのは、「ただの愚痴のネタ」にしないことくらいだろう。
玄関の戸が開く音がして、父が帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
母がテレビをつけ、ニュース番組に合わせる。
アナウンサーが淡々と一日の出来事を読み上げ始めた。
交通事故、火事、小さな事件。
それから、経済や政治の話が続く。
壊れた車や黒い煙の映像が流れても、父の表情はあまり変わらない。
何十年も働いてきた大人にとっては、こういう映像も日常の一部なのかもしれない。
俺は茶碗を持ちながら、画面と父の横顔を交互に見た。
毎回胸を痛めていたら、こちらの心がもたない。
かといって完全に他人事にしてしまうと、自分の身も守れなくなる。
「自分と自分の周りでできること」と、「自分にはどうにもならないこと」。
その線引きを、どこかで決めておく必要がある。
ニュースの途中で、経済の話になった。
「自動車の輸出台数が前年を上回り」
「電機メーカーの売上が持ち直し」
そんな言葉がテロップに流れる。
車、電機、造船、鉄鋼。
いろんな業界の名前が次々と紹介される。
高校三年の春の時点で、その中身まで理解する必要はない。
ただ、「この先どこで働くか」を考えるとき、
新聞とニュースで聞いた単語が全然分からない、という状態だけは避けたい。
大学に行けたとして、そのあと何をするか。
会社員になるのか、別の生き方を探すのか。
今から全部決めるのは無理だ。
それでも、地図の輪郭くらいは見ておきたい。
「ごちそうさま」
父が茶碗を置き、母がテレビの音量を少し下げた。
ニュースは天気予報に切り替わっている。
「俺、勉強してくる」
そう言って立ち上がり、自分の部屋に戻った。
*
机の上には、さっき置いた教科書とノートが並んでいる。
前世で世界史の資料を見れば、中国のページに必ず「改革開放」という見出しがあった。
朝刊の小さな記事と、教科書の太い文字が、頭の中で重なる。
何年に誰が何をしたか、という細かいところは、結局覚えないと点数にならない。
ただ、「これは今朝のニュースで見た流れの一部分だ」と思えば、
白い紙に黒い文字で並んでいるだけの歴史よりは、少し身近だ。
現代社会の教科書を開けば、石油ショックのところに太い枠がついている。
そのあと「低成長時代」という言葉が出てくる。
景気がいいだの悪いだの、給料が上がるだの上がらないだの。
そういう話は、この先もずっと続いていく。
そのたびに「政治が悪い」「会社が悪い」と言うだけで終わるか、
自分の選び方のほうにも少し手を入れるか。
そこが分かれ目になることくらいは、さすがに分かっている。
机の引き出しから、小さなノートを一冊取り出した。
表紙には何も書いていない。
ページの一番上に、今日の日付と、「ニュースのメモ」とだけ書き込む。
朝刊で見た工業団地。
夜のニュースで聞いた輸出回復の話。
電車の置き石。
一つにつき一行だけ、簡単な説明を添えて書き留める。
長々と分析をするつもりはない。
今は、「気になったことを忘れないようにする」ためのメモだけでいい。
このノートを見返すのがいつになるかは分からない。
もしかしたら、まったく役に立たないかもしれない。
それでも、「知らないまま慌てる」よりはマシだ。
ノートを閉じて机の端に置き、時計を見る。
まだ夜の八時前。
ここから二時間は、問題集に向かう時間にする。
ニュースも新聞も、今日はここまで。
これ以上追いかければ、勉強時間を食いつぶす。
「よし」
小さくつぶやき、俺は問題集を開いた。
ニュースのことも、将来の仕事のことも、家族をどう守るかということも、
全部ひっくるめて「あとでちゃんと考える」と決めている。
その「あとで」にたどりつくためには、
今のところ、この国立の経済に受かることが、一番手前の条件だ。
シャーペンの先が、白い紙の上を走り始める。
窓の外では、春の夜風が、まだ少しひんやりとしていた。




