第26話 国立一本・落ちたら就職
四月のはじめ。
三年になって最初のホームルームは、教室の空気が少しだけ重たかった。
黒板の前には、新しくこのクラスを受け持つことになった数学教師が立っている。
声は特別大きくないのに、話し始めると自然にみんなの視線が集まるタイプだ。
「はい、まずは配り物からいきます。前の人から後ろの人へ回してください」
教卓の上の紙の束が、前の席から順に後ろへ流れていく。
一年の行事予定、時間割、校則の変更点。
その中に、一枚だけ紙の色が違うものが混じっていた。
「それから、これが大事です」
担任が色付きの紙を一枚つまみ上げる。
「三年生の進路希望調査票、第一回目です」
教室のざわめきが、少しだけ細くなる。
「“第一回”ということは、これで全部決めろというわけではありません。
ただ、もう三年ですから、今の時点でどちらの方向に進みたいのかくらいは、はっきりさせておきましょう」
手元に回ってきた用紙には、「進路希望調査」と太い文字が印刷されている。
名前、希望進路、大学・短大・専門学校・就職のチェック欄。
その下には、「大学希望の場合」として、国公立か私立か、文系か理系か、志望学部、第一希望大学などが並んでいた。
「これは、家の人とも相談してから出してください。
本人だけで勝手に書いてきました、というのは困ります。学費や、家から通うかどうかなど、現実の話が関わってきますから」
前のほうで、何人かがうなずく。
「大学を考えている人は、“国公立か私立か”“文系か理系か”“学部はどのあたりか”。
まだ迷っている人も、今の時点で一番近いと思うところを書いてきてください」
黒板に、担任の字で「国公立」「私立」「文系」「理系」と書かれていく。
「“分かりません”だけはやめましょう。
分からないなりに、“今はここかな”と線を引くのが、この紙の役目です」
クラスのどこかで、シャーペンの芯を出す音がした。
名前だけ先に書き始める者もいる。
政雄も、筆箱からシャーペンを取り出した。
紙の真ん中あたりの「希望進路」の欄に目を落とす。
大学進学。
その下には、「国公立」「私立」と小さく印刷されている。
自宅から通えること。
学費が、うちでもどうにか払えること。
この二つを前提にすると、「大学に行く」道は一気に狭くなる。
下宿は、家賃も光熱費も食費もかさむので最初から無理だ。
授業料の高い私立も、現実的ではない。
家から通える距離にあって、授業料の負担も抑えられる大学。
今のところ、その条件に当てはまるのは、実家から電車で通えるこの国立だけだ。
大学に行くなら、ここ。
大学に行かないなら、就職。
今、目の前にある道は、その二つだけだった。
「それから、共通一次ですね」
担任が黒板の端に「共通一次」と書き足す。
「皆さんの代から、まず全国一斉の試験を受けて、それから各大学の試験という形になります。
国公立を希望する人は、ここも一緒に考えておいてください」
教室に、少し小さなざわめきが戻る。
政雄は黒板の「共通一次」を見ながら、心の中でひとつ線を引いた。
浪人はしない。
私立も受けない。
大学に行くなら、この国立。落ちたら就職。
そう決めている以上、共通一次も、そのあとの二次試験も、まとめて一発勝負だ。
「調査票の提出は、来週の月曜日です。
書き方が分からない人は、今日のうちにでも職員室に聞きに来なさい。
“親に何て言えばいいか分からない”という相談でもいいですから、一人で抱え込まないように」
担任の最後の一言で、教室の空気が少しだけ和らいだ。
前の列から、
「第一希望、“とりあえず”って書いちゃダメですか」
という小さな声が聞こえ、すぐ後ろから
「“とりあえず一浪”とかやめなさいよ」
とツッコミが飛ぶ。
笑いが前のほうに集中するのを横目に見ながら、政雄は進路希望調査票を二つに折って、鞄にしまった。
この紙を本当に埋めるのは、家に帰ってからだ。
*
その夜。
夕飯の片づけが終わり、ちゃぶ台の上には湯飲みとみかんの皿だけが残っていた。
政雄は自分の席に座り直し、鞄から進路希望調査票を取り出す。
「なに、それ」
向かいで麦茶を飲んでいた姉が、すぐに気づいた。
「三年の進路希望調査。第一回」
「ああ、ついに来たね、それ」
姉は興味深そうに身を乗り出す。
紙には、まだ「氏名」のところにだけ「山本政雄」と書かれていて、肝心の希望欄は空白のままだ。
「政雄の高校、ちゃんとしてるよね。
うちなんか、大学入ってからでも“就職どうするか考えといてねー”でプリント一枚ぽん、だよ」
「そんな感じなんだ」
「そんな感じ」
姉は笑ってから、自分のノートをちゃぶ台に広げた。
表紙には、大学名と「教職課程」と印刷されたシール。
「そっちは?」
「教職?」
「そう。なんとなく一年から取ってたんだけど、
三年になったし、本気でやるなら今かなって」
中身には、「教育原理」「教育心理」といった科目名が並んでいる。
「先生になるの?」
「まだ“なる”とまでは決めていないけど、
“なってもいいかな”くらいには思ってるかな」
姉は肩をすくめた。
「本読むのも好きだし、人に教えるのも嫌いじゃないしね。
ちゃんとやってみて、違うと思ったらやめる」
「ふーん」
政雄は、姉のノートと、目の前の調査票を見比べた。
「で、そっちは? もう決めてるんでしょ、どうせ」
「だいたいは」
「ほら、書きなよ。第一希望ってところ」
姉は勝手に紙をくるくる回して、自分の前に持ってくる。
「書き方合ってるか見てあげるから。はい、ペン」
シャーペンを差し出され、政雄は少しだけ息を吸った。
「希望進路」のところに「大学」と書き、「国公立」に丸をつける。
その下の欄に、文字を入れていく。
「○○国立大学 経済学部」
書き終えた行を、姉がのぞき込んだ。
「おー、ちゃんと“○○大経済”って感じだね。
経済かあ。社会人になってからもつぶしが利きそうなやつだ」
「まあ、それもある」
年金だの保険だの、会社の仕組みだの。
前の人生で分からないまま流されて、あとから慌てたものが頭をよぎる。
「大学出て、何をやりたいかは、まだ決めてないの?」
「そこまでは、まだ。
考えてもどうせ変わる気がするし」
「それはそうだね」
姉はあっさりうなずいた。
「わたしだって、一年のときなんか“英文科行ければいいや”くらいで、その先なんにも考えてなかったし。
三年になってから急に“先生もいいかも”って言い出してるわけだしね」
「そういうもんか」
「そういうもん。
今は“どこに行くか”まで決めておけば十分だと思うよ」
姉は自分の教職のノートを閉じて、政雄の紙を指さす。
「その先のことは、行ってから考えればいいよ。
行きたいところに行けなきゃ、そもそもスタートラインに立てないんだから」
「……だよな」
紙の上の「経済学部」の文字を、もう一度見つめる。
大学の先のことを書く欄は、この紙にはない。
今は、この一行が、自分の「とりあえずのスタートライン」の形になる。
ちゃぶ台の上で、「教職課程」と「進路希望調査票」が、少しだけ重なっていた。
*
夕飯から少し時間がたったころ、居間にはちゃぶ台と湯飲みだけが残っていた。
「父さん、ちょっといい?」
政雄は自分の席に座り、進路希望調査票を差し出した。
「学校で、こういうの出すことになって」
父は黙って紙を受け取り、目を通す。
第一希望大学の欄に書かれた、国立大の名前と「経済学部」の文字。
「……経済か」
小さくつぶやき、指で大学名をなぞる。
「どうして、ここなんだ」
声は低いが、責める調子ではない。ただ理由を確かめようとしている。
「家から通える国立だと、ここしかないから」
政雄は、必要なことだけを並べた。
「私立は授業料とか入学金の負担が大きいし、
下宿すると家賃とか生活費まで増えるよね。
今のうちの家計だと、それは現実的じゃないと思う」
父は、うなずきも首を振りもせず、紙を見続けている。
「今は姉さんも大学に行っていて、二人分って考えると、
私立とか下宿までお願いするのは無理だな、って」
「だから、“大学に行く”なら実家から通える国立一本、ということか」
「うん」
父は紙から目を離さないまま、もう一つだけ聞いた。
「学部は、どうして経済なんだ」
「法学と経済で考えていたんだけど、家から通える国公立で、法学部がある大学はなかったんだ。
通える国立だと、この経済学部しか選べないから」
「今の成績で、その大学はどうなんだ」
「たぶん、受かるかどうかのギリギリくらい。
模試だと、悪くてBで、よくてAの下のほう。
このままでも、うまくいけば合格ラインに乗るかもしれないけど、“確実”ってほどじゃない」
「この一年で、どうするつもりだ」
「“たぶん受かる”くらいの位置を、“確実に受かる”ところまで持っていきたい。
そのつもりで勉強する」
父は紙を見たまま、少し間を置いた。
「浪人は、考えていないのか」
「考えてない。
家の負担のことを考えてもそうだし、自分でも一年引き延ばしたくない」
「私立は、受けないんだな」
「受かっても通えないから、受けない」
一度そこで言葉を切り、短くまとめる。
「だから、家から通えるこの国立一本。
受かったら大学、落ちたら就職」
父は、小さく息を吐いた。
「……一回、冷静に考えなさい」
短くそう言ってから、続ける。
「お前が本気で行きたいなら、お金のことはこっちで何とかする。
本当にそれでいいのか、もう一度ちゃんと考えてみなさい」
「分かった」
政雄は紙を受け取り、自室に戻った。
*
机の上に進路希望調査票を広げて、政雄は椅子にもたれた。
選べる道は、多くない。
家から通える大学に行くなら、この国立の経済学部。
大学に行かないなら、高校を出て就職。
浪人はしない。
私立も受けない。
下宿も無理。
前の人生で、なんとなく選んだ私立のよく分からない学部で、
「入れそうだから」という理由だけで決めたことを、何度も悔やんだ。
今度は、そういう決め方だけはしない。
「大学に行くなら、ここしかない。
ここを外すなら、大学には行かない」
頭の中で、もう一度だけはっきり言葉にしてみる。
そのうえで、「それでいいか」を自分に聞く。
老後の暮らし方のこと。
これから先、どう働きたいかなんて、まだ具体的には見えていない。
それでも、「ここまではやった」と言えるところまでは、やっておきたい。
家から通える国立一本。確実に受かるところまで持っていく。
落ちたら、そのときは就職して別の目標達成ルートを探す。
「……うん。やっぱり、これしかない」
小さくそうつぶやいて、調査票をもう一度見下ろした。
*
翌日の夕食後。
ちゃぶ台の上に湯飲みだけが残り、台所からは水の音が聞こえていた。
「父さん」
政雄は、自分の席から進路希望調査票を取り出し、ちゃぶ台の真ん中に置いた。
「昨日のやつだけど、もう一回だけ」
テレビのスイッチに手を伸ばしかけていた父が、こちらを見る。
「一晩、いろいろ考えたけど、やっぱりこれで行く」
父は紙を手に取り、第一希望大学の欄をもう一度確かめた。
国立大の名前と、「経済学部」の文字。
「国立○○大、経済一本。
浪人しない。私立も受けない。落ちたら就職」
自分の口で、もう一度きちんと並べる。
父は、しばらく黙って紙を見ていた。
「……他の道も、考えたか」
「考えた。就職とか、別の大学とか、一応は全部」
「それでも、これしかないと思うんだな」
「うん。
家から通える大学に行くって決めた時点で、ここしか残らないし、
それをやめるなら就職して早く社会人になる」
父は小さく息を吐き、ほんのわずかだけ表情をゆるめた。
「そうか」
短い言葉のあと、ひと呼吸おいて続ける。
「じゃあ、それでいい。
国立の経済一本で行くって、お前が自分で決めたんだな」
「決めた」
「“落ちたら就職”も、自分の言葉だと思っておきなさい。
あとになって“やっぱり浪人”とか“やっぱり私立”とか、簡単には言えないぞ」
「言わないよ」
父はうなずき、湯飲みを手に取った。
「じゃあ、あとは一年、体だけ壊さないようにな」
「うん」
それだけ言うと、父はテレビのスイッチを入れた。
ニュースの音が、居間に静かに広がっていく。
ちゃぶ台の端に置かれた進路希望調査票だけが、そこに取り残されていた。
そこに書かれた大学名と学部名を、政雄はもう一度だけ目でなぞる。
国立一本。落ちたら就職。
それは、きれいな夢でも、派手な宣言でもない。
前の人生の最後に願ったことから逆算して、今の自分が選んだ、ただの条件だった。
その条件を、一年間ちゃんと背負ってみる。
それが、高三の春の、自分なりのスタートラインだった。




